白瀬矗 
(しらせのぶ) 

日本人初の南極踏破 
11歳の決心  南極に生き、南極に死ぬ  

人がまだ足を踏み入れたことのない前人未踏の地に行ってみたい。こんな夢を11歳で抱いた白瀬矗は、その夢の実現に向かって、生活のすべてを捧げた。その夢が共感を呼び、同志と賛同者が集まってきた。次々と襲う困難も、彼の素志を挫くものにはならず、ますます強固となっていく。

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極地探検の倫理綱領

白瀬矗

  白瀬矗は陸軍中尉で、日本で最初に南極を踏破した探検家である。南極観測船「しらせ」や白瀬海岸と呼ばれている南極ロス海棚氷の東岸、また昭和基地近くにある白瀬氷河、これらはみな白瀬の功績を讃えて名付けられたものである。
  白瀬矗の誕生は、1861年6月13日、秋田県の由利郡金浦村(現在のにかほ市)。父の知道は浄土真宗浄蓮寺の住職で、その妻マキエとの間の長男として生まれ、幼名は知教といった。満8歳の時、知教少年は、近所にある佐々木節斎が教える塾に通い出した。節斎は、しばしば子供たちにコロンブス、マゼランなどの探検家の話をしたという。子供たちは、話に引き込まれ時が経つのも忘れるほどであった。その中で、最も強い感化を受けたのが、知教少年その人であった。彼が節斎の話に感動し、北極探検を決意したのは、なんと満11歳の時である。
  知教は節斎に尋ねた。「北極探検を是非やってみたいのです。実行の方法を教えて下さい」。師は、「お前はまだ子供だ」と言って、相手にしなかった。知教は、それで引き下がるような少年ではなかった。師に一週間まとわりついて、熱心に懇願したという。根負けした節斎は、五ヶ条の必要条件を示した。①酒を飲んではいけない。②煙草を吸ってはいけない。③お茶も飲んではいけない。④お湯も飲んではいけない。⑤寒中にも絶対に火に当たらぬようにすること。
  この日から、知教はこの師の教えを自らの倫理綱領として、これを生涯守り通した。東北の冬は厳しく、火気なくして生きられない。しかし、知教は厳寒の冬でも、火鉢から遠ざかり、お茶、お湯は一切これを避け、温かいご飯も、みそ汁も、すべて冷めてからでないと口にしなかった。北極探検という素志を貫くため、修行僧のような生活を生涯貫くのである。後に僧侶になるための学校を辞め、軍籍に身を置いたのも、北極探検には心身を鍛えなければならないと考えてのことであった。入隊直後、名前を改め、「矗」とした。「高く聳える」という意味で、極地探検の志を決して忘れまいとする決意の表れであった。彼の生活のベクトルは、すべて極地探検という一点に向けられていたのである。

千島探検へ

  北極を目指すに当たり、白瀬が当面の目標としたのは千島探検であったが、そのきっかけとなったのは、上官であった児玉源太郎の一言であった。29歳の白瀬が仙台に勤務していたときのこと。北極探検の夢を語る白瀬に対し、児玉は、「そんなに北極に行きたいのなら、まず千島に行くことだ。極寒と闘って身を鍛え、自信と経験を作ることだ」と諭し、「素志を貫き、一生の事業としてやるがいい」と励ました。
 千島行きが実現したのは、児玉と出会ってから3年後の1893年。それは自前の探検隊ではなく、千島拓殖計画を進めていた郡司成忠海軍大尉の千島遠征隊に合流するというものであった。郡司の遠征隊は、国民全般が抱いていたロシアの脅威に煽られて、熱狂的支持をえていた。無一文の白瀬が千島探検を果たすには、郡司に合流するしか他に方法がなかったのである。
 郡司の遠征隊は、東京湾を出港したものの、函館に着くまでの期間で、予期せぬトラブルに襲われてしまった。青森県の沖合で暴風雨に襲われ、合計19名の乗組員(総勢80名)が命を落としたのである。しかし、これは悲劇のほんの序章にすぎなかった。
 函館で郡司の遠征隊と合流した白瀬は、すっかり意気消沈していた郡司の姿に驚いた。隊員の中に反抗者が現れ、千島探検どころではない。不満渦巻く隊員に向かって、白瀬は一喝した。「鎮まれ!諸君は武士の情けを忘れたのか。困り切っている上官に対して、数を頼りに不穏なる態度に出るとは何ごとか!」。そして郡司に向かって言った。「どうか弱気にならないでいただきたい。ここで中止するのは、亡くなった19名の犠牲者を犬死させる結果になりはしませんか」。郡司は白瀬の熱意に心打たれて、再び千島を目指す決意を固めたのである。

