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大山捨松 
(おおやますてまつ) 

「鹿鳴館の花」と呼ばれて 
日本初の慈善バザーの実施  会津と薩摩の仇同士の結婚 

  欧化政策のシンボルである鹿鳴館、その花と呼ばれた大山捨松。彼女は11歳でアメリカに渡り、留学生活は11年間に及んだ。帰国後、官費留学生としての自覚を片時も忘れず、国家のお役に立ちたいという一念で生活した。ボランティア精神を日本に最初に持ち込んだ人物でもある。

日本初の女子留学生

大山捨松

  1871年11月12日、日米両国の旗を掲げた郵便船アメリカ号が、大勢の人々に見送られて横浜港をアメリカに向かって出発した。明治新政府が樹立してわずか3年後のことである。この船には、欧米に学ぶために派遣された政府の要人が多数乗船していた。いわゆる岩倉使節団である。
  この船に5人の日本人少女が同船していた。アメリカ留学のために政府が派遣した日本最初の女子留学生である。大山捨松はその一人であり、当時11歳。驚くべきことに、一緒に留学した津田梅子は、なんと7歳の若さであった。さらに驚くべきことに彼らの留学期間は10年間。捨松や津田梅子の場合1年間延長したので、11年間の留学であった。
  捨松の幼名は咲子と言う。捨松という名には、娘を長期間異国へ送る母の決意が込められている。お前を「捨てた」つもりでアメリカに送るが、学問を修めて帰ってくる日を心待ちにして「待つ」という気持ちであった。
  帰国後、捨松は陸軍卿大山巌と結婚し、社交界に華々しくデビューした。アメリカ仕込みの立ち振る舞い、流暢な英語、日本人離れしたプロポーション、たちまちにして人々の注目を集め、「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。この鹿鳴館は外国人の接待所として作られた建物で、毎晩のように晩餐会、舞踏会が開かれていた。
  しかし、捨松は浮かれていたわけではない。官費留学生であることを片時も忘れたことがなかった。日本の欧化政策のお役に立ち、婦人の地位向上のために貢献したい。そのためならば、毎晩でも夜会に出る。その一念であったのだ。溢れる愛国心のゆえに、彼女はあえて「鹿鳴館の花」になったのである。
 彼女は自分の立場を最大限利用して、日本の女子教育の向上のため尽力した。その他、アメリカで学んだボランティア精神で、女性ならではの福祉活動を数多く行った。

会津戦争

  捨松は1860年、会津藩(現在の福島県会津若松)の家老職の山川家に末娘として生まれた。会津は幕末、徳川幕府側に立って政府軍と最後まで戦ったため、朝敵(天皇の敵)とされ辛酸をなめた歴史を持つ。捨松も8歳の時、この会津戦争を体験した。家族と共に城に籠もって、弾薬運びなどを手伝ったのである。
  8歳にして死ぬ覚悟はできていた。娘たちは母と約束していたことがあったという。誰かが重傷を負ったならば、武士の道にならってその首を切り落とす、と。足手まといにならないためである。
  ある日、義理の姉(兄嫁)が敵の砲弾を受けて倒れ、捨松たちの目の前で苦しんでいる。もはや助かる見込みはない。義姉は絞り出すような声で、「母上、どうか私を殺してください。私たちの約束をお忘れですか。あなたの勇気はどこへ行ってしまったのですか。早く私を殺してください。お願いです」と頼み込んだ。しかし、母はすっかり動転して、約束を守る勇気を持ち合わせてはいなかった。義姉は悶絶の苦しみを味わいながら絶命したのである。この一部始終を捨松は脳裏に刻み込んだ。幼くして地獄を体験し、恐いものは何もなくなっていた。
  不思議なことに、このとき会津を攻めた政府軍の中に、後に夫となる大山厳(薩摩藩出身)がいた。会津と薩摩、この怨念とも言うべき両藩の二人が、運命の糸に導かれながら出会い、結婚する。藩意識を越え近代国家を建設しようとする日本にとって、この夫婦は一つのシンボルとしての役割を担っていたのかもしれない。

生涯の友アリスとの出会い

  11年間の米国留学が、捨松にとって幸いだったのは、レオナルド・ベーコン牧師の家に引き取られたことであった。ベーコン牧師は奴隷解放の運動家として知られており、ニューヘイヴンの人々から尊敬と信頼を集めていた。ベーコン家で捨松は、「お客様」としてではなく、一人の娘として惜しみなく愛情を注がれ、教養ある娘として育てられたのである。16歳の時、洗礼を受けたのも自然の成り行きであった。
  このベーコン家に、捨松より2歳年上で生涯の友となるアリスという名の末娘がいた。父の影響で、中学生の頃から人種差別と戦い、黒人の子供たちの教育に打ち込んだ女性である。このアリスの姿を見ていた捨松は、日本に帰ったら自分も学校を作ろうと考えるようになった。アリスと二人で女子のための学校を作り、日本の女子教育の向上に貢献したい。これが二人の夢となった。
  帰国後、大山厳と結婚した捨松は、自分自身が教育者になる夢はきっぱりと捨てたが、学校建設の夢は少しも衰えなかった。その夢を一緒に留学した津田梅子に託し、政府高官夫人としての自分の地位を最大限利用して梅子を助けようとした。そうすることが自分に課せられた一つの義務と感じていたからである。
  1900年9月14日、ついに女子英学塾(後の津田塾大学)が出発した。塾長は津田梅子、顧問に大山捨松、そして2度目の来日中であったアリスも教師として参加した。生徒数10名での出発だったが、彼ら3人は希望に胸を躍らせていた。

