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広岡 浅子 
(ひろおか あさこ)


近代日本屈指の女性実業家

私利私欲の商売を嫌う  日本初の女子大学設立に貢献

 NHKの連続テレビドラマ「あさが来た」が評判だった。主人公白岡あさのモデルが、広岡浅子である。彼女は、「希代の女実業家」「一代の女傑」と呼ばれた。江戸から明治に変わる大転換期に、新事業を次々に成功させたからである。また男尊女卑の時代にあって、女性が活躍する道を開いた先駆者であった。




溢れる向学心


 広岡浅子が生まれたのは1849年10月。その4年後にペリー率いる黒船が浦賀沖に現れた。時代は鎖国から開国に向かう過渡期にあって、日本中は動乱の時代に突入しようとしていた。広岡浅子は、まさにその激動期に生を得た女性であった。
 
 浅子の実家は両替商を営む京都の豪商出水三井家(後の小石川三井家で、三井11家の一つ)、その6代目当主三井高益の4女として生まれた浅子は、なに不自由なく生活していたが、悶々とした少女時代を過ごしていた。向学心が並はずれて強かった浅子は、「女に学問は不用。女は家庭を守る術を得さえすれば十分」と言われ、裁縫、生け花、琴などのお稽古ごとしかさせてもらえなかったからだ。「どうして女は男のように学ぶことが許されないのか」。こんな疑問を抱きながら、少女時代を過ごしたのである。
 
 満16歳の浅子が嫁いだ先が、大阪の豪商で同じ両替屋の加島屋。大阪で一、二を争う両替商だった。浅子はこの広岡家の次男信五郎に嫁いだのである。信五郎は8代目当主の広岡正饒の次男で、浅子より8つも年上。のんびりした性格で、浅子には頼りなく感じる面もあった。家業にはほとんど関与せず万事支配人任せ。謡曲、茶の湯など遊興に耽る日々であった。しかし、このことが浅子を奮い立たせた。「一家の運命を双肩に担って自ら起つ」と決意したと語っている。
 
 浅子にとって幸いだったのは、信五郎には男尊女卑的な考えが皆無だったことである。浅子に対しては、何をするにも「好きにしたらええ」と言った。浅子は水を得た魚のように、猛烈に勉強を始めた。簿記、算術をはじめ商売に関する書物を読みあさったという。後の明治を代表する女性実業家は、信五郎の理解なしに誕生することはなかったであろう。



家業を守る


 加島屋に嫁いだ2年後、徳川幕府が倒れ新政府が成立。その直後、新政府は金本位制を採用したため、銀貨主体の経済体制だった大阪、及び西日本の経済は大混乱に陥ってしまった。手持ちの銀を金に替えようと人々は両替商に殺到し、大阪の両替商の蔵から金がスッカラカンになり、価値が暴落した銀だけが残るという有様だった。
 
 加島屋の蔵にも金が底をつきかけていた。加島屋のこの危機を救ったのは、まだ19歳にも満たない浅子であった。すっかり気力が萎えてしまった信五郎の腕を掴み、「どこまでやれるかわかりませんが、やれるだけやってみます」と言い、貸し付けをしている大名屋敷を回り、貸付金の回収をし始めた。浅子の才能が一気に開花したのである。
 
 浅子は各藩の家老宅を回った。いくら断られても浅子は足繁く通い続けた。中には開き直って「この商人の女風情が。斬り捨てられぬうちに下がるがよい!」と恫喝する者もいた。そんなことで怯む浅子ではなかった。「約束を違えぬことこそ、武士道ではございませんか。『論語』にも、『勇にして礼なければすなわち乱る』とございます」と言い放った。武士もタジタジだった。
 
 こうした努力の甲斐があって、回収は少しずつ進み、加島屋は何とか持ちこたえた。この時、浅子は嫁入り道具全てを売り払い、加島屋の資金繰りに回したという。



炭鉱事業


 時代はめまぐるしく変わっていった。新政府成立の3年後には「新貨条例」が定められ、お金の単位が「円」となった。通貨システムが変わり、両替商は過去の遺物になろうとしていた。生き残るためには、新しい事業が必要だった。そんな時、夫の信五郎が目を付けたのが、炭鉱事業である。浅子はこれに飛びついた。「石炭事業は単に儲かるばかりやない。お国のためにもなる商売や」と目を輝かせた。幸い九州の筑豊に炭鉱を売ってもいいと山主が現れたため、加島屋をあげてこの事業に取り組むことになったのである。
 
 周囲を驚かせたのは、浅子の行動であった。加島屋が手に入れた潤野炭鉱(後の二瀬炭鉱)に自ら乗り込んで行くという。九州は遠い。その上、荒くれの抗夫たちの中に女の身で飛び込むなど、余りにも無謀である。信五郎も「狂気の沙汰や」と言って止めようとしたが、こうと決めたら誰も浅子を止めることはできなかった。浅子に不安がなかったわけではない。しかし、「近代ビジネスの表舞台に出てみたい」「働く女の力を示したい」という激しいばかりの情熱がまさっていた。浅子を待ち構えていたのは、抗夫たちの冷たい視線だった。女に雇われること自体、抗夫にとって屈辱そのものだった。「女に山のことがわかってたまるか」と露骨に言う者もあった。
 
