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東日本国際大学学長 吉村 作治 氏

Top向学新聞>2015年10月号

東日本国際大学学長 吉村 作治 氏 


特別インタビュー


~ 幸運の飛行機______


        ピンチはチャンス ~


 日本におけるエジプト考古学の第一人者である吉村作治氏。1974年、エジプト・ルクソール西岸マルカタ南地区でアメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」を発見し一躍注目を集める。その後も200体のミイラ、太陽の船の発見などエジプト考古学史上に数多くの足跡を残す。今回は、エジプトに興味を持った少年時代から歴史的発見の舞台裏についてお話を伺った。


吉村作治氏

吉村作治氏



          



<プロフィール>
よしむら さくじ 1943年東京生まれ。東日本国際大学学長、早稲田大学名誉教授。工学博士(早大)。早稲田大学エジプト学研究所初代所長。専門は、エジプト美術考古学、比較文明学。エジプトはもとよりイスラム関連、エッセイ、小説、料理本等多岐にわたる分野で著書多数。公式HP『吉村作治のエジプトピア』



ダハシュール・赤ピラミッドの前で※一番左が吉村氏(株式会社アケト提供)

 ダハシュール・赤ピラミッドの前で
※一番左が吉村氏(株式会社アケト提供)

ハワード・カーターとの出会い


 10歳の時にハワード・カーターの『ツタンカーメン王のひみつ』を読んでエジプトに興味を持ちました。1922年にハワード・カーター(英国)がエジプト考古学史上最大の発見と称されるツタンカーメン王墓を発見し、20世紀になって数千年前の王墓から山のような宝が見つかったという出来事に非常にワクワクしました。
 初めてエジプトに渡ったのは1966年、早稲田大学3年生の時でした。当時日本でエジプト考古学を専門としている研究者はおらず、メソポタミアのシュメール文明を研究していた川村喜一教授に相談して遺跡発掘調査隊の隊長になって頂きました。しかしエジプトに行くまでが大変で、飛行機は高額で手が出せず、客船、貨物船などあらゆる移動手段を検討しましたが駄目でした。苦労の末、早稲田大学総長の支援を受けて石油会社のタンカーに無料で乗せてもらうことができました。川村先生を中心に学生5人がエジプトに渡り、日本人として初めてのエジプト踏破調査を半年間行ないました。



発掘権の取得


 エジプトに行けたからと言って簡単に遺跡が発掘できるわけではありません。まずエジプト考古庁から発掘権を取得する必要があったのです。当時はアメリカ、イギリスなどの欧米諸国だけしか発掘が許可されていませんでした。発掘権を得るためにはエジプト考古学に関する論文などの実績が必要でしたが、早稲田大学には実績もルートもなかったためゼロからの出発となりました。
 調査から帰国後、どうすれば良いか考えた結果、エジプト・カイロに滞在して交渉を続けるしかないと思い至り、単身カイロ大学に留学しました。留学中は毎日のように考古庁に通い詰めて交渉しましたが、窓口の担当者に冷たくあしらわれる日々が続き、発掘権の権限をもつ長官には会うことさえも叶いませんでした。
 そんなある日、奇跡とも言えるような幸運に恵まれました。カイロからルクソールに向かう飛行機に搭乗したところ、隣に座っていたエジプト紳士に「君は日本人のようだがエジプトで何をやっているのだね?」と話しかけられました。その紳士はなんとこれまでずっと面会を懇願してきた考古庁のモクタール長官でした。あまりの偶然に腰を抜かすほど驚きました。そこで遺跡の発掘権が取得できないかと相談したところ、話を聞いてくれるということで名刺を頂きました。カイロに戻って早速長官を尋ねましたが、日本の考古学をご存知なかったため許可を頂けず、「直接日本を見てもらうしかない!」と日本大使館に掛け合ってモクタール長官を日本に招待することになり、私も案内役として同行しました。
 日本は発掘が活発で、当時、約2万箇所近くで発掘が行なわれていました。日本の発掘現場を「これでもか!」と言うほど長官に見学して頂きましたが、考古学を目指す学生が一生懸命発掘をする姿に長官は心を打たれたようでした。私は発掘現場だけではなく日本文化にも触れて欲しいと、京都、奈良、箱根を案内し、毎晩のように日本についてレクチャーをしました。説得の切り札となったのが菊紋でした。菊紋は皇室の象徴で、エジプト王家の紋章もロゼッタ模様(花形の装飾モチーフ)と共通しているのです。ロゼッタ模様はエジプトの蓮の花紋がルーツとなり日本に伝わったのだと日本とエジプトの関係性の深さを強調しました。数々の努力の甲斐あって、カイロ大学に留学してから3年目の1971年、ついに考古庁から発掘権を取得することが出来ました。



