池田 敏雄
(いけだ としお)
日本コンピューター産業の父
数学に没頭する天才
資金力、技術力、人力において、他社より圧倒的に劣っていた富士通は、会社の未来を池田という一人の天才に賭けるしか、方策はなかった。池田は、その期待に見事に応え、コンピューター先進国アメリカのIBMを超えるコンピューターを完成させ、会社を業界トップの地位に押し上げた。
数学に熱中する天才
20世紀の最も重要な発明の一つとして、コンピューターを挙げることに異存を唱える者はいないだろう。池田敏雄は日本のコンピューター産業の命運を決定づける役割を演じた人物である。富士通は、池田がいたからこそ、コンピューター部門に社運を賭けたのである。富士通ばかりではない。通産省(現在の経済産業省)の平松守彦(電子政策課課長、後に大分県知事)は、「コンピューター政策というのは、池田さんのような人が国産機を作るのを応援することだ」と言い切った。池田は国の政策にまで影響を与えたのである。
1923年8月7日、東京の東両国に薬屋を営む弥太郎、まさ子の長男として、池田敏雄は生まれた。小学校時代の同級生は池田を思い出して、「算数がやたらによくできた。暗算なども、ずば抜けて早かったね。すごかった」と語っている。中学に入ると、数学の才能はますます磨きがかかり、友人の誰もがその才能に畏敬の念を感じていたという。
池田は、まんべんなく良い成績を取るという優等生型の人間ではなかった。むしろ、好きな学科には熱中するが、嫌いな学科には見向きもしない。いわゆる天才肌である。その結果、第一志望の東大工学部も、滑り止めのつもりの東北大学も落ちてしまう。「そこが池田の池田たるゆえんだ」と友人は言う。結局、彼は東京工業大学電気工学科に入学した。
コンピューター開発
1946年12月、東工大を卒業した池田敏雄は富士通に入社した。配属されたのは技術部交換機課。当時の富士通は、電気通信省(現在の総務省、NTTなど)からの受注が売り上げの大半を占める「御用メーカー」であった。しかし池田は電気、通信分野にほとんど関心を示さず、数学にのめり込むばかり。彼の本棚は、数値計算や数理哲学などの本で埋まっており、時間があれば難しい高次方程式を解いていた。同僚たちは、そんな彼を「ちょっと変わった数学屋」と見なしていたという。
2年後、彼は機構研究室に配置転換された。電気に関心を示さない。モノ作りの現場にも向かない。そんな池田を見て、上司は研究部門が適しているのではないかと判断したのである。一種の厄介払いとも言われた。
1950年代前半、世界はコンピューター商戦時代に突入していた。富士通もコンピューターの独自開発を模索していたが、当時、総売り上げ10億円程度の富士通にとってそれは、無謀な挑戦だった。底知れぬ金食い虫となることが予想されたからだ。しかし、「脱電気通信省」を目指す富士通は、コンピューターの無限に広がる可能性に賭け、その開発に取り組むことを決定した。
そのプロジェクト・チームを立ち上げたのは、後に社長となる小林大祐。この小林を説得して、自力開発をやるという決断を促したのが、池田敏雄であった。その頃、池田は真空管でパルス・カウンター(一種の電子計算機)を作っており、その延長上にコンピューターができるという確かな手応えを感じていたのである。
池田はコンピューターにすっかり取り憑かれていた。数学がそのまま仕事に結びつくのである。彼にとって、こんな嬉しいことはない。入社当時、お荷物的扱いだった男が、一気に脚光を浴びる表舞台に登場したのである。「いよいよ数学屋の時代が来た」。こんな高揚感を抱きながら、池田は猛然とやる気を起こした。この時期のことを後に、「震えるほどの感動と緊迫感と楽しさの時代」と彼は書き残している。
0号コンピューター
1952年9月、小林、池田を含むプロジェクト・チームが編成された。このプロジェクトのターゲットは、東京証券取引所から依頼があった「株式取引高精算用計算機」。コンピューターではなかった。しかし、富士通には一つの青写真があった。外国資本に牛耳られていた計算機市場に殴り込みをかけ、「日の丸計算機」を作り上げる。そして、将来的にはコンピューターへの離陸を図ろうというもの。それゆえ、この計算機を0号コンピューターと位置づけて取り組んだのである。
納期は53年3月で、残された期間はわずか半年。常識ではとても無理な話である。しかし、池田は口癖のように言った。「無理は承知だ。しかし、チャレンジャーには、無理という贅沢は許されない」と。この言葉の通り、池田の無理無理の生活が続いた。演算回路の設計に打ち込み、徹夜状態が続く。
基本設計の期限は10月いっぱい。それを過ぎれば、この計画そのものがご破算になる。池田は一心不乱に机に向かった。ノートに数字と図を書き続ける日々。ちぎり捨てたノートの紙が部屋中に散乱し、足の踏み場もない状態だったという。ようやくまとめ上げた設計図は驚くべきものだった。5千を超える池田の設計図には、誤りがわずか3個しかなかったという。そのずば抜けた緻密さと集中力に誰もが驚嘆してしまった。
