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石牟礼道子 
(いしむれ みちこ)

文明の闇の中に光を探す 
鎮魂の書『苦海浄土』   水俣病患者に寄り添う

 石牟礼道子は『苦海浄土 わが水俣病』を書いた。作家の池澤夏樹はこの作品を「戦後日本文学の第一の傑作」と言って絶賛した。この作品は、文明病というべき水俣病の患者たち、死者たちに寄り添いながら書き綴った鎮魂の書である。その執筆には常に生きづらさを感じていた道子自身の救いがかかっていた。



奇病

 1950年代の半ばから、熊本県水俣市では不思議な現象が起こった。猫が奇妙な行動を取り始めたのである。鼻先が石垣に突き当たったり、逆立ちしてぐるぐる舞う。そのあげく海に飛び込んで死んでしまう。住民はそれを「猫踊り病」と呼んでいぶかった。その奇病は人間をも襲い始めた。足元がフラつき、歩行困難に陥る。手の運動もままならない。言葉も不明瞭になり、視野狭窄を引き起こし、膝や手の指に痛みを訴える。こんな患者が続出した。奇病の正体は水俣病、新日本窒素肥料(現在のチッソ)の水俣工場が出す有機水銀に起因する公害病であった。1956年5月1日、水俣病が公式に確認された。



石牟礼道子


 その2年後、石牟礼道子は熊本大学研究班が書いた報告書を読み、衝撃を受け、そのまま寝込んでしまった。患者の惨苦を目の当たりにして、耐えられなくなってしまったのである。しばらくして、彼女は「水俣湾漁民のルポルタージュ 奇病」を書いた。「書いて思いを吐き出さないことには、全く前に進めなかった」からだと彼女は語っている。
 石牟礼道子が生まれたのは1927年3月11日、熊本県天草郡宮野河内村(現在は天草市)である。道子が3歳の時、一家は水俣町に転居した。父の白石亀太郎は、石工の棟梁であった吉田松太郎(道子の祖父)の会社吉田組で図面書きなどの仕事をしていた。そして松太郎の娘ハルノと結婚し、婿養子となる。
 両親は弱者への無限なる労り、優しさの持ち主であった。「かんじん殿」と呼ばれていた乞食が村に訪れると、道子の家ではにぎりめしを食わすなどして、彼らを大切に扱った。また周りから軽蔑されていた女郎屋の女達ですら、吉田家では蔑むことはなかった。むしろ、親から売られた可哀想な娘達だと言って、彼らの身の上に同情の気持ちを寄せていた。後の作家石牟礼道子の人間形成に、こうした環境が大きく影響したことは想像に難くない。



生きづらさ

 道子は感受性の強い女性であった。小学校の教員として勤めていた頃、たまたま列車の中で、一人の戦災孤児と遭遇した。裸足に薄いモンペ。「私と同じ人間なのに」と思いが湧き起こり、その孤児の少女を背中に背負いながら、自宅に連れてきてしまう。少女の故郷、関西に帰そうという声が上がっても、「なぜ同じ人なのに、放り出さなければならないのか」と言って抵抗した。苦境の人を見過ごすことができない性分なのである。
 そうした感受性の強さは、この世の中に対し、常に生きづらさを感ずるように彼女を追い込んでいく。道子は言う。「教師の仕事が苦しかった」と。教師として子どもたちと向き合うことが嫌だったわけではない。むしろ惜しみなく愛情を注ぎ、生徒からの評判は高かった。しかし、戦時中の軍国主義教育にすっかり疲弊していたのである。「私は登校拒否教師でした」と言う道子は、「世の中が嫌で、嫌で、思い詰めていた」と語っている。こうした虚無感は戦後、アメリカ主導の民主主義に変わっても、ずっと引きずることになる。若い頃の彼女は何度も自殺未遂を繰り返した。感受性の強さによる虚無感、生きづらさが彼女の深奥に深く根を下ろしていたからなのである。
 1947年、道子は教師の石牟礼弘と結婚。20歳の時である。しかし、この結婚も道子の虚無感を払拭することにはならず、むしろ、生きづらさを助長してしまう。封建的な家父長制が強い当時にあって、女性が担わされる主婦業は彼女にとって理不尽な日常でしかなかった。結婚4ヶ月目に自殺を図るほどに彼女は追い詰められていく。それでもギリギリのところで自殺を思いとどまったのは、息子の誕生であった。もう一つ、彼女を救ったものがある。詩魂である。「死にたい、苦しい、悲しい。嫌でたまらない。だからものを書かずにいられなかった」と語る。詩(短歌)を作り、新聞の歌壇に投稿し、やがて歌人として将来が嘱望されはじめたことは、生き続ける一つの支えになっていたのである。



