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平山郁夫


平山郁夫 
(ひらやまいくお) 

被爆体験による平和への祈り 
「シルクロードの画家」 玄奘三蔵の道をたどる

  人生の危機にあって、平山郁夫は仏教画と出会い、その延長上にシルクロードにのめり込んでいく。そこは東西文明の結節点。150回を越える取材旅行を通して、彼は「人類は肌の色が違っても兄弟だ」と実感する。広島での被爆体験と共に、これが彼の平和主義の原点であった。

画像の説明

平和への祈り
  昨年12月2日、日本画の巨匠平山郁夫が逝った。シルクロードや仏教を主題とした作品を数多く発表し、正統派の日本画家として高い評価を受けていた。彼の活動は創作にとどまらない。遺跡調査などで150回を越える海外渡航を通して、各国との文化交流や紛争で危機にさらされた文化財保護に尽力した。「私の一番の目標は平和への祈りです」と言う彼の言葉に示されるように、活動の原動力は平和への厚い思いであった。彼の平和主義は思想上の問題ではなく、被爆体験(原爆被害)から出たものであった。
  平山郁夫は1930年6月15日、瀬戸内海に浮かぶ人口1万4千人ほどの生口島で誕生した。父峰市、母ひさのは9人子供を得、郁夫は3番目の子で次男であった。父の若い頃の夢は、永平寺(曹洞宗の大本山)の官長になることだったというほど、その信心深さは際立っていた。毎朝の坐禅は欠かしたことがなく、先祖のお墓は常にきれいにしていた。地主であった父は、寺や町から寄付を頼まれれば、いつも一桁多い額を納めたという。金を貸しても、返せとは言わない。頼まれれば次々に保証人にもなる。当然、家は破産状態になってしまったが、人を怨んだことがない。こうした父の生き方が、後に平山が仏教絵画に目覚めていくうえで、無縁であったはずがない。


原爆投下
  1945年8月6日は、広島に原爆が投下された日。15歳の平山郁夫は広島にある修道中学3年生で、その日は兵器廠(兵器の保存、修理などを扱う役所)に勤労動員されていた。午前8時過ぎ、作業準備のため数人の仲間と兵器廠近くの小屋に入る。彼は一人外にいて、晴れ渡った空を眺めていた時である。上空にB29が突然現れ、頭上はるか高いところで落下傘のようなものがパッパッと開くのを見た。
  仲間に知らせるため、彼は小屋に入り、「へんなものが落ちてくるぞ!」と叫んだ瞬間だった。カメラのフラッシュが輝くように、小屋の中が大閃光に包まれた。咄嗟に目を覆い、地面にうずくまった。何が起こったのかわからない。弾薬庫が爆発したのだろうか。おそるおそる外を見ていると巨大なキノコ雲が立ち上っていた。
  その後、彼が広島市街で目にしたものは、地獄絵図さながらの光景だった。血だらけになって呻き苦しむ者、手や足を失った者、眼球が飛び出してだらりと垂れ下がっている者。広島は一瞬にして阿鼻叫喚と化していたのである。この爆弾で、修道中学では教員が11名、生徒が188名死亡した。以来20年間、彼は広島の地に足を踏み入れることができなかったという。
  それでも平山は幸運だった。爆発の瞬間、小屋に入ったこと。市内をさまよいつつも、汚染された水や食物をいっさい口にしなかったこと。まさに「生かされた」というのが、彼の実感であった。同時に、彼の心に生じたのは、原爆で死んでいった人々に対する負い目であった。後に彼は、「生かされた自分は、自分の仕事を通してお返ししなければならない」と考えるようになり、さらに、「自分の仕事を幽界から見つめるおびただしい目があることを感じざるをえなかった」と語っている。


東京美術学校へ
  終戦後、平山は竹原市忠海町(広島県)にある忠海中学校に転校した。広島市内に戻る気持ちにはなれなかったのだ。それと近くに大伯父(母方の祖母の兄)がいて、そこに下宿させてもらうことになったからである。清水南山という名のこの大伯父は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の彫金科教授を退官したばかりで、平山の人生に決定的な影響を与えた人物である。
  大伯父と生活を共にしながら、平山は芸術の何たるかを学ぶことになる。絵を描くには、人間としての基礎修練の蓄積が何よりも大切だと、大伯父は口をすっぱくして繰り返した。しかし、この大伯父は彼に一度も美術学校に行けとは言わなかった。旧制高校の法科か経済に進むつもりで、願書を提出しようとしていた矢先、突然大伯父は「東京美術学校の日本画を受けろ」と言い出した。「こんな直前に!」と不満をぶつける平山に、大伯父は「あまり早く決めてしまうと、他の勉強をしなくなる。高い教養を養ってこそ、自分の世界を持つことができ、画家の道も開かれる」。平山は大伯父に押し切られるように美校を受験し、見事一発で合格した。
  入学に際し、大伯父と約束をさせられたことがある。古典の勉強を怠るなということ。それと以後10年間は絵で稼いではならないということ。生半可な腕で金を稼ぐと、絵が駄目になると言うのだ。大伯父は貧しい生活にたえ、純粋な芸術家魂を孤高に守り続けた。この人物なしに、日本画の巨匠平山郁夫は生まれなかったことは間違いない。