占守島の悲劇

  一行が目指したのは、千島列島最北端の占守島。全島の地勢、土壌、気象などの調査と外国密漁船の監視などを目的としていた。1893年8月31日、ついに遠征隊一行は占守島の土を踏んだ。一同、声を震わせて嗚咽し、万歳三唱を叫んだが、それは次なる悲劇を告げる合図であるかのように、災難が続く。捨子古丹島に残留した隊員9名全員の死亡が伝えられた。水腫病という千島特有の風土病で、水ぶくれで腹が太鼓のようになって死んでいく病気である。
  郡司、白瀬ら7名が占守島で越冬することになったが、無事越冬を果たしたその翌年、日清戦争が勃発。郡司は軍からの強い要請で帰還せざるをえなくなる。郡司は白瀬に残留を懇願し、白瀬も承諾。白瀬の他5人の隊員が残留することになった。占守島2年目の越冬である。その間、3人の隊員が死亡。やはり水腫病だった。その後、白瀬も水腫病を発病。激痛が全身を襲い、絶食状態が続いた。数日後には、なんとか食欲も回復し、快方に向かったのは、彼の鍛え抜かれた体力のおかげであったのだろう。
  水腫病に罹らなかったのは、二人だけだったが、内一人は仲間の死に動揺し、ノイローゼになってしまった。吹雪と積雪のため、戸外に遺体を葬ることもできず、小屋の中で遺体と枕を並べて同居せざるをえない状況の中では、精神を患うことも無理からぬことであった。しかし、足かけ3年に及ぶ占守島での想像絶する死闘の日々は、決して無駄にはならなかった。この惨憺たる体験のおかげで、白瀬は後の南極探検に耐え得たと言えるだろう。驚きなのは、白瀬の極地探検への意欲は、少しも衰えることはなかったことだ。

南極を目指して

  1909年、米国の探検家ペアリーが北極点到達。このニュースは世界の探検家に衝撃を与えた。白瀬も例外ではなかった。彼は、その時の心境を「この報道は、私の心臓を凍らせた」と書きしるしている。そして、ついに北極探検を断念、その正反対の南極行きを決断した。彼は前人未踏の地に行って見たかったのである。
  南極に向けて品川沖を出帆したのは、その1年後の1910年11月29日。5万人ほどの群衆に見送られての華々しい船出となったが、多くの不安要因を抱えていた。まずは船舶の問題。南極に向かう開南丸は、わずか204トンの小型船。アムンゼンのフラム号は355トンで、その船長は後に開南丸を視察して、驚嘆した。「自分たちでは南極はおろか、途中までさえ覚束ない」と言って、日本人の勇気と航海技術を称賛したという。
  さらに予算の問題。南極探検の請願書(資金の下付を願う)が国会の両院を通過したが、政府から補助金はついに下付されることなく、結局は後援会など民間の寄付に頼るしかなかった。それに隊長の白瀬の年齢は49歳。探検家として決して若くはなかった。
  開南丸は、1911年3月3日に南極圏(南緯66度30分以南)に突入した。しかし、この時点ですでに彼らの南極探検は、事実上不可能であることは明らかであった。26匹連れてきた樺太犬の内、21匹が死んでしまったからだ。死因は犬の腹中に寄生したサナダ虫であることは、後にわかった。生き残った5頭の犬で、南極大陸を犬ぞりで移動することはできない。その上、南極の冬(北半球では夏)が近づいていた。一行はついに大陸上陸を断念。一旦シドニーまで引き揚げ、再挙を企てることにしたのである。

学術探検に目的変更

  第二次南極探検隊が、27名の乗組員と日本から新たに調達した樺太犬30頭を搭載して、シドニー港を出発したのは、1911年11月19日。探検の目的をそれまでの南極点到達から学術調査へと大きく変更しての出発となった。これは後援会の意向が強く働いたものである。すでにアムンゼン、スコットは、南極に上陸している。彼らと極点到達を競うことは不可能という判断だった。
  彼らが開南丸を出て、南極の氷壁をよじ登り、ついに上陸を果たしたのは、翌年の1月19日。上陸した白瀬ら一行は、観測、調査を続けながら南進を続け、南緯80度5分(南極点は90度)、西経156度37分の地点をもって最終到達点として、引き返すことにした。この地点は、南極点へのほんの入り口にすぎなかった。しかし、学術探検を目的とした以上、これ以上の危険を冒すことは許されない。白瀬はその時の心境を「私は泣いて、使命のためにこれ以上の行進を中止した」と述べている。
  南極到達レースでは、アムンゼン隊に先を越された(前年の12月17日成功)が、白瀬隊も東方の西経151度20分の地点まで足を踏み入れており、東方に進んだ記録としては、当時の新記録を樹立していた。また、氷盤(周囲が高く中央部が凹んだ盆型の氷)発生の原理について新説を発表するなど、学術上の成果も少なくなかった。
  しかし、帰国した白瀬を待ちかまえていたものは、莫大な借金であった。死の最期に至るまで、この借金との戦いが続くことになる。白瀬は、隊員に支払う給与のため、家、土地はもちろん、軍服、剣までも売り払ったという。住居は転々として、十数回変わり、時には別荘の番人をしながら、食いつなぐ日々であった。また依頼があれば、南極で写したフィルム一巻を携えて、全国に映画講演旅行に赴いていたのである。
  85歳になった白瀬矗は、愛知県挙母町(現豊田市)に間借りした2階で妻やす子と一緒に淋しく暮らしていた。探検王と言われた面影もなく、栄養失調の身を床に横たえながら、「講和の日に間に合わなかったことが残念だ」と言って、妻と娘に見守られながら息を引き取った。1946年9月4日のことである。講和条約が結ばれ、日本が南極の領土権を有する日が来ることを一日千秋の思いで待っていたのである。
  晩年の悲惨な生活にもかかわらず、白瀬の生涯は決して不幸ではなかった。11歳で極地を踏破する夢を見て、それが実現できると確信し、その一点を目指して邁進した。それは多くの代償を伴うものであったが、その素志を曲げずに貫き通した生涯は、驚嘆に値する。文字通り南極に生き、南極に死んだ男であった。



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