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井上準之助

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井上準之助 
(いのうえじゅんのすけ)

金解禁を断行した信念  
浜口首相との二人三脚

 井上準之助は、権力におもねることもせず、大衆に迎合することもない、信念の人だった。そのぶれない信念を貫くがゆえに、時には上司とぶつかり、左遷の憂き目にもあった。しかし日本の危機にあっては、彼のその信念が必要とされ、日本経済の舵取りを託されていくのである。

井上準之助

信念の財政家

 井上準之助は大蔵大臣の時、首相の浜口雄幸を助け、金解禁(金の輸出の自由化)を断行し、金本位制(金を本位貨幣とする制度)の復帰を不退転の決意でやり遂げた政治家であり、財政家である。経済の行き詰まりを根本的に打開するには、この金本位制の復帰しかないことは、誰もがわかっていた。しかし過去12年間、8代の内閣は、手をつけようとしてもつけられなかった。なぜなら、それは緊縮財政を強いられるがゆえ、不況政策を意味していたからである。特に軍事費削減を拒否する軍部の激しい抵抗が必至であった。しかし井上と浜口は、どんな抵抗も受けて立とうと決意し、それを断行したのである。
 1869年3月25日、井上は大分県日田郡大鶴村の造り酒屋の第7子として生まれた。機敏で負けん気が強く、向上心に溢れた少年は郷里を出て、東京に行こうと決心する。このまま田舎に埋もれて一生を終わるのかと思うとやりきれない思いに襲われたのだ。何か当てがあるわけではなく、無鉄砲に近い上京であった。


日本銀行へ

 案の定、東京には就職口が何もない。学問の必要性を痛感させられた井上は、二高(現在の東北大学)の補欠募集を受け、合格。二高の法科を首席で卒業した井上は、東京帝国大学法科に入学。卒業後、日本銀行に就職が決まった。井上は財政家としての第一歩を踏み出したのである。
 大阪支店勤務を皮切りに、井上はエリート街道を駆け上がっていった。31歳で日銀の検査役。36歳で大阪支店長。日銀の最も枢要なポストと言われる営業局長に抜擢されたのは38歳。前例のない若さだった。自信に溢れ、飛ぶ鳥を落とす勢いの井上にも翳りが見えだした。大蔵省出身の総裁、松尾臣善との確執である。
 気性が激しく、何事にも筋を通そうとする井上は、大物財界人と次々と衝突した。波乱を好まない松尾総裁は、ついに井上の異動を決断し、ニューヨーク支店勤務を言い渡す。肩書きは海外代理店監督役。特にこれと言った仕事はなく、部下は2人。オフィスも正金銀行支店の一角を借りているにすぎない。完全に左遷人事であった。日銀のホープが、一転して奈落の底に突き落とされてしまったのである。
 1909年1月20日、40歳を目前にした井上は、単身で東京を発った。約2年間に及ぶニューヨーク生活は、苦痛に耐える日々だった。充電期間と割り切り、読書三昧に明け暮れた。そんな井上にとって、唯一の慰めは妻からの手紙であった。東京を発つとき、彼は妻の千代子と、毎日互いに手紙を書くことを約束していた。妻を深く愛していたのである。誇り高き彼が、屈辱的な降格人事を受け入れたのも、妻を思えばこそであった。妻は病み上がりであった。退職してしまえば、妻に物心両面で負担をかけてしまう。屈辱は自分ひとりが耐えればすむことである。彼は妻に書いた。「ただ千代子さんに慰められれば、世間の辛苦は耐えられます」と。家族を離れて2年近く経ち、さすがの井上も精神のバランスを崩し始めた頃、正金銀行副頭取になる話が伝えられた。


浜口雄幸との出会い

 1911年6月、井上は正金銀行副頭取に就任。正金は国際金融と外国為替に特化した特殊銀行であった。いまとなれば、正金銀行ニューヨーク支店の一角を借り、ひたすら充電してきた全てが活きてきた。彼は水を得た魚のように動き始めた。井上が、浜口雄幸と運命の出会いをするのは、頭取に昇格して、しばらくしてからのことである。その頃、浜口は大蔵次官(現在の事務次官)の要職にあった。
 第一次世界大戦が勃発し、世界経済は大混乱に陥っていた。日本経済の舵取りを託された二人は顔を合わせ、しばしば打ち合わせをする仲となった。雄弁な井上、寡黙な浜口。二人の性格はまるで異なっていたが、互いに惹かれるものがあった。井上の物怖じしない行動力、国際的な視野に立つ判断力は、浜口にとって実に新鮮であった。以来、井上はさほど用もないのに、連日のように大蔵省に立ち寄り、浜口との親交を深めたのである。
 その後、井上は古巣の日銀総裁に就任、第二次山本権兵衛内閣の蔵相も経験。財政家として、まさに陽の当たる大道を歩んでいくのである。彼は常日頃、周囲に語っていたことがある。「誰もが躊躇し、しかし国家にとって緊要な仕事にこそ、俺は乗り出していく」と。まさにその言葉通り、井上にしかできない仕事が待ち受けていた。


