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ジギャン クマル タパさん (ネパール出身) 
(公益財団法人かながわ国際交流財団) 


財団職員と通訳の二束の草鞋
消えない母国への思い


画像の説明


 かながわ国際交流財団職員として国際交流イベントなどの企画に携わりながら、ネパール政府公式通訳というもう一つの顔を持つ。来日したネパールの外務大臣や駐日ネパール大使などに通訳として同行するなど、二束の草鞋を履いて多忙な毎日を送る。横浜国立大学の博士課程在籍中から政治、経済、文化などに対する造詣の深さを評価され公式通訳を続けて8年になるが、通訳として報酬は一切受け取っていない。「お金の問題じゃない。日本で勉強して両国の橋渡しができる。ネパールへの恩返しがしたい」と話す胸のうちには、母国ネパールへの熱い思いが秘められている。
 
 日本と初めて関わりを持ったのは約30年前のこと。青年海外協力隊としてネパールに派遣された日本人青年が2週間家にホームステイした時だった。ネパールの防災作業に関わる青年の姿を見て、「彼みたいな国際的な仕事がしたいと子供ながらに夢みていた」と思い返す。「私にとって日本人といえばあの人」と話すように人生に大きな影響を及ぼした出会いだった。
 
 それから10数年が経った2000年に秀明大学(千葉県)に留学するチャンスを得た。1990年代後半、駐ネパール日本大使館の専門調査員を務めていた同大学の教授が、「ネパールを良くするには若者を日本に呼んで勉強してもらうことが一番だ。ネパールから学生を連れてきたい」と大学の経営陣を説得。ネパール現地の新聞に広告を出して学生を募集したのだ。
 
 現地の大学に通いながら日本留学を目指していたところ、その広告を目にして応募。見事試験に合格した。しかし、通常より学費は安くしてもらったものの、年間の授業料は約40万円。日本行きの航空チケットも高額で頭を抱えた。当時のネパールの国立大学の学費は年間約1200円で、それと比べると想像できない程の金額だ。「あまりに高額で親に相談出来なかった。バイクを売ったお金とアルバイトで貯めた貯金で何とか購入した片道チケットを手に日本に留学した」と振り返る。
 
 将来の方向性が見えてきたのは秀明大学4年生の時だった。卒業を控え、「このままでは何のために留学したのか分からない」と考えるようになった。そこで、文部科学省の国費留学生に選ばれたことも重なり、以前から関心があった「ネパールの地方開発」に役立つ分野を研究するため、地方自治研究で有名な教員が在籍する横国大への進学を決めた。 
 
 ネパールの地方自治に関心を持つようになったのはまだネパールにいた1998年のこと。山村地域の学生に奨学金を届けるインターンシップに参加したことがきっかけだった。
 
 当時のネパールはまだ銀行や交通網が整備されておらず、奨学金をわざわざ手渡しで届けにいかなければならなかった。首都カトマンズから夜行バスに乗って長距離移動をした後、早朝からひたすら山の谷間の川を突っ切りながら前に進んだ。道なき道を進み、川を横断した回数は22回に及んだ。勾配が激しい山を越えて、やっとのことで目的地の村に到着した。何もない貧しい田舎の山村だったが、そこで出会ったのは素朴で優しい心を持つ人たちだった。奨学金を届けただけの自分に「ご飯を食べていきなさい」、「うちに泊まっていきなさい」と歓迎してくれたのだ。村の人たちの優しさに感動する一方で、自分が生まれ育った首都カトマンズと地方の間にある激しい格差に衝撃を受けた。一生村から出ることもなく貧しい生活をしなければいけない状況を目の当たりにしたのだ。日本留学後もネパールの地方への思いは消えなかった。
 
 来日後、47都道府県を全て見て回ったが、「ネパールと比べると、日本の地方はこれでもかというくらい恵まれている。財団の職員として、日本の子供達の国際意識を高める仕事は大きなやりがいだが、ネパールの子供達はスタートラインにも立っていないと感じることも多い。子供達が『この地域に生まれたから自分は恵まれてない』と思うことがあってはならない」と語気を強める。
 
 現在ネパールは国づくりの途上で、国の根幹をなす憲法の制定が議会で議論されているところだ。今後徐々に法律や制度が確立されていくが、「地方自治法を作る時期を迎えたら母国で専門を活かして貢献する」と夢を描く。子供のころ夢見た日本人青年のように、これからは自らが子供たちの夢を育む番だからだ。「努力しないと夢は夢で終わってしまう」と語る目は、ネパールの輝く未来を見つめている。


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