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TITLE:明石海人
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明石 海人 
(あかし かいじん)

ハンセン病の天才歌人

苦悩の果てに神秘体験  人間らしく生きる

 ハンセン病(ライ病)は、当時最も恐れられた病気であり、天刑(天罰)と言われた。その運命に抗いながらも、ついに運命を受容し、生きた証しを残した歌人こそが、明石海人である。晩年、ライ病になって悔いがないと詠った。「みめぐみは言はまくかしこ日の本のライ者に生まれてわが悔やむなし」。



ハンセン病を発症

明石海人 HP

 明石海人は歌人(短歌を詠む人)である。天才歌人と言われ、歌集『白描』はベストセラーとなった。同時に、彼は慟哭の歌人とも言われた。ハンセン病(ライ病)という重荷を抱えながら、短歌の創作を続けたからである。彼は過酷な運命に遭遇し、苦悩しながらも、人間らしい生を求めていく。そして、ついに「ライ者に生まれて悔いがない」という境地に到達するのである。その壮絶なる境涯を短歌に詠み、呪われたような運命を荘重な人生へと昇華した。彼は言う。「深海の魚族のように自らが燃えなければ、どこにも光はない」と。病状が悪化し、光を失った海人は、自分を深海魚にたとえ、自らを燃やし、人間らしく生きる道を探っていくのである。
 
 海人は1901年に静岡県の片浜村(現在の沼津市)に生を得た。野田浅次郎とせいの間の3男で、本名は野田勝太郎。父は富士製紙会社(王子製紙に吸収)に就職していた。成績はすこぶる優秀で、健康そのものの少年だったという。
 
 1920年、静岡師範学校を卒業した海人は、小学校の教師となった。富士郡須津尋常小学校に赴任していた時、そこで教員をしていた古郡浅子と出会い、1924年に結婚。長女瑞穂も誕生し、幸せな生活を満喫していた。その時までは。
 
 ライ病の兆候が現れたのは1926年の1月。背中に紫色の斑紋を妻が見つけた。指で押しても、針で刺しても痛くない。それが一向に治らないばかりか、次第に拡大するばかり。上京して東大附属病院で診てもらうと、ライ病だという。ライ病を告げる医師の顔色がサッと変わり、看護婦も後ろに飛び退いて、あわただしく消毒水に手を浸した様子を、海人は見逃さなかった。まるで時間が止まってしまったような感覚に襲われる。この恐るべき運命を当然のことながら、受け入れることはできなかった。
 
 当時ライ病は最も恐ろしい病気と言われていた。ライ菌は末梢神経を侵すので、痛覚などの感覚がなくなる。顔面神経も麻痺し、目の周囲の筋肉も麻痺するので、顔は醜く変形する。病状が進むと頭髪や爪もなくなる。また鼻も陥没する者も多い。そして、ついには失明する。その上、当時は伝染病、あるいは遺伝病と思われ、「これほど人間に嫌われた病気はない」と言われたほどであった。ライ病は天刑といわれた所以である。


福岡の明石へ


 幸せな生活から、一瞬にして地獄のどん底に突き落とされた海人は、まず妻に伝え、妻は母に、母は父に伝えた。父はその日以来、毎日無量寿経(仏教の経典)を唱え始めた。母は「雀の祟りかね」とぽつりと呟いたという。幼少の海人が、家の空気銃で雀を撃っていたことを思い出したのである。家族が受けた衝撃の大きさが伺われる。人一倍感受性の強い海人は、家族に自分の運命を背負わせてしまったことに苦しんだ。
 
 小学校を退職し、家に籠もっていた頃、朗報がもたらされた。福岡の医師が特効薬を発明し、効果が出ているという。海人は、藁にもすがる思いで、福岡の明石第二楽生病院に入院することにした。1927年のことである。
 
 出発前日、海人は家族と団欒の時を過ごした。妻と長女瑞穂、それと生まれたばかりの次女和子を乳母車に乗せ、町はずれの野道を歩いた。何も知らない瑞穂は、蛙を追いかけ、梨の実を拾い、はしゃいでいる。日が落ちる頃、町に一軒だけある中華そば屋で親子水入らずの食事をした。二人の子どもが寝息を立て始めると、妻の浅子は「あなたが達者で、このようにいられるんだったら」と言って、こらえきれずに泣いた。
 
 翌日、家を出たのはまだ暗いうち。隣近所に知られないためである。父母に別れを告げ、家族4人で駅に向かう。道すがら、妻は目にいっぱいの涙を貯めていた。別れの意味を知らない瑞穂ははしゃいでいる。海人が列車に乗ると、妻はもう人目を憚らずに泣き出した。列車が動き出す。この世における最後の別れとなるかもしれない。そう思うと、ついに海人は耐えきれなくなり、妻子の名を大声で叫んだ。海人はこの時、26歳であった。
 
 福岡の明石に着いた海人は、両親の勧めもあって浅子との離婚を承諾した。二人の子どもは海人の両親が引き取り、浅子がいつでも再婚できるように計らったという。しかし、浅子は離婚を断固として拒否。海人も離婚に承諾したとはいえ、浅子への思いを諦めることができなかった。海人は妻に対する思いを「狂おしいまでの愛着が嵐のように胸に渦まいている」と書いている。しかし、夢でしか会えない運命を呪うのであった。


