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渋沢敬三 
(しぶさわけいぞう) 

向学新聞2008年1月号>

渋沢敬三


学問研究のパトロンとして 
叶わぬ民俗学者への夢  渋沢家の重圧 

  銀行家渋沢敬三は、祖父栄一の築いた渋沢財閥の重圧から逃れるかのように民俗学にのめり込んでいった。しかし、学問の道は銀行業とは所詮相容れないものである。3年に及んだロンドン生活を終え、彼は学問を側面から支援するパトロンの道を決意して帰国した。

渋沢栄一の孫として

  渋沢敬三は自分のことを「得たいの知れない男である」と言っている。銀行家でもあり、政治家でもあった。しかし彼自身の気持ちを素直に表せば、むしろ民俗学者であった。
  近代化以前の日本人の生活・風俗に関心を持ち、その研究を続けた。かつてこの日本列島のどこにでもいた美しい日本人、誇るべき日本人。彼らに対する愛こそが、彼の民俗学研究の動機となっていた。自分が研究できない時は、在野の研究者のパトロンとなって、彼らを支援し続けたのである。

19歳で社長に

  渋沢敬三は、1896年8月25日、東京の深川で生まれた。祖父は「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。父はその嫡子(跡取り)である篤二、母は公家出身の橋本敦子である。この二人の結婚は、当初から暗い影を帯びていた。篤二は、渋沢家の嫡子としての重圧からか、放蕩三昧の人生を送った人物であったからである。敬三の幼い頃から、すでに父は深川の家に寄りつかない状態であった。そんな敬三を祖父栄一は寵愛した。父のいない孫を不憫に思ってのことばかりではない。息子へ向けた期待を孫に向けたからであろう。それは、渋沢家の重圧が、そのまま敬三に受け継がれたことを意味する。
  ついに運命の時が訪れた。栄一が、篤二の廃嫡(相続権の喪失)を正式に命じたのである。1913年のことで、このことは17歳の敬三を苦しめた。父が廃嫡となれば、その相続権は自分に回ってくる。これで自分の将来がすべて絶たれたように敬三には感じられた。中学卒業を目前に控えた時期のことで、卒業試験に臨んでも何も手に付かず、落第の憂き目を見るほど、心の動揺は大きかった。
  敬三の夢は、将来動物学者になることだった。しかし渋沢家の跡取りである以上、それは叶わぬ夢であった。仙台二高に進学した敬三は、理科を志望するつもりであったが、栄一はそれを法科に変えさせた。自分が創設した第一国立銀行(後の第一銀行)の跡を継いで欲しかったからである。19歳の敬三の前に正装して対座した75歳の栄一は、「どうか私の言うことを聞いてくれ。この通りお頼みする」と言って、頭を畳にすりつけんばかりに深々と下げ、敬三に懇願したという。
  抗えない運命の流れに身を任せ、敬三は動物学の夢を捨て法科に進学した。同年、渋沢同族会は会社組織に改められ、初代社長に敬三が就任した。弱冠19歳の社長が誕生した。

民俗学に傾倒

  父の廃嫡が決まり、敬三の精神がきわめて不安定な時期、彼の心を慰めたのは民俗学に他ならなかった。それは日本民俗学の創始者、柳田国男との出会いがきっかけであった。民俗学への傾倒ぶりは、自分の屋敷の屋根裏部屋に動植物の化石や郷土玩具などを蒐集したアチック・ミューゼアム(後の日本常民文化研究所)を作り上げてしまうほどであった。
  東大経済学部卒業後、敬三は横浜正金銀行に入行した。ロンドン支店勤務を命じられたのは、その翌年の1922年のこと。敬三のロンドン生活は、約3年間に及んだ。すでに民俗学に目覚めていた彼は、時間を見つけては、ヨーロッパ各地の博物館、美術館巡りを行い、研鑽を積むことを怠らなかった。しかし研鑽を積めば積むほど、渋沢家当主としての位置が重くのしかかる。学問への憧れは、日増しに募るばかりである。この葛藤の中で、彼が選び取った道は、学問の世界を側面から支援するパトロンの道であった。
  帰国後、敬三は横浜正金銀行を辞め、祖父の興した第一銀行に入行した。仕事の合間、暇を見つけては旅に出て、民俗学の基礎となるフィールドワーク(野外調査)を行った。「銀行の仕事は一度も面白いと思ったことはない」と語っていた敬三にとって、フィールドワークの旅と在野の研究者を育てることだけが、生き甲斐であったのだ。単に金銭的な支援をするだけではない。彼らの持てるもの全てを吐き出させ、彼らを独創的な研究へと仕向けるのである。
  それが可能だったのは、彼の学問的資質はもちろん、その人柄に負うところが大きい。飾り気のない人柄、人を包み込む包容力、そして何よりも謙虚であった。彼と会った者は誰もが、その人柄に心打たれたという。葛藤の連続の日々を耐えて、鍛え抜かれたがゆえに、円熟した人格の魅力を醸し出していたのであろう。