歴史的発見


 発掘権の取得後、早稲田大学調査隊の一員として発掘に取り組みましたが、実際のところ3年間何も発見することが出来ませんでした。文部科学省から研究費として支給されていた科学研究費補助金(科研費)の支給期間が3年間だったため非常に追い詰められていました。いよいよ科研費が途切れる1974年1月、「もう駄目だ」と発掘を諦めかけていたところ、エジプト人の現地チーフスタッフが「もし遺跡が発掘できたら来年もエジプトに来てくれるのか?」と尋ねてきました。私は「遺跡が発掘できれば来年もエジプトに来る」と答えると、何と遺跡が発掘できる場所まで案内してくれたのです。よくよく聞いてみると、欧米の調査隊は遺跡を発見するとそれ以降エジプトに足を運ばなくなりエジプト人スタッフは働きぐちがなくなってしまうため、遺跡場所を知っているにも関わらず隠していたのです。しかし日本人は遺跡を発見できれば再びやってくるということで、彼らにとって大きなカルチャーショックだったようです。それで発見したのが彩色階段を持つアメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」でした。

彩色階段(株式会社アケト提供)

 彩色階段(株式会社アケト提供)

 歴史的発見だったため、日本の大手新聞社が派遣しているカイロ特派員に報告しましたが記事にしてもらうことは出来ませんでした。しかしまたも運命的な出会いが飛行機の中にあったのです。
 ある日飛行機で移動中、隣の席の男性が「何をやっているのかい?」と話しかけてきました。話を聞いてみるとAP通信の記者でした。発見した遺跡の歴史的価値を力説したところ、すぐに取材をしてもらい遺跡発見のニュースが世界中を駆け巡りました。そうすると日本の大手新聞社やNHKが慌てて取材にやってきて大きく取り上げてくれました。その結果、文科省からも「ぜひ発掘を続けてほしい」ということで科研費の継続が決まりました。



太陽の船

太陽の船(株式会社アケト提供)

 太陽の船(株式会社アケト提供)


 このように長らくエジプトと関わってきていますが、現在は、クフ王(三大ピラミッドのうち最大の大きさを誇るクフ王のピラミッドを造営)の太陽の船の復原を手掛けています。古代エジプト人は、毎日変わることなく繰り返される太陽の運行を永遠の秩序と捉え、太陽神ラーとして信仰していました。太陽神と同一視されていた古代エジプトのファラオは太陽神ラーと一緒にこの船に乗り、永遠に航行を続けると考えられていました。その船は太陽の船と名づけられ、対で作られていると伝えられていました。1954年にクフ王が建造した第1の太陽の船が発見されており、理論上はもう一隻あるはずですが誰も「理論と現実は違う」とその存在を信じませんでした。ですが、私は「必ずあるはずだ」と確信を持って調査した結果、1987年クフ王の大ピラミッドの南側で第2の太陽の船を発見しました。1993年に木片のサンプリングに成功しましたが、その後資金難で調査が中断。約15年の時を経てスポンサーが見つかり、2007年から太陽の船復原プロジェクトを再始動しました。



生涯現役


 発掘にはスポンサーが必要不可欠で最も苦労することの一つです。ハワード・カーターにもカーナボン卿という強力なスポンサーがいました。私はスポンサー探しのため人に会えば援助を依頼して鬱陶しく思われたこともあると思います。ですが私は決して諦めませんでした。ピンチはチャンスだからです。発掘作業はピンチの連続でしたが、その度に幸運を掴みチャンスに変えてきました。ですから私は協力者を募る際、いつも情熱をもってこう語りかけるのです。「私はツタンカーメンを発見した現代のハワード・カーターになる。あなたは現代のカーナボンになりませんか?」と。太陽の船の復原が終われば、次はクフ王の墓探しに挑戦します。現在72歳で世界最年長のエジプト考古学者ですが、きっと生涯現役を貫くことになるでしょう。



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