天刑は天恵なり


 明石に来て5年後、楽生病院が経営難で閉鎖することになり、海人は兵庫県にある長島愛生園に入院することになった。愛生園に運ばれる海人の姿は悲惨であった。担架に横たわる海人に4人の看護婦が付き添っていたという。ライの症状が悪化したと言うより、発狂が原因だった。十数日前から寝ずに外を彷徨い、あらぬことを口走り、数日前からは何もしゃべらず、何も喰わず、幻覚に襲われる日々だった。
 
 発狂の理由は、様々な治療を試みるが、一向に効果が出ないことからくる絶望だけではなかった。激しい雷雨の夜、雷鳴に震え上がった女性患者の一人が、思わず海人の部屋に飛び込み、二人に関係ができてしまうという出来事があった。妻に対する明らかな裏切りである。妻への思慕の念を他の女性によって慰めてしまうという過ち。いっそのこと消滅してしまいたい。罪悪感に呵まれ、発狂する程までに自分を責め続けたに違いない。
 
 愛生園に移った頃の海人の容貌は一変していた。眉毛や頭髪が抜け落ち、指は肉が落ち湾曲していたという。明石が楽生病院に入った頃の長身ですらりとした美青年の面影は、そこにはなかった。
 
 愛生園に来て、1年ほども経った頃、海人は徐々に落ち着きを取り戻してきた。そんなある日、海を見ていた時である。体全体を何か暖かいものにフワッと包まれているような感じに襲われた。そして次のような想念が湧き上がった。この宇宙には、人間にはとらえることができない神秘的な力が働いているのではないか。その神秘的で大いなる力を神とか仏とかいうのではないか。とすれば、自分が生まれたことも、ライ者になったことも、崇高なことに違いない。海人は生きる意味を見出し、すっかり正気に戻った。
 
 これまで海人は運命を否定し、必死に抗おうとしてきた。しかし、海を眺めながら、大いなるものに包まれ、運命を受容する境地に到達した。運命のままに生きていく。そしてこれからの短い人生をひたむきに生きようと心を固めるのである。まさに天刑(天の刑罰)は、天恵(天の恵み)となり、天啓(天の啓示)となった。


生の証し

 海人が、キリスト教の洗礼を受けたのは、その直後のことである。式の前前日、父の死の知らせが届いた。子供の頃の思い出が湧き上がってくる。常に自分を守ってくれた父、何の恩返しもできなかった自分。手紙を読みながら、海人は泣き伏した。父は、今際の息の中で、海人の名(勝太郎)を呼んでいたという。
 
 洗礼は海人にとって、新しい人生の始まりだった。残されている時間は多くはない。その限られた時間の中で、この世に生を受けた証しを命がけで残していきたい。健康だった頃の夢は全て断念し、新しい夢に向かって歩き出したのである。海人にとっての新しい夢は、詩歌(短歌や俳句など)の創作であった。それは深海魚のごとく、光のない世界で自ら光り輝く生の実践に他ならなかった。ペンネームを明石海人としたのも、その頃である。由来は明石の地が忘れられなかったこと、海を眺めることが好きだったことである。

 病魔は容赦なく海人の肉体を蝕んでいく中、海人の詩歌の研究が始まった。海人は言う。「短歌とは絶え間ない現実生活との死闘の中に成長してゆく生命の鯨波(大波)であり、霊魂の記録である」と。そこには衒いもない。気負いもない。文字通り、日々死闘の中で、短歌を詠み上げていったのである。
 
 病状は悪化する一方だった。神秘体験をした3年後には完全に失明。手足も麻痺し、杖もまともに握れず、自力で靴を履くことができなくなっていた。しかし、肉体が腐敗すればするほど、海人の精神は逆に研ぎ澄まされていく。彼の介護を担当した者は、誰もが音を上げた。何か閃きがあると、夜中でもたたき起こされ、「辞書を引け」「すぐに書け」と、普段は温厚な海人が鬼に豹変したという。せっかく何かを感じても、彼の喉がかすれ、付添人が聞き取れなくなる。この伝わらないもどかしさ。海人は胸を打ち、畳を叩いて悔しがった。周囲は海人のそんな姿を見て、みな泣いた。
 
 このように命を削り取って詠んだ彼の短歌は、『日本歌人』『改造』『文芸』『短歌研究』などの雑誌に採り上げられ、最も注目すべき作家と評価されるようになった。そんな彼の活躍を見て、愛生園の医師内田守は海人の歌集を出版させてあげたいと考え、知り合いに働きかけて完成したのが、歌集『白描』である。白描とは、目の見えない白い世界でもあり、白紙に描く墨絵の意味でもあった。海人は、出版されたこの本を手にした時、それを頬ずりし、なで回して、離そうとはしなかった。見えない彼の目からは、とめどなく涙が流れていたという。海人が息を引き取ったのは、『白描』出版の4ヶ月後の6月9日。38年間の短い生涯だったが、たとえ肉体は崩れ果てても、精神の持つ崇高さを我々に教えてくれたと言えるだろう。

(写真提供/長島愛生園歴史館提供・一番右が明石海人)



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