糸川 英夫
(いとかわ ひでお)
日本の宇宙開発の父
脱常識の「逆転の発想」 人類の未来を展望
糸川英夫は、日本の宇宙開発・ロケット開発をリードしてきた人物である。ベストセラーになった『逆転の発想』の著者としても有名である。常識にとらわれることを嫌い、独創性と開拓者魂が彼の真骨頂であった。少年時代の無邪気な好奇心と感動を生涯、忘れなかった科学者である。
「エジソンになる」
糸川英夫は「日本の宇宙開発の父」と言われている。彼がいなければ、日本の宇宙開発は数十年遅れていたと言う者もいる。糸川英夫は1912年7月20日、東京西麻布の笄町に生まれた。実業高校の校長の荘吉と梅子の間の次男で、好奇心の塊のような少年だった。家に初めて電球がつけられたとき、5歳の英夫は最初、父の手品だと思ったという。しかし、それが手品ではないと知り、英夫は仰天した。
興奮して眠れない英夫は、父に質問した。「この電灯は誰が考えたの?」。父からトーマス・エジソンの名を聞いたのは、その時が初めてだった。父は翌日、絵入りの『エジソン伝』を買い与えた。このエジソンとの出会いが、糸川英夫の人生を決定づけたと言っても過言ではない。「大きくなったら、エジソンみたいになる」とその時決意したという。また父は国際化の時代を予見し、英夫を近所のキリスト教の日曜学校に通わせ、さらにオルガンも習わせた。音楽は糸川の人生に切り離すことができないものとなっていく。
小学校1年の頃の英夫の成績は散々なものだった。とにかく退屈だったのだ。算数のテストで、鉛筆をコロコロ転がして当てずっぽうで答えを書いたら、どれくらいの正解になるかと考えていたという。そんな少年に母はアドバイスをした。「隣りに耳の不自由な五郎ちゃんがいるでしょう。あなたが教えてあげなきゃね」。
その日を起点として、彼は同級生の家庭教師としての自覚が芽ばえ、一生懸命に勉強するようになった。さらに正面に座っている友人が分かるように、字を逆に書く練習までしたという。念の入りようは半端じゃなかった。母のアドバイスも実に的確だったのである。
飛行機に捧げる
見るもの聞くもの全てが、圧倒的な新鮮さで糸川少年を刺激した。虫メガネを使えば、太陽光で火がつくのに気付くと、もう止まらない。次々と紙を燃やし始め、周囲が火事を本気で心配するほど火遊びに熱中した。ベーゴマは不眠症に陥るほどのめり込んだ。
そして、ついに彼の一生を決めるような出会いをすることになる。中学3年の時のこと。チャールズ・リンドバーグが単葉機で大西洋の無着陸横断に成功したという記事が少年の目に飛び込んできた。この快挙は、糸川少年に大変な感動とショックを与えた。しかし、それは普通の少年が感じる感じ方とは異なっていた。とっさに「一体なぜ、日本人が飛べなかったのか」と思ったという。そして「太平洋がまだ残っている。リンドバーグが“太平洋はお前が飛べ”と言っているような気がした」と彼は後に語っている。いかにも糸川らしい。一生を飛行機に捧げる決意がこの時にできたという。
大学は、当然のように東京帝国大学の工学部航空学科を選んだ。卒業後は、教授の強い勧めで中島飛行機に入社することになった。日本屈指の航空機メーカーである。日本が戦争へと突き進んでいた時代である。糸川は、国運を決する戦闘機設計の真っ直中に身を置くことになった。中島の技師たちによって製作された戦闘機が97式戦闘機。単座軽戦闘機としては当時世界最高傑作と言われていた。
その後、糸川は戦闘機「隼」「鍾馗」の設計に携わった。しかし、日本の最も優秀な頭脳と技術の集約であったこれらの戦闘機も、特攻隊として散っていく運命にあったのである。糸川は1942年、中島飛行機を退社、東京帝大助教授として赴任した。
「ロケット旅客機」構想
戦後、GHQ(連合国司令部)は飛行機の製造、研究を禁止。糸川の航空学科も物理工学科となり、糸川の手から飛行機が取り上げられてしまった。当時の心境を「(糸川)―(飛行機)=0」と語る。生きる価値を見失い、一時は自殺まで考えたという。
しかし、糸川には大好きな音楽があった。彼は音響学に興味を持ち、バイオリンの音の研究を開始した。理想的なバイオリン製作に熱中することで、精神の危機を乗り越えていくのである。音響工学という新しい分野を開拓し、脳波研究も開始し、日本初の脳波測定器まで作り上げてしまった。その研究が認められて、アメリカのシカゴ大学から招聘され、講義のために渡米することになった。1953年のことである。