宮本常一との出会い

  敬三の世話になった研究者は、生物学者の今西錦司、考古学者の江上波夫をはじめ、数え上げればきりがない。その中でも、彼が最も目をかけた研究者が、『忘れられた日本人』などの著書で有名な宮本常一であった。二人の出会いは1935年、敬三が当時39歳の時。第一銀行常務であったが、民俗学者としてすでに名の知られた存在であった。一方、宮本は28歳。小学校で教鞭をとる傍ら、民俗学を学ぶ駆け出しの研究者にすぎなかった。その会合で、民俗学の何たるかを諄々と語る渋沢の情熱に触れ、宮本は強烈な衝撃を受けた。
  敬三に見込まれて、アチック入りを勧められたものの、実際に入所したのは、敬三との最初の出会いから4年半後の1939年10月である。妻子を抱える貧乏暮らしの身で、教師の定収入を失うことにやはりためらいがあったからである。その決断を促したものは、敬三の宮本への熱い思い入れに他ならなかった。
  敬三は諭した。「本当の学問が育つためには、よい学問的な資料が必要だ。特に民俗学はその資料が乏しい。君にはその発掘者になってもらいたい。報われることが少ない仕事だが、君はそれに耐えていける人だと思う」。
  敬三の話を聞きながら、宮本は体の震えが止まらなかった。生涯のテーマと生涯の師を得た感動が、彼の全身を覆っていたのである。宮本は、敬三の期待に見事に応えた。日本列島の隅々まで歩き、漁民、農民など一般民衆の生の声に耳を傾け、それを記録した。特に近代化以前の日本人の暮らしをこれほど多く書き残した記録は他に例がないと言われている。今日、宮本民俗学としてその不動の評価を得ている所以である。

ニコニコして没落

  1942年3月、敬三は日銀副総裁に任命された。太平洋戦争に突入した直後のことである。就任依頼があったとき、敬三は断固として辞退した。しかし、時の首相は東条英機、戦時内閣である。東条は「君はいつまでもぐずぐず言っているんだ」と凄み、就任を迫った。渋沢家の跡取りとして願わざる銀行業に就いた敬三は、今度も半強制的に政治の世界に足を踏み入れることになる。そのことを敬三は「東条に強姦された」と語った。
  戦時下の日銀に課せられた役割は、軍の圧力により無制限に赤字国債を出し続けることであった。2年後、総裁に就任しても、敬三が手腕を発揮できる余地は皆無である。軍の政策にただ従順に奉仕する日々。それは金融政策の舵取りを託された日銀総裁として、良心を捨てる行為に他ならなかった。
  戦後の敬三は、軍に屈した自らの罪を直視し、その責めを受けて生きる決意をする。終戦の2ヶ月後に発足した幣原喜重郎内閣で大蔵大臣就任を引き受けたのも、自分を罰する覚悟があったからである。自らが引き起こした大インフレーション、その罪業のただ中に身を置くことで、自分を罰する道があると思ったのであった。
  GHQ(占領軍)が財閥解体を命令したときも、敬三はこれに進んで従った。後にGHQは調査をし直し、渋沢同族会社は財閥に相当せずと通告してきた。願い出れば財閥解体から免れるというもの。しかし、敬三はあえてその手続きをしようとしなかった。彼は言った。「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷に百姓に戻ればいい」。深谷とは祖父の出身地の深谷市(埼玉県)のことである。
  財産税(1946年のみ実施)に対する態度でも回りを驚愕させた。敬三は5千坪(約1万5千平方メートル)の渋沢家の豪邸を惜しげもなく物納してしまった。そして、自らは敷地内の片隅にある執事が使っていた小屋(3間)に移り住んだ。「3百万人もの人が死んだのだから、このくらいのことは当たり前のことだ」と言って平然としていた。
  敬三は大蔵大臣辞職後、公職追放令により全ての公職を失った。残ったわずかな土地にキャベツやサツマイモを栽培していたという。訪れる者があると、手製の野菜料理でもてなした。その表情には悲壮感はなく実に晴れやかで、訪問者を驚かせた。地位も財産も失うことは、敬三にとって渋沢家の重圧から解放されることであったのかもしれない。

日本の学問発展に貢献

  渋沢家の跡取りとして、敬三は望まない人生を送らざるを得なかった。晩年の敬三は宮本常一に思い出を語り、宮本がそれをノートに取るという日課であった。そんなある日、「また、うけたまわりましょうか」と言って、宮本がノートを広げた時のこと。敬三は黙って目を閉じ、その目から一筋の涙が頬をつたって流れ落ちていくのが見えたという。内奥深くに閉じこめてきた、辛い過去が蘇ったのであろう。
  敬三が一番大切にしたかったことは学問であった。彼自身、その道を極めることはできなかったが、多くの学者を支援し育てることで、日本の学問発展に多大な業績を残すことに成功した。学界のために敬三がつぎ込んだ金は、現在の貨幣価値に換算して、百億円近くなると言われている。
  その中でも宮本常一という民俗学者を発掘したことは、特筆されるべきであろう。宮本の業績は、敬三がいなければ間違いなく生まれなかった。そのことを一番よく知っていたのは、宮本自身であった。彼は誰に対しても、「渋沢先生は、私の学問ばかりか、人生の師です」と言っていた。そしていつも枕元に敬三の写真を置いて眠りについたという。二人の師弟の絆は、それほどに強かったのである。敬三の学問への情熱は、宮本常一において開花し、実を結んだと言うべきであろう。1963年10月25日、渋沢敬三は波乱の人生に幕を下ろした。享年67歳。

<関連>
・渋沢栄一 (向学新聞2002年6月号)
・今西錦司 向学新聞2006年4月号)


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