人見 絹枝
(ひとみ きぬえ)
日本女性の羅針盤となる
日本女性観を覆す 日の丸を背負う重圧
陸上の女子選手を見ると、「女が走る」と言って罵られた時代。人見絹枝は、そうした偏見を見事に打ち破った女性であった。また外国人の日本女性観を根底から覆すことにも貢献した。外国人が思い浮かべる日本女性は、顔におしろいを塗り、着物を着込んだ舞妓や芸者のイメージだったのである。
女子陸上競技界の彗星
女子スポーツ界の黎明期であった1920年代、一人の女子アスリートが陸上競技界に彗星のごとく現れた。人見絹枝である。彼女の活躍は、「日本女子ここにあり!」とその存在を世界に示した。しかしそれは命の代償を伴うものであったのである。
1907年1月1日、岡山県御津郡福浜村(現在の岡山市南区福成)の農家で、父猪作と母岸江の次女として絹枝は産声を上げた。活発な子で、ずば抜けた身体能力を持っていた。男の子でも尻込みするような大きな溝を平気で跳び越えたという。13歳で岡山高等女学校に入学した絹枝は、卒業までの4年間、自宅から学校までの往復12キロを毎日徒歩で通った。この徒歩通学が、彼女の足腰を鍛えたことは間違いない。部活(テニス部)の練習で帰りが遅くなるとき、心配する学友に彼女はこう語った。「川沿いの道に出たら、夕日と競争で走ります。心配しなくても大丈夫です」。
万国女子オリンピックに参加
岡山高女を卒業後、絹枝は二階堂体操塾(後の日本女子体育大学)に入学した。そこで本格的な訓練を受け、陸上選手として目覚ましい活躍を続けていた。19歳で大阪毎日新聞社(大毎)に入社。「新聞記者として招くのではありません。日本のスポーツ界発展のため、世界の檜舞台に出したいのです」と説得されたという。
入社直後、スウェーデンで開かれる第2回万国女子オリンピックに絹枝が推薦された。先輩や知人の送別の宴が続き、激励の言葉を受ければ受けるほど、彼女の心は重く沈んだ。参加するからには勝たねばならない。そんな責任感が重くのしかかってくるのである。彼女は悲壮な決意を持って、1926年7月8日、日本を出発した。
シベリア鉄道を経由して、開催地スウェーデンのイエテボリに着いたのは8月4日。さっそく練習を開始した。競技開始は3週間後である。大会前日、彼女は大毎本社に宛て手紙を送った。「明日から3日間、死をかけて働いてみます。どうか私が不運にして負けることがあっても、決してお叱り下さいますな……」。
いよいよ開会式。参加選手は総勢92人、参加国は10カ国。日本選手団は絹枝ただ一人である。5万人の大観衆が見守る中で、日章旗を持った絹枝は日本のことを思い続けていた。今、この地で日の丸を守るのは私だけ。死んでも生きてもこの旗を私が守るのだ。そう思うと、涙がこぼれ落ちてくる。
個人優勝
一人で多くの競技に参加する絹枝のスケジュールは、実にタイトであった。100ヤード走(約91・5メートル)予選を1位通過した後、決勝は25分後。その間に、円盤投げの投擲を2回行う。そして、100ヤードの決勝である。結果は見事3位入賞。
その直後、円盤投げの3回目の投擲。円盤はこちらに来て、はじめて手にしたので、円盤投げのキャリアはわずか3週間。素人の域を出ていなかったが、持ち前の集中力で挑んだ一投が32メートルラインを越え、2位入賞を果たした。予想外だった。
2日目は得意の走り幅跳び。試技は6回である。5回の跳躍で、なかなか足が合わず、思うような距離が出ない。おまけに自分のスパイクで右手が引き裂かれてしまった。手のひらから血がしたたり落ちてくる。ライバルのガン(英国)は、すでに5メートル44を跳んでいた。絹枝は5メートル33。このままでは優勝はできない。絹枝は一心に祈った。
スタートした絹枝の助走は素晴らしかった。右足が踏み切り板をぴたりと捉え、体が宙に浮かぶ。次の瞬間、嵐のような喚声がわき起こった。記録は5メートル50。世界新記録達成がアナウンスされた。大喚声が再びわき起こり、観客は総立ちになって絹枝を祝福した。日章旗がメインポールに掲げられ、君が代が吹奏された時、涙がこみ上げてきた。この一瞬のためにこれまで頑張ってきたと思うと、また涙が溢れてくるのである。
最終日でも立ち幅跳びで優勝。絹枝はこの大会で一人で大量15点を獲得し、見事個人優勝に輝いたのである。絹枝の活躍を海外メディアは、「人見嬢は、われわれの日本女性観を根底から覆した」(ドイツのターゲブラット紙)と報じた。
死闘の800メートル
イエテボリの大会から2年後の1928年7月、第9回オリンピック大会がオランダのアムステルダムで開催された。男女同一大会となったのは、この大会からだった。この大会に参加するにあたり、絹枝は大いに迷った。女子の競技種目が、100メートル、800メートル、走り高跳び、円盤投げ、400メートルリレーだけ。どの種目も彼女が納得して参加できるものではなかった。そんな不安を胸にしまい込んでの出場であった。
