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伊東祐亨


伊東祐亨 
(いとう ゆうこう)

死を恐れぬ薩摩武士道 
初代連合艦隊司令長官  丁汝昌提督への礼節 

 戦争を美化するのは危険である。しかし、戦争がもたらす様々な醜悪さにもかかわらず、正義心や愛国心、さらには人間愛などの輝きが浮き彫りになるのも戦争の一つの真実である。伊東祐亨が日清戦争で敵の提督の死に際して示した礼節は、人間愛そのものであり、武士道の表れであった。

画像の説明

薩摩武士道
 伊東祐亨は、薩摩(鹿児島県)出身の海軍軍人。初代の連合艦隊司令長官として日清戦争を戦い、日本を勝利に導いた立役者の一人である。彼は、軍人として卓越した能力を持っていただけではない。仁と義と礼を重んずる武士道精神を体現した人物として、国内外から尊敬された。
 伊東祐亨は、1843年5月21日に父伊東祐典と母喜多の四男として鹿児島に生まれた。幼名は四郎。父は誇り高き薩摩武士で、死をも恐れぬ勇猛心を子供たちに厳しく教え込んだ。父は、元服(成人の式、11歳から17歳頃まで)後の子供たちを、寝る前にひとりずつ呼びつけ、切腹の作法を伝授することを常とした。切腹の作法を見せることで、死を恐るべからずという教えを血肉に染み込ませたのである。
 こうした教育は伊東家に特異だったわけではない。薩摩武士は、「敵を見て死を恐れるな」という、この純粋にして単純な教えを叩き込まれた。それ故、死を避けようとする態度は、卑怯なことであり、最も恥ずべきこととされた。彼らが学んだ剣法「示現流」にその精神は見事に現れている。
 示現流の奥義は、「一の太刀(最初の一振り)を疑わず、二の太刀要らず」と言われているように、刀を抜いたら最初の一撃に全てをかけて打ち下ろす。一の太刀に失敗したら、自分の身体ごと相手にぶつけて死ねと教える。まさに先手必勝の必殺剣法であった。日本最強と恐れられた軍団はこうして作られたのである。
 6歳になった四郎(祐亨の幼名)は、薩摩の郷中教育の日課に加わることになる。これは薩摩独特の青少年に対する教育システムであった。年長者の青少年が年少者に読み書き、剣、槍、弓、馬術などを指導し、武士の掟も叩き込む。1日の大半を同年代、もしくは少し上の世代と過ごしながら、心身の鍛練と勉学にいそしむことで、強い結束力が生まれるのである。この環境で伊東も典型的な薩摩武士の一人として成長した。

勝海舟の「公」
 薩英戦争(1863年)直前、薩摩との交渉のため、7隻のイギリス軍艦が錦江湾に乗り込んできた。20歳になったばかりの伊東は、その威容に圧倒され、畏敬の念すら感じたという。海軍への憧れを漠然と抱くようになったのは、この時からである。
 薩英戦争でイギリスの強さの中核は海軍力にあると見た薩摩は、勝海舟が摂津(現在の兵庫県南東と大阪府北中部)の神戸村に開いた海軍操練所に伊東ら若者20名を送り込んだ。この時の塾頭が土佐を脱藩した坂本龍馬。この龍馬から、航海術と万国公法(国際ルール)を学び、勝海舟からは「日本国」を学んだ。勝は常に「日本国」を考えていた。勝が言う「公」の意識は、藩でもなく、幕府でもなく、それらを超えた「日本国」であった。その視野の広さと見識に伊東は衝撃を受けた。
 この勝との出会いが、伊東の人生を大きく左右することになる。明治六年政変(1873年)の時である。西郷隆盛は野に下り、鹿児島に帰ってしまった。それに続いて、彼を慕う薩摩出身者約6百人が、軍隊、役所を辞めて続々と鹿児島に帰郷した。伊東も西郷を慕う気持ちにおいては、人後に落ちないつもりであった。西郷の手足となって隠密活動などを行っていたこともある。西郷との思い出は山ほどもあったのである。
 深刻に悩んだ末、彼が出した結論は海軍残留である。彼は勝の言葉を思い出していた。幕臣の勝は常々言っていた。「幕府のことは『私』である。日本国が『公』である」と。そうであれば、自分にとっては薩摩や西郷に対する今の気持ちは「私」であり、日本国海軍の軍人としての立場が「公」である。自分自身にこう言い聞かせて、残留を決断した。

日清戦争と愛国心
 伊東祐亨の海軍生活は、明治初年(1868年)11月の海軍局設置と共に始まった。その後、28歳の若さで「第一丁卯」の艦長に就任したのを皮切りに、「春日」「扶桑」「浪速」などの艦長を次々に歴任し、最も豊富な艦長経験者として、海軍内で圧倒的な存在感を示すようになっていた。日清戦争を目前にして、日本海軍は連合艦隊を組織することにし、その初代司令長官に伊東祐亨を任命した。豊富な経験と人望のゆえである。この時伊東は51歳。
 1894年7月25日、ついに戦端が開かれた。海軍において、勝敗の帰趨を決めたのが黄海海戦である。伊東率いる連合艦隊は圧倒的勝利を飾った。丁汝昌率いる清国の北洋艦隊は、主力艦5隻が沈没。それに対し、日本は4隻が大破したものの、沈没艦はゼロ。この圧倒的勝利で制海権は日本が握り、この戦争の勝利を引きつけた。しかし、犠牲は決して少なくなかった。伊東が乗る「松島」の左舷に砲弾が命中。一瞬にして28人が絶命、68人が負傷した。死体が砕け、肉片が飛び散り、鮮血が甲板に溢れていた。
 伊東が破損状況の検分に回っていた時のこと。一人の水兵が瀕死の状態で喘いでいた。彼は全身の力をふりしぼって、長官の足元に這い寄ってきた。「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を出しながら、伊東に手を差し伸べた。
 伊東はその手をしっかり握り、「伊東はこの通り大丈夫じゃ、安心せよ」と言い、その場で2度、3度足踏みをして見せた。水兵は、「長官がご無事なら戦いは勝ちです。バンザイ!」と言いながら、伊東の腕の中で息絶えた。伊東は目を潤ませながら、その手をしばらく離すことはできなかったという。
 他にも、敵弾で腹部が張り裂け、五臓がはみ出す重傷を負いながらも、戦い続けるため、治療室に運ばれるのを拒否した兵士。全身黒こげになりながらも、消火につとめ、鎮火を見て、がっくりと息絶えた者。伊東の腕の中で息絶えた水兵同様、彼らはみな、燃え立つ愛国心が漲っていたのである。