『苦海浄土』の誕生

 水俣在住の道子が、作家池澤夏樹をして「戦後日本文学の第一の傑作」と言わしめた『苦海浄土 わが水俣病』を書き始めたのは、必然的なことだったのかもしれない。苦悩に打ちひしがれる患者達に寄り添い、一緒に泣き、そして彼らの声なき声に耳を澄ませながら、書きつづった文学作品が『苦海浄土』であった。
 5歳で発病し8歳で死んだ溝口トヨ子は、桜を愛する娘だった。桜の開花時期、死の床から這い出して遠い桜を見た。「ああ、母ちゃん、シャクラ(桜)の花がシャイタ(咲いた)、……美しかなあ」。トヨ子の母は、水俣病第一次訴訟の結審時、「トヨ子ば、返して、返して」と絶叫しながら、チッソの幹部の胸に取りすがって泣いた。『苦海浄土』は、こうした患者や家族の声に耳を澄ませながら、言葉として紡いでいった作品なのである。
 当初、奇病とされた水俣病患者は、露骨な差別を受けてきた。買い物に行って、カネを渡そうとすると、店員はカネに触れようとしない。後でその硬貨を煮沸消毒したという。家の前を通っただけで消毒剤をまかれることもあった。そんな差別された患者達の姿に、深い孤独の淵に彷徨っていた道子は、自分の姿を見る思いがした。彼らの苦悩を自らの孤独と重ね合わせながら、その叫びを言葉にする作業は彼女自身の魂の叫びの言語化に他ならなかった。患者達との出会いは、常に死に場所を探していた道子の救済になったことは間違いない。患者達を救おうとしながら、彼女自身が救われていたのである。
 道子が41歳の時、『苦海浄土』が出版された。その後、患者達の人権を守るため、加害会社チッソに対する補償交渉(水俣病闘争)に参加するようになっていく。しかし、道子はこうした市民運動を無条件で支持していたわけではなかった。そもそも「市民」という言葉を忌み嫌っていたし、闘争が金銭の交渉事に終わることに強い懸念を持っていた。
 彼女の意識を常に占有していたのは、顔の見えない近代的な「市民」ではなく、「村のにんげん」たちとのつながりに他ならなかった。さらに、村を取り囲む自然であり、不知火の海であり、人と自然と神が共存する前近代的なつながりなのであった。水銀汚染によって、その環境が犯され、人間が殺されていくことに彼女は耐えられなかったのである。
 彼女は言う。「水俣病患者は2度殺された」と。法廷闘争に際し、地元民は「会社を潰すつもりか。会社が潰れるということは水俣市が潰れることだ。市民4万5千の命と患者百人余りの命とどっちが大切か」と声を上げた。この言葉に患者は深く傷ついた。それを道子は「二度殺された」と表現し、とことん患者達に寄り添うことを決意するのである。
 道子にとっての水俣病闘争とは単なる金銭交渉ではなく、運命共同体として患者達の中に入っていくことであり、不知火の海で生活する村人の生活を取り戻すことであった。さらに言えば祈りでもあったのである。「死んでいった人の声が聞こえてきて、それにとらわれている感じがある」と道子は語っている。そういう死者の声や患者達の思いに突き動かされ、彼らに成り代わって書いたのが『苦海浄土』であった。祈りの結晶だったのだ。



「浄土」を探す

 この書で、道子は江津野杢太郎一家のことを書いている。半永一光一家がモデルであった。杢太郎少年は胎児性の水俣病患者で排泄すらままならない。漁師の父親も水俣病に罹患。その上、母親は家を見捨てて逃げ出してしまう。杢太郎少年の面倒を見たのは、祖父母にあたる老い先短い老夫婦であった。爺さま(祖父)は、道子に語る。「杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、人一倍、魂の深か子でござす」と。そして、罰当たりのことかもしれないがと言いながら、「じじばばより先に、杢の方に、早うお迎えの来てくれらしたほうが、ありがたかことでございます。この子ば葬ってから、一つの穴に、わしどもが後から入って、抱いてやろうごだるとばい」と言って泣く。
 口もきけない杢太郎は一人では何もできない。しかし、家族の者に心配かけまいと気をつかって、仏さんのように笑って生きている。母親が恋しくないはずがないのに、爺さま、婆さまの心の内を見抜いて、母親のことは決して触れようとはしない。そんな彼を「仏さんでござす」と語る。爺さまの杢太郎に向けられた慈愛は限りなく深い。それは道子の思いとそのまま重なり合っている。彼女は水俣病患者の受難の姿に神に近い何かを常に感じていた。彼らに寄り添い、苦楽を共にしたい。この思いが、常に彼女を突き動かしていた。
 晩年、道子はパーキンソン病を患い、辛い体験をする。しかし、その苦痛を「神様からの贈り物と思うことがある」と述べている。その病気の症状の中に水俣病患者とそっくりの症状があったからである。水俣病患者達と共にあるという感を強く抱いたに違いない。亡くなる2年前、東大安田講堂で開かれた講演会で道子は水俣病で娘を亡くした杉本進に言及した。病に犯され差別を受けて苦しむ娘の栄子が、悲しみや怒りをあらわにすると、父の進は「そぎゃん言うもんじゃなか。人を憎めばそれだけ苦しくなるじゃろ。許す。チッソも許す。差別した人も許す」と言って、娘をたしなめたという。そして「敵同士が許し合えるかどうか、今まだ私のテーマです」と語り、道子は講演を締めくくった。
 2018年2月10日、90歳の道子は静かに人生の幕を下ろした。しかし、彼女が現代人に突きつけた問題提起は、現代社会の闇を鋭く指摘している。自然環境が汚染され、人々のつながりが希薄化し、怨念がうごめく世界に生きる現代人。まさに「苦海」に呻吟する姿と言えるかもしれない。道子は、その苦海の中に「浄土(仏の住む世界)」を探そうともがきながら生きてきたように思われる。崇高な生涯だった。


 
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