彼らの苦心の結果、株式取引高精算用計算機は完成したものの、結局、それは採用されず、「幻の計算機」に終わった。原因は、巨大すぎたのと、トラブル続きだったことである。しかし不採用は池田にとって織り込み済みで、必ずしも挫折ではなかった。富士通内部のプレゼンテーションには成功。第一号コンピューター開発の正式許可を得た。富士通は会社を挙げて、池田の才能に賭ける体制作りに取り組み始めたのである。
池田敏雄に賭ける
小林は進取の精神に富んだ上司であった。彼は、池田の才能を思う存分に引き出す環境作りこそが、自分の役割だと感じており、それに徹した。たとえば、池田という男は、何かアイディアを思いついたり、疑問が湧いたりすることがあると、もうじっとしておれなくなる。それが真夜中であろうと、小林宅を訪問する。そんなことは1度や、2度ではなかった。そんな時でも、小林は一度も嫌な顔を見せたことがなかったという。小林が結核の手術をして、療養中の身であった時ですらも。
会社で「池田処分」の声が上がったことがあった。徹夜の連続で、そのまま自宅で仕事に没頭し、ついに会社に出てこなくなったからである。小林はそんな池田を庇い続けた。重役、関係者の間を奔走して、処分はもちろん、給料カットさえも跳ね返した。そればかりか、小言の一つすら言わなかったという。小林はよく知っていた。池田が出社しないのは、仕事に没入する彼の天才性のゆえであることを。それに、富士通の将来は、池田に賭けるしかないことも。
当時の富士通は、資金力でも、組織力でも、日立や日本電気に太刀打ちできる会社ではなかった。そんな富士通が、底なしの金食い虫と言われたコンピューター事業に乗り出そうという。無謀な挑戦だった。池田の天才性に賭けるしか、方策がなかったのである。
悪戦苦闘の末、ついに第一号コンピューター完成の目処が立った。1954年の秋のことである。FACOM100と命名されたこのコンピューターは、湯川秀樹(日本初のノーベル賞受賞者)から依頼された多重積分の計算をわずか3日で答えを出した。人間の手でやっていたら、2年はかかると言われた計算である。湯川も大いに喜んだ。
幹部たちは、早速これを商品化して販売しようとした。何しろ湯川秀樹のお墨付きをいただいたのである。しかし池田敏雄は断固、これを拒絶した。FACOM100には、時として誤作動を見逃す欠陥があった。これを伏せて売るのは、詐欺行為に思えたのである。
そして、ついにその欠陥を補う画期的な回路を池田は作り上げてしまった。誤作動が起きたら、その瞬間にチェックして、自動的に再演算する回路である。それを組み込んだのが、「名機」と評価されたFACOM128である。これは、姉妹機を含めると販売台数が30機を超え、ベストセラーとなった。弱冠33歳の時の快挙である。
コンピューター会社へ
電算機技術部長という管理的立場に立っても、池田の挑戦は続いた。1960年代半ば、世界の最先端コンピューターはIBM360であったが、それを上回るものを作ると言い出し、そのために、全てをIC化する構想を打ち上げた。池田の夢でもあった。
IBM360はICとトランジスタを併用したハイブリッド方式。全IC化に成功すれば、IBMを超えることは間違いない。しかし、一部の開発スタッフにとって、それは夢と言うより、空想にしか思えなかった。
池田には見通しがあった。CPU(中央処理装置)を2台にして、それらを一つのプログラムで制御する仕組みである。この双頭(マルチシステム)を制御するソフトウェアを自前で開発するには、膨大な人力と莫大な資金が必要となる。それでも、完成できるかどうかはわからない。さすがの池田も、一時は開発凍結を決意せざる得なかったほどに難しい挑戦だった。しかし、池田の分身ともいうべき若いスタッフたちに励まされて、双頭、全IC化の夢の実現に向かって、全精力を傾けて取り組んだ。その結果、完成したのが、世界初となる2CPU、全ICコンピューターFACOM230―60である。
これは大ベストセラーとなり、富士通は1970年9月期には、コンピューターのシェアでは、念願の業界トップに躍進した。そして、売り上げでも、コンピューター部門は富士通全体の50%を超え、富士通はコンピューター会社へと転換を果たしたのである。
1974年11月10日、池田敏雄は羽田空港にいた。カナダから来たお客と握手を交わしたその瞬間。いきなり仰向けに、棍棒のように倒れてしまった。クモ膜下出血だった。すでに意識はなく、危篤状態。ここ数年、提携先の米アムダール社との紛争処理のため、日米の間を何度も往復し、解決の兆しが見え始めた矢先のことだった。池田の危篤を知った部下の一人が言った。「みんなが池田さんに頼りすぎたんだ」。4日後、池田は意識不明のまま、息を引き取った。
社葬において、知り合いの記者が弔辞を送り、「天馬空を行くが如き活躍」と二度繰り返した。その後、感極まってしまい、それ以上言葉を続けられなかったという。まさに51年間の短い生涯を天馬のごとく駆け抜け、池田敏雄は日本コンピューター産業の父となった。
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