丁汝昌に亡命をすすめる
 一方、丁汝昌提督率いる清国北洋艦隊は、惨憺たるものであった。提督のいる旗艦「定遠」は、200発近い命中弾を受け、甲板はスクラップ状態。提督自身も顔に大火傷を負い、左足も負傷。痛々しい姿であった。その上、黄海海戦では、連合艦隊の攻撃に怖じ気づき、逃走を図る艦船が現れる始末だった。北洋艦隊は、彼らの本拠地である威海衛(中国山東半島北東部)に逃げるように避難した。丁汝昌は、脱出戦を試みようとしたが、それに応ずる艦長は一人もいなかった。彼らは皆、厭戦気分が充満して自暴自棄になっていた水兵たちに剣で脅されていたのである。提督の憂いは深かった。
 伊東は、丁に降伏をすすめる文書を送った。丁を何としても助けたかったのである。それまで、彼は丁とは2回ほど会っていて、同じ海のサムライとして心通ずるものを感じていた。特に2度目の会見では、お互いがすっかりうち解けて、伊東の表現によれば「まるで兄弟のように」なってしまい、写真の交換までしたほどであった。
 伊東は書いた。老朽化した清国を立て直す必要がある。その時、清国は必ずや丁提督を必要とするだろう。しばらく、日本に亡命して、その時まで待ってはどうだろうか。亡命に関しては、日本武士の名誉心に誓って、これを請け合う。
 丁汝昌はこの書信を読んで深い感動を覚え、幾度も読み返したという。書信を受けた十数日後、丁はついに降伏を決意し、伊東宛に「兵士と人民を許して、彼らをその郷里に帰らせてもらいたい」と書いた。伊東はその条件を受け入れる旨を返書にしたため、使者に尋ねた。「丁閣下にはお変わりありませんか」と。そして、体調のすぐれない丁を慰めるため、ブドウ酒とシャンペン、それと干し柿を贈った。丁汝昌は伊東の変わらぬ友情に落涙し、「もはや思い残すことはない」と言って、北京の方向を拝して、その後、毒をあおいで自決した。敗戦の責任を一身に負い、潔く散った丁提督の姿に、伊東は武士道を見た。

最大の弔意を示す
 降伏後、清国側は丁汝昌以下死者の遺体を、ジャンク船(商船)で送ろうとしていた。これを知った伊東は看過することができなかった。たとえ敗戦の将とはいえ、国に殉じた提督である。その遺体をジャンク船で送るというのは、彼の武士道が許さなかったのだ。彼は没収する予定になっていた運送船「康済号」を没収リストからはずし、これに遺体を乗せて送るよう、使者として来ていた牛将軍に伝えた。丁の部下であったこの将軍は、伊東の配慮に感きわまり、その場で泣き崩れてしまった。
 この指示にためらう部下たちに伊東は言った。「俺が同じような立場になっていたら、お前たちはこの俺がボートで送り届けられてもよいのか。この責任は俺が取る。万一お咎めの時は、死をもってお詫びいたすだけのこと」。伊東は涙ながらに彼らを説得した。
 丁の遺体を乗せた「康済号」が威海衛から出港する時がきた。連合艦隊の各艦は半旗を掲げて、一列に整列して見送った。伊東は「松島」の甲板に立ち、ゆっくり前をすすむ「康済号」に向かって、荘厳な敬礼を送った。その直後、「松島」からは弔砲(弔意の礼砲)が放たれた。伊東は敵の提督に最大の弔意を表したのである。
 北洋艦隊消滅の知らせを聞いた清国皇帝の光緒帝は、すぐに丁汝昌の財産没収を言い渡し、葬儀をも許さなかったという。それに対して、伊東に見る日本の対応は、世界から称賛を浴び、日本が世界的な信用を得る契機となった。
 晩年、伊東祐亨は元帥の称号を与えられた。その際に、「これまで、最も印象に残ったことは?」と問われて、彼は迷わず「松島」で瀕死の重傷を負いながら、「長官、ご無事でありましたか」と言って、彼の手を握ったまま死んでいった一水兵のことを語った。「俺はあの時のことを思うと、今でも胸が締め付けられるようじゃ」。自分が立てた勲功は、多くの兵士たちの命の犠牲の上にあることをよく知っていた。それゆえ、自分の勲功を誇る気持ちにはなれなかったのである。
 1914年1月16日、伊東祐亨は72年の生涯に幕を閉じた。海を愛し、国を愛し、そして海軍に生きた一生だった。海軍は葬儀の時、国内にある全ての軍艦に半旗を掲げ、海軍と共に生きた海のサムライに弔意を表した。



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