 浅子も負けてはいない。「確かに女の細腕では、ツルハシもよう持てまへん。けど、気持ちはあんたらには負けへん。石炭掘って売るのに、男も女も関係あらしまへん!」。抗夫たちも、啖呵を切った浅子に対して、「肝が据わった女じゃ」と一目置くようになった。
 
 結果的には加島屋の炭鉱事業は大成功に終わるが、当初は断層が見つかり思うように掘り進められなかったこともあり、採算が合わなかった。当主の広岡正秋(信五郎の弟)も経営断念を考えたが、断固継続を主張したのは浅子であった。抗夫たちと昼夜を共に過ごし、坑道にもぐり込んで懸命に働いた。抗夫たちも、こうした浅子の姿に感嘆し、敬意を込めて彼女を「姉御」と呼び慕ったという。
 
 こうした努力の甲斐もあって、10年目にして採掘量は飛躍的に増加し、収益も順調に伸びていった。後年、浅子は「最も苦労したのは、炭鉱事業だった」と述べている。この時の経験が「九転十起」の信念を浅子にもたらした。人が七転び八起きなら、自分は九回転んでも十回起き上がるという意味である。



成瀬仁蔵との出会い


 その後、加島屋が加島銀行に変わったのも、浅子の強い進言に基づいていた。両替屋は単にお金を右から左に回し利鞘を稼ぐだけ。銀行はお金を広く回すことで、人々の事業を助け、世の中を良くすることに貢献できる。生命保険業(現在の大同生命)に取り組んだのも、生命と傷病の損失を保障することで、人々の暮らしを守ることができる。世のためになるとの判断だった。浅子は私利私欲のための商売を嫌った。「世のため、人のために生きてこそ人である」という公共心を儒教から学んでいた。
 
 浅子が取り組んだ晩年の事業が女子教育であった。実業界で成功をおさめた浅子は、「女性が学ぶ環境作り」に次なる目標を定めていく。直接のきっかけとなったのは、成瀬仁蔵との出会いであった。成瀬が出版した『女子教育』を読み、浅子は感動を抑えることができなかった。漠然と感じていたことが、言葉となって明瞭に書かれていたのである。
 
 当初、浅子は成瀬の言う「女子教育」も、所詮時代の風潮である「良妻賢母」に過ぎないだろうと思っていた。しかし、本を読み、会って話を聞いてみると、全く違った。成瀬は言う。「良妻賢母ではありません。賢母良妻です」。女性の本質とは「母であること」にあり、それは絶対に男には太刀打ちできない。女性がよく学ぶことで、賢くなり、その「母なる力」を最大限に発揮し、世のため、お国のために役立てるのだ。そのためにも、帝国大学に負けない女性の大学を作りたいのだと成瀬は力説した。
 
 成瀬の言葉に、浅子はカミナリに打たれたような衝撃を感じた。興奮して体の震えが止まらなかったという。そして、使命感のようなものが沸き上がってきた。「女性も男性と同じように高等教育を受けられる場がほしい」。浅子の幼少期からの夢であった。その夢が叶う時が来たのである。浅子の東奔西走が始まった。こうなると誰も浅子を止めることはできない。大阪でも、東京でも、政財界の実力者に会うごとに、女子大学のビジョンを語り、賛同者を募り、寄付金を増やしていった。
 
 東京に日本女子大学が開校したのは、1901年4月。成瀬と出会って5年後である。校舎は東京小石川の目白台。浅子の実家三井家が寄進した土地だった。最初の入学生は510名を数え、教員は選りすぐりの50名。ようやく夢が叶った浅子は50代の半ばを迎えていたが、常に「学ぶ側」にいた。暇を見つけては、東京に出て授業を受けたという。浅子の向学心は衰えることがなかった。
 
 浅子が60歳を迎えた頃、悪性の乳ガンに罹患し、命が危ぶまれる事態に陥った。手術は大成功。悪性の腫瘍は全て摘出された。この時の体験を「人間界に呼び返されるような心地がして、目が覚めました。そして、天がなお『何かをせよ』と自分に命を貸したのであろうと感じ、非常に責任の重いことを悟りました」と述べている。
 
 成瀬仁蔵との出会い、そして乳ガンからの生還は、浅子をキリスト教に近づけたことは確かである。その後、浅子は洗礼を受け、「世のため、人のため」に生きる使命感をこれまで以上強く意識しながら、残りの人生を走り続けた。女性の社会進出に貢献したばかりではない。障害者の就業支援や廃娼運動に尽力したのである。
 
 1919年1月14日、浅子は満69歳で生涯を終えた。浅子の生涯唯一の著作『一週一信』が完成した直後の死であった。この著書は、雑誌「婦人週報」に連載されたものと、このために書き下ろした自叙伝「七十になる迄」をまとめた単行本である。ペンネームは「九転十起生」とした。浅子の人生そのものを表した名である。遺言はあえて遺さなかった。これまで生きてきた全てが自分の遺言だと言うことなのだ。広岡浅子は浅子らしく行き、浅子らしく死んだ。



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