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古橋広之進

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古橋広之進 
(ふるはしひろのしん)
 

水泳で33回世界新記録樹立 
意気消沈した日本に勇気を  中指切断のハンディ克服
 

戦後の日本の復興は、古橋広之進の活躍抜きに語ることはできない。彼の活躍は、敗戦で、意気消沈した日本人に勇気を与え、祖国再建の気概を抱かせた。嘲られ、虐げられてきた在米日系人にとっても同様で、古橋の活躍により彼らは胸を張って街を歩けるようになったと言う。

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古橋広之進

戦後日本の復興のシンボル

  今年(2009年)8月2日、世界水泳選手権でローマを訪れていた古橋広之進は、滞在中のホテルで息を引き取った。国際水泳連盟(FINA)の副会長として、表彰式のプレゼンターを務め、元気な様子だっただけに、突然の訃報に日本国民はもとより、世界中が驚いた。マグリオーネFINA会長は、「古橋さんは、水泳界の偉大な友人であり、家族であった」と語り、幹部一同がプールサイドに整列し、観客と共に黙祷を捧げた。
  古橋は、男子4百メートル自由形、千5百メートル自由形などで33個の世界新記録を樹立。敗戦で意気消沈していた日本人に勇気と希望を与えた、まさに「復興のシンボル」であったのである。引退後も、日本オリンピック委員会(JOC)会長などを務め、日本スポーツ界の礎を築いた功績で、2008年に五輪経験者では初の文化勲章を受章した。


日大水泳部へ

  古橋広之進は、1928年9月16日浜名湖畔の雄踏村(現在浜松市に編入)に父宇八と母なをの次男として生まれた。宇八は素人相撲の大関をつとめ、その地方の相撲大会では負け知らずの力持ち。そんな父の教育は厳しく徹底しており、殴る蹴るなど日常茶飯事で、それを母の慈愛が補ってくれたという。
  古橋が日大農学部に入学したのは1945年の春、戦争末期で敗戦が決定的になっていた時期のことである。入学と同時に待ち受けていたのは勤労動員。学業どころではなかったのである。復学を果たしたのは、戦後の1946年の春。戦争や病気で死んだりして、学友の数は半分に減っていた。古橋は人の運命のはかなさを感じていた。
  当初、彼はラグビー部に入部を考えていた。しかし、小学校時代からの友人が、「水泳部員募集の掲示が出ていたぞ。豆魚雷の復活だ」と言って彼の背中を押した。古橋は静岡県の学童水泳大会で学童新記録で優勝し、新聞に「元気な豆魚雷誕生」と見出しが載ったことがあった。だから、友人は古橋は当然水泳部だろうと思っていたのである。
  しかし、古橋には不安があった。浜松二中(現在の浜松西高校)3年の時、学校近くの兵器工場に動員され、そこで事故にあう。旋盤に左手中指が挟まれ、中指の先を切断してしまったのである。水をかいて進む水泳選手にとって、これは致命的とも思われる事故であった。それゆえ、水泳に対し自信を失っていたのである。友人の後押しがなければ、後の水泳界の巨人は生まれなかったかもしれない。


母の死

  復学して2ヶ月ほど経った6月22日、突然一通の電報が古橋に届いた。「母危篤、すぐ帰れ」。病名は急性肺炎。母は、急いで帰省した息子の顔を見ると、一瞬ニッコリとして、起きあがろうとしたが、その力はもはや残っていなかった。高熱のため、どんよりと曇った目、荒い息づかい。抗生物質もなく、食糧事情の悪かった時期のことである。母の体力はすっかり衰えていた。
  3日後、母は45歳の若さで息を引き取った。今際の息の中で、途切れ途切れの声で絞り出すように語った。「広之進、しっかりとあとを頼みますよ。水泳頑張ってね……」。妹たちの泣き声、父の慟哭が部屋中に響いていた。しかし、古橋は泣かなかった。これまで一度も見たことのない父の涙を見て、自分だけは泣いてはいけないと、必死にこらえていた。そして、学校を辞めて、父を助けて働こうと密かに決意していたのである。
  母の葬儀の後、悩み抜いた末、父の出した結論は、学校に戻って水泳を続けろと言うものだった。母は、広之進の水泳での活躍を何よりも楽しみにしていた。その母の供養のためにも、水泳を続けるべきだと言った。東京行きの夜汽車に乗り込み、古橋は心に期するものがあった。「もう後には引けない。ただがむしゃらに泳ぎ抜くだけだ」と。
  その後の古橋の活躍は目覚ましい。1ヶ月後の7月14日、日大・立教大・明治大三大学対抗水泳大会で優勝。8月の国民体育大会でも、4百自由形で優勝。9月の学生選手権でも優勝。日本のトップスイマーとして注目されるようになっていた。
  その年のシーズンオフに帰省した古橋は、家に帰る前に母の墓前に立ち寄った。墓前に喜びの報告をしながら、母の死後、こらえていた涙が堰を切ったように溢れ出てきた。そして、「来年こそ、世界記録を出します」と母の前に誓ったのである。