アワー・ソサイアティ

  捨松が暮らしたニューヘイヴンには、「アワー・ソサイアティ」(私達の会)という会があった。これは上流階級の女性たちによって設立され、貧困の女性や子供たちを助けることを目的としていた。
  この会の会員であったアリスのゲストとして、捨松は始終この会に参加した。赤ん坊のおむつを縫ったり、子供服を作ったりしながら、彼女はボランティア精神の何たるかを学んだ。女性でも社会貢献できる道がある。否、する義務があると感じた。
  この時の体験がもとになり、日本最初の慈善バザーが鹿鳴館で開催された。大山巌と結婚して2年後のことである。捨松は政府高官の夫人数名と有志共立東京病院(現在の東京慈恵会病院)を参観した。彼女がそこで見たのは、男性が病人の世話をする姿であった。外国では考えられないことであった。驚いた捨松は、すぐ院長に質問した。「女性のほうが、きめ細かな看護に向いているし、病人にしても女性のほうが気持ちが和むのではないか」と。院長の答えは、経費不足のため、看護婦養成所を作れないというものであった。
  この時捨松は、アワー・ソサイアティでの体験を思い出した。看護婦養成所の設立を目的としたバザーを開催してみよう。捨松の行動は早かった。わずか3ヶ月足らずの準備で日本初の「鹿鳴館慈善バザー」が3日間開催された。
  今でこそ、バザーはどこでも頻繁に見られるものとなっているが、当時としては画期的なことであった。人助けのために働いて金を集めるという発想がなかった時代である。それに上流階級の人々の間には、お金は商人が扱う卑しいものと考えられていた。その夫人や令嬢達が店を開いて商人のまねごとをするのである。捨松はアメリカでの体験を語りながら、夫人達の意識改革から始めなければならなかった。
  バザーは大盛況の内に幕を閉じた。3日間の入場者数は1万2千人にのぼり、収益金は当初目標の千円をはるかに超え、8千円に達した。大学教師の給料が月30円前後の時代にあっては膨大な額である。捨松はこのお金を約束通り全額、有志共立東京病院に寄付したことは言うまでもない。

大山巌夫人として

  帰国後、捨松は失意の日々を過ごした。11年の勉学を終えて帰国した捨松や梅子に対して、国は何の計画も持ち合わせてはいなかった。学んだ大学は、ヴァッサーカレッジ。アメリカで最も権威のある質の高い女子大学と言われていた。そこで学士号を取得したばかりではなく、捨松の成績は常にトップクラスであったのだ。
  しかし文部省は彼女が女性であるという理由で大学で教えることに難色を示したという。当時女性の社会進出には、まだまだ厚い壁があったのである。失意の日々を過ごしながら、彼女の心は徐々に結婚を意識するようになる。日本では、女性は結婚するしか生きる道がないのでないか。そんな気持ちになっていた。
  帰国してちょうど1年後の1883年11月8日、捨松は陸軍卿大山巌と結婚した。陸軍のトップとアメリカ帰りの才女、誰が見ても羨む結婚である。しかし、多くの困難が伴うものでもあった。まずは年の差である。大山巌43歳、捨松24歳、18歳の年の差があった。その上、大山には3人の娘があった。先妻が3人目の娘を生んですぐ、産褥熱のため23歳で死亡したのである。妻を失い途方に暮れている大山に、捨松との結婚をすすめたのは岳父(先妻の父)である。孫娘達を不憫に思い、大山の後妻を探していたのだ。そんな岳父の目に止まった女性が捨松だった。
  この結婚の最大の壁は、家族の反対だった。薩摩は会津の宿敵。地獄の苦しみを味わった日々を忘れることができない。相手はその怨念の薩摩出身、それも軍人である。山川家としては受けるわけにはいかない。きっぱりと断った。
  この説得をかってでたのが西郷従道(西郷隆盛の弟)である。彼は山川家に何度も足を運び、時には徹夜の説得も辞さなかったという。「今は日本人同士が敵だ味方だといって争うときではない。一般の人の模範となるように昔の仇同士が手を握って新しい日本の建設にあたるべきではないか」と力説した。
  婚約後、捨松はアリスに手紙を書いている。「私は今、未来に希望が持てるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じられることは、ともすれば憂鬱になる気持ちを癒してくれるし、勇気を与えてくれます。ある人の幸福が全て私の手にゆだねられている。そしてその子供達の幸福までが私の手の中にあると感じられる、そんな男性に私は出会ったのです」。
  大山巌は、物事に動ぜず、争いを嫌う、海のように心の広い人物だった。芸者遊びなどを好まず、家族と過ごす時を大切にした。何よりも妻と子供達を愛していたのである。捨松が官費留学生として日本のお役に立ちたいと考え、それを立派にやり遂げることができたのも、夫の支えがあったからである。
  1916年12月、大山巌が75年の生涯を終えた。夫を見送って2年後、捨松は夫の後を追うかのように人生の幕を下ろした。葬式の場に、津田梅子の姿があり、人々の涙を誘った。病床の身でありながら、友人達に支えられて最後の別れを告げに来たのである。捨松なくして、女子英学塾はあり得なかったし、50年近く姉のように慕ってきた存在を失った、梅子の悲しみは大きかった。捨松は夫の眠る大山家の墓に埋葬され、夫のいる永遠の世界へと旅立った。享年60歳。



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