出光佐三
(いでみつさぞう)
人間尊重と家族主義を貫く
一人のクビも切らない 個人商店から石油王へ
石油王と言われた出光佐三は、士魂商才(武士道的経営)にこだわり続けた。儲けるための事業ではなく、人間尊重と国家に貢献する事業である。何度も崩れそうになりながら、彼の信念は彼を救い、会社を救ってきた。何よりも信頼関係の構築に努力したからである。
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人との出会いの縁
出光佐三は石油元売会社である出光興産の創業者である。経営者として彼が最も大切にしたモットーは、「人間尊重主義」と「大家族主義」。「会社を支えるのは人だ。人を大切にせずして、何をしようというのか」と言った。そして、常識破りの四無主義を打ち出した。クビを切らない。定年制がない。出勤簿がない。労働組合がない。「社員は家族だ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか」と言って憚らなかった。
出光佐三が生まれたのは1885年8月22日、福岡県宗像郡赤間村、現在の宗像市である。父藤六の家業は、藍玉(染料)を仕入れて売り歩く藍問屋で、千代との間に6男2女をもうけ、佐三は次男として誕生した。出光家の先祖は、大分にある宇佐八幡宮の大宮司だった。そのせいか、佐三は生まれ故郷にあった宗像神社の神様を厚く信奉した。
小学校に入った頃、佐三は病弱であり、おまけに目が悪かった。本を読む視力も忍耐力もなかった。しかし、そのおかげで、ものごとを徹底的に考える習慣が身に付いたという。読書ができないハンディを考え抜くことで克服して、福岡商業学校を3番の成績で卒業。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)に無事入学を果たした。ここで佐三はひとりの師と出会うことになる。水島銕也校長である。水島校長は、拝金主義真っ盛りの時代に、「黄金の奴隷になるな」と教え、人間尊重と士魂商才、さらに国家に貢献できる事業を営むべきことを生徒に説き続けていた。出光佐三の人間尊重主義のルーツであった。
神戸時代、もう一人、なくてはならない人と出会う。父の家業が傾き始め、家からの仕送りが少なくなり、家庭教師をすることにした時のことである。彼が教えた子供の親が日田重太郎という名の大変な資産家であった。神社仏閣を巡拝することを趣味とするような敬虔な人物で、宗像神社を無条件に尊崇する佐三にすっかり惚れ込んでしまった。この日田重太郎が、佐三の事業を生涯支える人物となるのである。
25歳で独立
神戸高商を卒業後、彼が選んだ道は酒井商会への丁稚奉公。小麦粉と機械油を扱っており、従業員4、5名のこじんまりした商店だった。神戸高商はエリート校。なぜこんな小さな会社を選んだのか、誰もがいぶかった。しかし、考え抜いた末の結論だった。大企業に入れば、仕事の一部しか担当できない。ここだと主人の奮闘ぶりがよくわかる。主人は、朝一番早く起きて、夜はみんなが寝静まるまで頑張っている。そんなすべてを見習いたい。
佐三が独立を考えたのは、父の家業が完全に傾きだしたからである。早く独立して家族を助けたい。しかし先立つ資金は皆無で、銀行も相手にしてくれない。悩み抜く日々が続いた。そんなある日、日田重太郎は、佐三の苦悩を見抜いて言った。「君は独立したいんだろう。その資金に困っているのではないかね」。驚く佐三に向かって日田は続けた。「実は京都にある家が売れるんだ。6千円ほど余るから、君にあげようじゃないか」。佐三は仰天した。6千円といえば、現在に換算すると6千万円程の大金である。
その上、日田は驚くべき条件を出してきた。この金はあげるのだから返す必要がないということ。それと、従業員も家族の一員と思って、仲良くやること。佐三は大いに迷った。しかし、人道主義と士魂商才の商人になることで、この恩返しをする道があると思い、ありがたく受け取ることにした。こうして1911年6月、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に出光商会を設立。25歳の独立である。
顧客に利益を
当初、出光商会は日本石油下関支店の機械油を扱う特約店として出発した。しかし、それは厳しい船出であった。電気モーターへの切り替えの時代で、機械油の需要は減退していた。また、士魂商才を目指す佐三は商売においてフェアプレーにこだわった。袖の下(内緒の贈答品)を要求する相手には、「そんなことをしてまで売ることはない」と突っぱねる始末である。日田からもらった資金は、3年間で底をついてしまった。
廃業を決意した佐三は、その報告に日田を訪ねた。意気消沈する佐三に対し、日田は「3年で駄目なら5年、5年で駄目なら10年と、なぜ頑張らん。幸い、神戸にまだ私の家は残っている。それを売れば当面の資金には困らんだろう」。日田の断固とした姿勢に、佐三は退路を断たれてしまった。前に進むしかない。かといって日田にこれ以上、家を売らせるわけにはいかない。佐三は事業を続ける覚悟を決めた。
苦境脱出のきっかけとなったのは、漁民や運搬業者の機械船への燃料油の売り込みだった。これまで高価な灯油を使っていた彼らに、安価な軽油で十分であることを証明し、コスト削減をもたらし、利益が増大することに貢献したのである。佐三の商人道の実践が、はじめて成功したケースとなった。そしてついに、2、3年後には関門(下関と門司)一帯の漁船や運搬船のほとんどを掌握してしまったのである。