苦悩と転機
  画家としての平山郁夫に最大の転機が訪れたのは、東京芸大日本画科助手であった時のことである。当時、平山は苦悶の絶頂でもがいていた。卒業して7年も経つのに、いまだ自分の絵を見出せないでいる。自分の才能に自信を失いかけていた。それに加えて、原爆後遺症が徐々に体を蝕んでおり、増血剤とビタミン剤にすがるような日々だった。
  いつまで生きられるかわからない。死ぬ前に、一枚でもいいから、心に残る絵、つまり精神性の高いもの、死の不安感が消えるもの、自分自身がすくわれるようなもの、そんな絵を残したいという衝動に襲われていた。友人の中には、「原爆の惨状を描けばいいじゃないか」と勧めてくれる者もいた。しかし、平山にとって絵とは、感動を再現するものであり、悲惨を描くものではなかった。それに彼自身の心の傷はまだ癒えてはいなかった。原爆の惨状を描く気持ちにはなれなかったのだ。
  精神的にも、肉体的にも、追いつめられていたある日のこと。目に飛び込んできたのが、新聞の小さな記事。オリンピックの聖火は、ギリシャからシルクロードを通って、東京にもたらされると書かれていた。その途端、一つの絵の構想が浮かび上がってきた。それは砂漠を延々と歩いてきた旅の僧がオアシスにさしかかった情景。死の荒野を旅し、今まさに力尽きようとする寸前、そこに生命溢れるオアシスが展開する。平山はこの時のことを「あたかも天の啓示のように目の前に浮かび上がってきた」と語っている。この着想を得た平山は「これが自分の最後の絵になるかもしれない」と思い、自分自身の救いをかけて描き上げたのである。旅の僧を玄奘三蔵(7世紀前半、国禁を犯してインドへ求道の旅に出た中国の僧)に想定して、できあがった作品が彼の代表作「仏教伝来」である。


シルクロードへの道
  運命的な作品「仏教伝来」以来、平山は宗教的な世界に足を踏み入れていく。「出山」「天山南路」などの仏教画を次々と発表し、釈迦の涅槃(釈迦の死)の姿を描いた「入涅槃幻想」は、日本美術院賞・大観賞を受賞するに至った。不思議なことに、原爆症も快方に向かい始めた。気力が充実し、体力も回復し始めたのである。
  1966年、平山はオリエント遺跡調査団に参加し、トルコに4ヶ月間滞在した。仏教画に目覚めて以来、仏教伝来の道を自分の足で確かめたいという強い衝動に駆られるようになっていた。それは玄奘三蔵がたどった道でもあり、シルクロードと重なる道でもあった。彼のシルクロードへの旅は150回を越え、彼の足跡が及ばないところはないとまで言われた。シルクロードを行き巡り、東西文明交流の痕跡を訪ね、そこに住む人々との交流を通して、平山の心に一つの思いが湧いてきた。「どんなに人種を異にし、肌の色を違えても、しょせん人類は一つ、兄弟だ」と。
  広島で被爆し、仏教画に開眼、そしてシルクロードに至る平山の旅路は、世界平和への祈りに辿り着こうとしていた。1976年、日本を皮切りに、イラン、イラク、シリア、エジプト、トルコで開催した「平山郁夫シルクロード展」は、平和への祈りの旅に他ならなかった。戦争状態にある地域であるからこそ、悠久の歴史を描いた絵を展示することに意味があると感じていたのである。平山は言う。「時が去ってしまえば、権力は空しい。しかし、文化は滅びない」。


原爆を描く
  平山が原爆を絵にしようと思い立ったのは、1979年、テレビ局の依頼で平和記念公園を訪れた時のことである。それまで、広島は1965年の院展で訪れただけで、足を踏み入れることができない土地だった。心の奥底にしまい込んだ傷口を開けたくなかったのである。しかし、34年の歳月の流れは、平山の心の傷を確実に癒していた。仏教画を描きながら、その心髄に触れることができたし、シルクロードを旅しながら、悠久な時の流れの中に、「大いなるもの」の存在を感じずにはいられなかった。
  平和公園に立った平山は、原爆を描かなければならないと思った。「やっとあの日を描くことができる」。そんな思いがわき上がってきて、居ても立ってもいられない衝動に襲われた。絵の構想が頭の中をめまぐるしく駆けめぐる。「画面は全面、炎で埋め尽くさなければならない。炎の海だ」。広島は再生したのだから、炎の中で生きる「不死のシンボル」を描かなければならない。それが「不動明王」である。炎の海の中で超然と立ち、憤怒の形相で下界を見下ろし、「怒りと悲しみを超えて、人々に〝生きよ!〟と叫んでいる」。こうして、生まれた作品が「広島生変図」。49歳の記念碑的作品となった。
  晩年、ユネスコ親善大使に任命された平山は、中国の敦煌、アフガニスタンのバーミヤン遺跡などを訪問し、世界の文化財保護に尽力し、文化外交に貢献した。旺盛な創作活動を続けながら、彼は東京芸大学長を2度つとめ、日本美術院理事長を歴任し、名実共に日本美術界のトップに君臨した。しかし、彼を知る者は誰もが口をそろえて、「高名で近寄りがたいという雰囲気の方ではなかった」と言う。温厚で気さくな人柄だった。2009年12月2日、誰からも惜しまれて、シルクロードのさらに先にある悠遠なる彼方の世界、彼を生かしてくれた「大いなるもの」の懐へと旅立って行った。享年79歳。


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