ロンドン・オリンピックに挑戦

  1948年7月末から、ロンドンオリンピックが開催された。しかし、開催国のイギリスは、敗戦国の日本とドイツの参加を認めなかった。それを受けて、日本水泳連盟の田畑政治会長は、持ち前の負けん気から、オリンピックの日程に合わせて、日本選手権大会を開くことにした。まさに世界に対する日本水連の挑戦であった。田畑には信念があった。「敗戦でうちひしがれている日本人に、祖国再建の気概を持たせたい。そのためには、スポーツ振興が一番である」。常日頃このように語っていたのである。
  8月6日の神宮プールは超満員の観客でわき返っていた。千5百メートル自由形決勝に古橋とそのライバル橋爪四郎が参加することになっていたからだ。結果は、18分37秒0で古橋が世界記録で優勝。ロンドン大会で優勝したマクレーンの記録より、40秒以上の大差で古橋が上回っていた。
  2日後の4百メートル決勝での観客の混み具合はさらに激しく、入場できなかった人々がプールのまわりを取り囲むほどであった。古橋の結果は4分33秒4、ロンドン大会の優勝者スミスの記録より、8秒近く上回る圧倒的な世界記録であった。日本がFINAに加盟していなかったので、この記録は認められることはなかったが、日本国民は熱狂した。古橋は、田畑会長と日本国民の期待に見事に応えたのであった。


ロサンゼルス全米選手権

  古橋が世界の檜舞台に立つのは、その1年後のことであった。日本水連がFINAに復帰を許され、ロサンゼルス全米選手権に参加することになったのである。渡米を前にして、古橋は大いなるファイトが漲り溢れてくるのを感じていた。
  宿舎を提供したのは、日系アメリカ人の和田勇。野菜、果物を中心としたマーケット経営で大成功を収めていた。彼は、日本水泳チームを物心両面から支援することを一家の使命と感じる、根っからの愛国者であった。当時、アメリカの西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいた。彼らは日米開戦と同時に、白人から「ジャップ」と呼ばれて蔑まれ、辛い日々を過ごしていた。それだけに、古橋らに熱い期待を寄せていたのである。
  大会初日の8月17日、千5百自由形の予選が行われた。A組に出場した橋爪は、2位のアメリカ選手を150メートルも引き離してゴールし、タイムは18分35秒4の世界新記録。続いてB組の古橋の登場となった。古橋のタイムは18分19秒、橋爪の世界新記録を16秒も縮める大記録となった。アメリカの観客は、二人の日本人選手の大活躍に惜しみなく拍手を贈り、スポーツに国境がないことを示したのである。
  大会の決勝戦は、収容人数7千人のスタンドが超満員となり、入りきれない人々がスタンドを取り囲み、入場券にはプレミアがついたほどであった。観客の6割は日系人、彼らは古橋、橋爪ら日本選手に嵐のような拍手と声援を送り、活躍を期待した。
  この大会で、古橋は千5百と4百の自由形、8百リレーで優勝。個人総合得点でも、他者を圧倒的に引き離して優勝した。日本選手の活躍に、集まった観客は総立ちになり、「バンザイ」を連呼した。和田夫妻も、溢れる涙をぬぐおうともせず、選手団の役員たちと握手を交わし、バンザイの連呼に加わっていた。
  和田は言った。「これまでジャップと呼ばれてきたが、一夜にして、ジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになりました」と。アメリカの新聞は、古橋を「フジヤマのトビウオ」と称賛し、以来これが彼のニックネームになったのである。
  古橋らの快挙は、NHKの臨時ニュースで全国に報道され、日本中がわき返った。号外はいくら刷っても飛ぶように売れ、手にした者たちは、感激のあまり泣き出す始末だった。敗戦で虚脱状態の日本国民は、古橋らの活躍に興奮し、祖国再建の気概を抱いたのである。


「魚になるまで泳げ」

  日本中を歓喜と熱狂の渦の中に巻き込み、戦後復興のシンボルであった古橋も、オリンピックの巡り合わせは悪かった。ロサンゼルス全米選手権がスイマーとして絶頂であったとすれば、体力も気力も明らかに落ちていた。1952年のヘルシンキオリンピックの国内選考会の4百メートル自由形では、3位に終わる始末であった。それでも古橋に対する国民の期待はふくらむばかりであった。ヘルシンキ大会は、日本にとって実に16年ぶりのオリンピック参加で、日本中がその話題で持ちきりだったのだ。
 ヘルシンキ大会での古橋の結果は、惨憺たるものであった。4百メートル自由形の決勝で8位。実況中継を担当したNHKのアナウンサーが、「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は、あり得なかったのであります。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」と叫んだ言葉が印象的だった。
  この大会を期して、24歳の古橋は競泳を引退する覚悟を固めた。彼自身の言葉によれば、「己に克つことができなくなっていた」からだ。古橋は大同毛織で企業人として会社一筋の道を歩み始めた。しかし、日本の水泳界は古橋を必要とした。日本水連の常務理事、会長として日本の水泳界のために尽力したばかりではなく、日本オリンピック委員会会長として、スポーツ競技全体の振興に偉大な功績を残した。
  オリンピックの背泳ぎ金メダリストの鈴木大地は、五輪前の合宿で古橋から、何度も「魚になるまで泳げ」と薫陶を受けたことを印象深く覚えている。オリンピック平泳ぎ金メダリストの北島康介は、古橋の死の報を受けて語った。「古橋さんは、常に試合会場に足を運び、選手のレースを見に来てくれた。天国からトビウオ・ジャパンの活躍を見守り続けてくれると信じています」。


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