戦後、再建を決意
1913年初冬、佐三ははじめて満州(中国東北地域)の地を踏んだ。日本最大の国策会社である満鉄(南満州鉄道株式会社)に車軸油を売り込むためである。しかし、そこはスタンダード社などの外油(外国油)の独占場。国産油が入る余地はなかった。その外油の壁を切り崩そうというのである。誰が見ても無謀な試みだった。
独占は癒着を生み、癒着は高いコストとして跳ね返ってくる。佐三は、そのからくりを見抜いていた。満鉄当局に対し粘り強い交渉が始まった。国産油の高い品質を実験とデータで示し、それを使うことが、満鉄に利益をもたらし、国益にも適うことを説明したのである。佐三の熱意が満鉄内に多くの味方を得て、外油の牙城を切り崩すことに成功した。
その後、朝鮮、台湾に進出。さらに日中戦争の拡大と共に、中国本土に拠点を拡大し、出光商会は従業員千名程を抱える大会社に成長した。しかし太平洋戦争の敗戦により、日本は焦土と化し、佐三もすべてを失った。
敗戦の2日後(1945年8月17日)、佐三は出社した社員二十数人を集め、考えに考え抜いた結論を吐露した。「泣き言をやめ、日本の偉大なる国民性を信じ、再建の道を進もうではないか」。佐三自身の決意の表明であった。
その1ヶ月後、佐三は驚くべき宣言をした。海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしないというのである。当時の出光の全社員数は、約千名。そのうち約800名が、外地からの復員者である。資産もない。事業もない、膨大な借金があるだけ。どうやって復員者を受け入れるというのだろうか。何か見通しがあったわけではない。佐三にあったのは、社員を思う気持ちと信念だけであった。
「タンクの底にかえれ」
復員者のクビを切らないため、何でも行った。ラジオ、醤油、酢などの販売、畜産、養鶏など思いつく限りのことに手を出したが、いずれもうまくいかない。復員者には待機命令を出さざるを得なくなった。仕事がないのである。そんな中、佐三は戦前集めた書画骨董を売り払い、銀行から可能な限り借金をした。待機組にすら給料を送金するためである。
復員後、気力を失い、郷里に引きこもっていた青年がいた。その彼が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、父は彼を烈火のごとく叱った。「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれた。それが辞めるとは何ごとだ。すぐ、出光さんにお礼の奉公をしろ。6年間、ただで働いて、それから帰ってこい」。青年は思い直したという。
待望の石油事業に復帰する機会が意外に早く訪れた。戦後、日本の石油が枯渇状態の中、GHQ(占領軍本部)は、「旧海軍のタンクの底に油が残っている。これを処理し活用せよ」という指令を発した。しかし、これは大変な仕事であった。タンクの底に入って、油を汲み取る作業である。中毒、窒息、爆発の危険性があり、誰もが避けたい作業であった。それが回り回って出光に来たのである。
佐三は喜んだ。「これで石油界に復帰する手がかりができた」。待機組を動員し、「タンクの底さらえ」作業を開始した。鼻を突く悪臭の中、油まみれ、泥まみれの作業が連日続いた。手足がただれるような大変な作業ではあったが、佐三をはじめ社員の気持ちは悲痛なものではなかった。石油界復帰の希望に溢れていたからである。
約1年半に及んだ「底さらえ」で、廃油2万キロリットルほどの汲み取りに成功した。この仕事ぶりはGHQに強烈な印象を残し、「出光を重んずべし」の空気を生み出したという。これが、後に正式に石油界に復帰する足がかりとなり、出光蘇生の原点となった。「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となるのである。
恩人に報いる
その後、1953年に佐三はイギリスと係争中のイランから、他に先駆けて石油の輸入に成功。出光に莫大な利益をもたらした。56年には、徳山湾に臨む地域に当時日本一の規模を誇る製油所を建設した。まさに「世界の出光」にのし上がっていくのである。
製油所建設の竣工式に佐三は、大恩人である日田重太郎を招待した。82歳の日田に佐三は言った。「すべてあなたの御恩のおかげです」。日田は「あなたの努力と神様のご加護じゃよ」と言って、佐三に手を差し出した。佐三はその手をしっかりと握りしめしばらく離さなかったという。
日田が神戸に住んでいた頃、佐三は神戸支店員を毎晩、日田家に派遣し、年老いた重太郎の晩酌の相手を命じていた。夏には軽井沢にある出光の別荘を日田のために提供した。郷里淡路島で行われた日田の葬儀は出光興産の「社葬」として、佐三自ら参席し、生涯の大恩人に報いたのである。日田は実に恵まれた晩年を過ごしたと言える。
1981年3月7日、95歳の出光佐三はついに人生の幕を下ろした。佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙した。後は言葉にならなかった。
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