浜口内閣の蔵相

 1929年、民政党総裁であった浜口が総理に就任した。この内閣の最大課題は金解禁と軍縮。組閣の焦点は蔵相の人選に絞られた。浜口は誰が何と言おうと、井上準之助を蔵相に据えると決めていた。彼なしに、金解禁はなしえないと信じていたのだ。浜口の「この仕事は命がけだ。自分は一身を国に捧げる覚悟を決めた」という言葉を聞いて、井上は浜口が本気で死ぬつもりだと感じた。彼は浜口に一身を預ける覚悟を固めるのである。大臣に就任したその日の夜、井上は妻千代子に「今度の大蔵大臣は、ちょっと命が危ないかも知れん」と語り、家、土地などの財産目録を書き出し、妻に手渡した。金解禁に向けて、井上の死を賭けた戦いが始まったのである。
 まさにこの内閣は金解禁断行内閣と言ってよかった。もともと金本位制は、火の利用と並ぶ人類の英知と称えられた制度である。しかし、第一次世界大戦の非常時により、世界の主要国はやむなく金本位制を中止していた。終戦により、各国は当然のごとく金本位制に復帰したのであるが、日本は金解禁の機を逃してしまった。歴代の内閣が懸案を先送りしたためである。その結果、円の不安定な相場に悩まされ続けていた。
 井上が真っ先に、しかも断固として取り組んだのが、緊縮財政であった。金解禁のための布石として、財政を健全化させ、円の相場を法定相場に近づけておかなければならなかったのである。井上は、すでに割り当てずみの1929年度予算をその途中で総点検し、5%削減する指示を出した。そして、削減額が当初の目標を越えてしまうという荒療治をやってのけたのである。井上の意気込みのほどが示された形となった。
 井上が金解禁に託した狙いの一つは、軍部の抑制であった。軍部が軍事費を増大させようと画策しても、金本位制であれば、通貨をむやみに増発できなくなるからである。組閣して4ヶ月後の11月21日、ついに金解禁の大蔵省令を出すに至った。


浜口の死

 金解禁を国民の大多数は歓呼して迎えた。これで苦労も解禁となり、明日にでも好景気が舞い降りてくると錯覚したからである。しかし、井上はこれからが正念場だと思っていた。財政の健全化のため、彼はさらなる大鉈を振るった。特に軍事費の削減が大きく、「国防を犠牲にする気か」と軍部は抵抗した。議会では、常に井上が集中攻撃を浴びた。しかし、彼は怯むことなく平然と受けて立った。周囲に「非難は覚悟している。ぼくは内閣の安全弁さ。ぼく一人が非難されるぐらい、何とも思わない」と語っていたという。
 1930年11月14日、恐れていたことが現実となった。浜口雄幸が、東京駅で右翼の青年に撃たれたのである。奇跡的に一命は取り留めたものの、衰弱が激しかった。安静を願う周囲の説得にもかかわらず、「たとえ議会壇上で死ぬとしても、責任を全うしたい」と言って、断固として登院した。ぼろぼろの体で、野党の質問に真っ向から受けて立つのである。これが浜口の死期を早めたことは間違いない。
 銃弾に倒れた翌年の8月26日、浜口はついに帰らぬ人となった。死の知らせに、閣僚たちは次々に官邸に飛び込んで来た。その中の一人に井上準之助がいた。彼は、玄関に入ると同時に、大声を上げて泣き出した。静まりかえった玄関ホールに、しばらく井上の号泣だけが響き渡っていたという。


信念の政治家

 失業者が溢れかえった。この不景気は、必ずしも金解禁のせいではなかった。むしろその直前に起こった米ウォール街の株式暴落に起因するものである。当時、誰もがこれを一時的な混乱と思っており、大恐慌に発展しようとは予想もしていなかった。その上、1931年9月18日、満州事変が勃発。関東軍(中国東北に駐屯した日本陸軍)の暴走は、財政的に軍の動きを封じ込めようとした井上の意図を空しくするものであった。
 それでも、井上は財政の健全化のため孤軍奮闘し、32年度の歳出予算は総額2割以上の削減を内示した。軍の暴走と膨張に歯止めをかけなければならない。そんな汚れ役をやれるのは、浜口亡き後、自分しかいない。そんな使命感に突き動かされていたのである。当然、軍部は井上を国賊として、蛇蝎のごとく嫌悪した。
 内閣内でも、ついに不協和音が生じ始めた。後継総理の若槻礼次郎は閣内をまとめきれず、総辞職に追い込まれてしまった。元老の西園寺公望が、後継として選んだのが犬養毅(立憲政友会)。新内閣は発足と同時に、金輸出再禁止を断行し、井上らが2年半に渡って行ってきた緊縮財政の苦労は、水泡に帰してしまった。
 浜口が息を引き取った半年後の1932年2月9日、井上は選挙の応援のため演説会場に到着。その直後のことだった。車から降り、数歩歩いた時、一人の男が群衆から飛び出してきた。男は至近距離から井上に拳銃を向け、三発撃ち込んだ。即死だった。
 夜遅く、白い布で顔を覆われ、担架に横たえられた井上が自宅に戻った。千代子夫人と子どもたちは、玄関で並んで出迎えた。弔問客が次々に詰めかけ、一晩中泣き声が絶えなかったという。
 わずか半年の間に、日本は二人の偉大なリーダーを失った。彼らの死後、政党は政治の実権を失い、軍部が息を吹き返すのである。日本は軍国主義の坂を転げ落ちていった。信念の政治家は姿を消し、保身のため困難な課題を先送りするような政治家ばかりが跋扈するのである。青山墓地の一角に、井上の墓は浜口の墓と並んで立っている。彼らは、今の日本の政治状況をどんな気持ちで眺めているのだろうか。



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