1日目、参加した4人は健闘空しく惨敗。監督は絹枝を呼んで言った。「あなたが日の丸を揚げなかったら、他に揚げる選手はいない」。絹枝の胸にはズシリと響いた。2日目、いよいよ絹枝の100メートル。しかし、準決勝でまさかの4位敗退。茫然自失の絹枝は、奈落の底に突き落とされた。その日の夜、絹枝は夕食も取らずにベッドに入り、布団を被って泣いた。3日目も、4日目も惨敗。選手団はすっかりうち沈んでしまった。
このままでは日本に帰れない。絹枝は、予備としてエントリーしてあった800メートルの出場を決心した。練習すら1度もしたことがない種目である。監督は猛烈に反対したが、彼女は涙ながらに押し切った。死んでも構わないと思っていたのである。
予選は何とか通過。いよいよ決勝当日である。スタートは1回できれいに決まった。1周目が終わる頃6位であったが、何とか盛り返し3位の位置。あと200メートルで、もう足が言うことをきかない。その時、監督の言葉を思い出した。「足が動かなくなったら腕を振れ」。無我夢中で腕を振った。あと100メートル。その瞬間、絹枝の視界は消えた。疲労が極限に達し、目が見えなくなっていたのだ。いつゴールに入ったのかさえわからない。そのまま、意識を失った。結果は2位、大健闘だった。
意識朦朧の状態で、絹枝は三段跳びが行われている場所まで運ばれた。その時、奇跡が起こった。絹枝の力走を見て奮起した三段跳びの織田幹雄は見事優勝を果たしたのである。メインポールの中央に日章旗が掲げられ、君が代が吹奏された。絹枝はむせび泣くばかりであった。日本の新聞は、絹枝の活躍を「これぞ大和魂」と称えた。
3度目の渡欧
その2年後の1930年8月11日、絹枝はチェコのプラハにいた。第3回万国女子オリンピックに出場するためである。彼女にとって3回目の渡欧であり、後輩となる5人の女子選手と一緒だった。個人総合優勝のため1点でも多く取りたい絹枝は、ほとんどの種目にエントリーした。しかし絹枝の体調は優れなかった。シベリア鉄道での旅行中、風邪をひき、咳が止まらない。その上、プラハでは連日の冷たい雨が、絹枝の弱った体に無慈悲に降り注いだ。責任感と気力だけで戦った。結果は走り幅跳びで優勝を果たしたものの、個人総合は2位で終わった。体調不良の中では、それが限界だった。
プラハの大会が終わっても、絹枝は休むことができなかった。帰途、ワルシャワ、ベルリン、ブリュッセル、パリに立ち寄って、親善試合を行うことになっていたのである。体調はいっこうに回復しなかった。風邪をすっかりこじらせ、体重は8キロも減少。それでも彼女は、休もうとはしなかった。激しい咳にむせびながら、各国での競技に臨んだ。
約1ヶ月半に及んだ苦しい競技日程もようやく終わり、ロンドンから帰途についた。しかし、船酔いに悩まされた絹枝の体調は、悪化するばかりであった。それに追い打ちをかけたのが、マルセイユで手にした日本の新聞記事。期待はずれの成績に不満の声が紙面を覆っているのだ。絹枝の心はすっかり傷ついてしまい、ひとり部屋で泣いた。神戸港に出迎えた父猪作は、やせ衰えていた娘を見て驚いた。その時はじめてわが子の計り知れない苦労の日々を理解したという。
帰国後、体調は少しもよくならなかった。倦怠感、脱力感がますますひどくなり、眠れない日々が続くようになる。帰国後半年が経った1931年3月23日朝、むせぶような咳と共に鮮血がシーツを赤く染めた。入院してから、絹枝の病状は悪化する一方だった。一度もベッドから起きあがることもできないほどである。肋膜炎をこじらせ結核性肺炎を発症していた。やせ衰えて骨と皮だけになった絹枝を見て、付き添いの友人も涙を流す日が多く、はれぼったい目を絹枝に見せてしまうこともあった。すると絹枝は「また泣いている。こんなことで死ぬものですか」と言って、逆に友人を叱ったという。
8月2日、最期まで病魔と闘い続けた絹枝は、ついに息を引き取った。奇しくもその日は、彼女がアムステルダムで死闘の800メートルを走り抜いた日であった。40度を超える熱にうなされ、朦朧とした意識の中で、あの死闘の800メートルを思い出していたのかもしれない。枕元は涙でぐっしょり濡れていたという。
絹枝の死を惜しんだ駐米大使は「我が国を世界に紹介する上で、100人の優秀な外交官よりもはるかに力強い存在であった」と語った。人の命は長さではなく、質で決まると言われるが、人見絹枝は、その言葉に最もふさわしい女性の一人であろう。24年の短くも重厚な生涯を立派に生きて、新しい日本女性の生き方の羅針盤となった。
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