その頃、糸川の胸にはロケット構想が漠然として巣くっていた。シカゴ大学の図書館で資料を探していた時、たまたま「スペース・メディスン」という本の背文字が目に飛び込んできた。人間が宇宙に行った場合、人体に与える影響が書かれていた。アメリカは人間を宇宙に送るつもりらしい。衝撃を受けた。そして天啓のように「ロケットをこの手で作ろう」という思いがわき起こったという。こうなるともう、居ても立ってもいられなくなるのが糸川である。予定を繰り上げて帰国、太平洋を20分で横断する「ロケット旅客機」構想をぶち上げてしまった。さらに関係者を説得し、あっという間に東大の生産技術研究所内にAVSA(航空及び超高速空気力学)研究班を組織してしまった。1954年2月のことである。飛行機屋の魂がロケットという形で蘇ったのである。
日本最初の人工衛星
まるで水を得た魚のように、糸川は動き出した。彼の熱意に動かされ、関係省庁が予算をつけ、協力する企業が現れた。富士精密(現在の日産)の技術部長だった戸田康明は糸川について次のように語っている。「先生の熱意に感銘し協力を誓いました。先生の頭の鋭さ、理解の早さ、大臣級の人なども説き伏せる能力、報道陣への宣伝・対応などその行動力はただ驚くばかりでした」。
そして1年後には、長さ23センチ、直径1・8センチのペンシルロケットの水平発射実験を成功させた。この実験は、日本の宇宙開発史における記念碑的な第一歩となり、この年の十大ニュースに選ばれた。糸川の卓見と熱意なしにあり得なかったものである。
国産のロケット開発に際し、糸川がこだわったことがあった。それは固体燃料である。欧米では液体燃料が常識だった。固体燃料ロケットで到達する高度には限界があると糸川に批判が向けられることも少なくなかった。しかし、糸川は「外国の後ばかり追い回しても意味がない」と取り合わない。常識に立ち向かうのが、糸川流「逆転の発想」なのである。そして、1960年7月、ついにカッパ8型(K-8)ロケットが高度200キロを超え、カッパ9型に至っては350キロを超え、科学者たちは驚喜した。
糸川は、国産の人工衛星打ち上げに並々ならぬ意欲を持ち、東大に宇宙航空研究所(後のJAXA)を創設した。そして、高度千キロを目指す「ラムダ計画」、高度1万キロを展望する「ミュー計画」を推進した。このミュー・シリーズは、後に、ハレー彗星探査において、「固体燃料ロケットによる地球脱出」という史上初の偉業を達成したのである。
糸川の念願叶って、日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功したのは、1970年2月11日のこと。内之浦(鹿児島県)の発射場からラムダ4S型5号機(L-4S-5)が飛び出し、地球周回軌道に投入されたのが確認され、歓声が上がった。ソ連、アメリカ、フランスに次ぐ世界で4番目の衛星自立打ち上げの快挙である。しかし、ここに糸川の姿はなかった。3年前に起こった朝日新聞による執拗な「反糸川キャンペーン」にすっかり嫌気がさした糸川は、東大を辞任していたのである。
周囲は必死に慰留に努めたが、辞意の意思は固かった。「すでに道はできている。若い人に任せても大丈夫」。こんな気持ちであった。「おおすみ」の成功の陰には、若い技術者たちの一致団結があったことは間違いない。彼らは、糸川が去った後、危機を克服すべく、苦難に耐え、涙ぐましい努力を続けてきたのである。この成功の報を糸川は中東の砂漠をドライブ中、ラジオで聞いた。涙が止まらなかったと述懐している。
イスラエルへの旅
東大を退官して以来、「日本を人類の救世主たらしめるにはどうしたらいいのか」という思いが糸川の心を支配していた。組織工学研究所を立ち上げたのも、後にアース・クラブを設立したのも、人類の未来に対する壮大な使命感からであった。
そんな彼を強く刺激したのが、イスラエルのベン・グリオン大学だった。建国の父ベン・グリオン首相が小学生の集まりに出席し、子供たちの夢を聞いた時のこと。「事業家として成功したい」「大きな家に住みたい」。豊かさを求める子供たちを前にベン・グリオンは怒りで身を震わせ、机を叩きながら大声で吠えたという。「荒野に挑もうという者はおらんのか。我々の未来は、砂漠に支配されるか、砂漠を支配するかだ。開拓精神を忘れてはならん!」。この「砂漠から天国を」の考えでできたのが、ベン・グリオン大学だった。この話を聞いた糸川は深く共鳴した。彼の開拓者魂が震えたのである。そして「日本とイスラエルを結びつけることが、世界を幸せにする」と信じ、自費で日本とイスラエルの研究機関を結ぶ協会を立ち上げていくのである。
糸川は少年のような無邪気な好奇心を持ち続けた人物であった。バレエを習いだしたのは、60歳を過ぎてから。また、最高のバイオリンを製作したいという挑戦は、78歳の時に「ヒデオ・イトカワ号」として結実した。そして、「80歳のアリア」と称して、サントリーホールでコンサートまで開催してしまう。老いてなお、好奇心に溢れていたのである。1999年2月21日、糸川英夫は静かに人生の幕を下ろした。享年86歳。
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