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河合栄治郎

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河合栄治郎 
(かわい えいじろう)

理想主義的自由主義者 

軍部との戦いで純理を貫く   天成の教育者

 河合栄治郎は天成の教育者であった。反ファシズム、反マルキシズムのすぐれた思想性はもちろんのこと、何よりも言行一致を貫く生き方が弟子たちに感銘を与えたからであり、後進を育てることに情熱を燃やし続けたからである。河合人脈と呼ばれた門下生たちが、彼の元から巣立っていった所以である。


 

戦闘的自由主義者

河合栄治郎b


 河合栄治郎は思想家であり、教育者である。彼が東京大学に奉職していた戦前、戦中の日本の思想界は、マルキシズムからファシズムに急展開する激動の時代であった。そんな時代にあって、彼は左右両極端のイデオロギーに対し、果敢に戦いを挑み、屈することがなかった。弟子たちの多くは、師の将来を危惧して、自重を促したが、耳を貸そうとはしなかった。戦闘的自由主義者と言われた所以である。

 1891年2月13日、栄治郎は東京の南足立郡千住町(現在の足立区千住)に善兵衛と曾代の間の次男として生まれた。父は小さな酒屋を営んでいたが、後に使用人30人を雇うほどに商売が繁盛した。善兵衛は、公共のために尽くす志が強く、地元の教育事業などに私財を惜しまなかった。刻苦勉励の人であり、意志強固、いったんこうと決めたら梃子でも動かぬ人であったという。この性格は成人した栄治郎の性格そのものであった。

 ろくに小学校も出ていない父は当初、栄治郎に学問をさせるつもりはなく、むしろ商人にさせようと考えていた。しかし、小学校の小林粂三郎先生が彼の非凡さを惜しんで、進学を強く勧めたこともあり、両親は彼の進学を後押しする決断に至るのである。



三人の恩師


 栄治郎が全国の秀才の憧れの的だった一高(現在の東大教養部)に合格を果たしたのは、1908年7月のこと。当時の一高は全寮制であった。その寮の風紀維持にあたって、寮生に殴って反省を求める、いわゆる鉄拳制裁がまかり通っていた。しかし、新渡戸稲造が一高の校長に就任して以来、こうした一高の風潮が少しずつ変わり始めていた。彼は西洋的教養を身につけたクリスチャンであり、教育とは人格と人格の触れ合いだと考える理想主義者であった。一高の古い校風を刷新しようとしていたのである。

 栄治郎は、多くの一高生同様、校長は伝統の破壊者であると思っていた。弁明のため演壇に立った新渡戸は、寮生一同を前に言った。「私の本意は一つ。人生の目的は単なる立身出世にあるのではない。剛健も良い。尚武も良い。しかし究極の狙いは人格の向上にこそある。これが一高の校風と矛盾するだろうか」。新渡戸の演説には理想主義の炎が燃え、青年の魂をふるわせた。栄治郎もその一人だった。以来、立身出世に凝り固まっていたこれまでの価値観が転倒し、人格至上の理想主義者になっていくのである。

 栄治郎を理想主義者に導いたもう一人の恩人がいる。新渡戸の盟友内村鑑三である。より高き境地に自己を引き上げるため、栄治郎は内村鑑三の門を叩いた。内村は、新渡戸よりさらに先鋭化されたキリスト教徒であった。誰におもねることもなく、自己の宗教的信念にのみ忠実に、妥協なく生きようとする内村の求道者としての姿に、栄治郎は心酔した。新渡戸の人格至上主義が、ともすると八方美人的に流れやすい傾向を危惧していた栄治郎にとって、内村との出会いは衝撃だった。新渡戸によって植え付けられた栄治郎の理想主義が、内村によって磨きがかけられていくのである。後に栄治郎は内村と決別するのだが、剛直に信念を貫く内村の生き方は、栄治郎の生き方そのものとなっていく。

 一高を卒業した栄治郎は、東京帝国大学法科大学政治学科に入学した。そこで出会ったのが、政治学科担当教授であった小野塚喜平次であった。日本の近代政治学の始祖と言われ、後に東京帝大の名総長として名を馳せた人物である。栄治郎は彼から自由主義を学んだ。彼は独立自由の人で、個人のプライバシーを最も尊重し、他人の生活には一切干渉しない。同時に自己の生活方針は断固として貫こうとする。真正の自由主義者であった。

 小野塚は学才卓抜の栄治郎を大学に残し、いずれ自分の後継者に考えていた。しかし、栄治郎が選んだ先は農商務省。彼の理想主義、人道主義がそうさせた。悲惨で哀れな労働者のために自分を捧げたい、そんな使命感に突き動かされた決断であった。

 しかし、労働問題は改革の問題であり、既得権益を享受している階級との戦いでもあった。4年間、理想主義に燃え、全力を傾注したが、何よりも彼らは労働者に対する愛に欠けていた。失望した栄治郎は官を辞した。彼を迎え入れたのは、東京帝大の恩師たちだった。彼は経済学部の助教授として教壇に立ち、学問に没頭できる日がやってきたのである。



反マルキシズムと反ファシズム


 栄治郎が教壇に立った1920年代は、日本はマルキシズム旋風が吹き荒れていた。レーニンのロシア革命の直後のことであり、新しい思想として魅力的だったのである。しかし、栄治郎はどうしてもマルキシズムになじめなかった。新渡戸稲造や内村鑑三のキリスト教的理想主義の影響もあったであろうし、3年近くの英国留学で、自らの思想体系をほぼ確立していたからでもあった。それは理想主義的個人主義哲学であり、栄治郎自身、自らを自由主義的社会主義者と任じていた。それはマルキシズムとは相容れない思想なのだ。

 しかし自由主義者の立場は微妙である。「赤狩り」と称される左翼弾圧が学内で起こった時には、左翼教授追放を阻止しようとさえした。言論には言論で応ずべきであり、学問の府である以上、反対の者をも容れなければならないという自由主義を主張して憚らなかった。それ故、右翼からは共産主義シンパと言われ、左翼からは反動の走狗と批判された。

 41歳の時(1932年)、ドイツ留学に旅立ったのも、マルキシズムを克服し、その道しるべを見出したいからだった。しかし、彼がいた頃のドイツは、ヒトラー内閣が出現し、ファシズムの台頭が著しい時代だった。栄治郎の前に、マルキシズムという怪物の他に、ファシズムという妖怪が立ち現れたという印象であった。

 当初、栄治郎はファシズムを脅威と見なしていなかった。思想的根拠が乏しく、容易に論破できると考えていた。むしろ大敵は理論武装が強固なマルキシズムだった。しかし、ドイツでファシズムの脅威を痛感した彼は、ファシズムを正面の敵として戦う決意をして帰国する。ところが、このファシズムとの戦いは、なかなか厄介であった。理論的根拠が脆弱であるがゆえに、簡単に暴力に訴えるし、軍部や官僚機構の中に深く浸透していたのである。彼はテロの襲撃を覚悟し、免官をも覚悟の上で、この戦いに臨もうとしていた。



純理を貫く


 栄治郎が論壇に書いた最初の論文は、「五・一五事件の批判」(『文藝春秋』)である。ファシズムへの挑戦の第一弾であった。その後、次々と雑誌に投稿し、軍部の武力による政治介入を完膚無きまでに批判した。「誰も何も言わないのはよくない。自分が言わなければ誰が言う」の心境だった。軍部の横暴に対し、言論界も臆して沈黙を守っていた時期である。彼の大胆でかつ鋭い軍部批判は、常日頃、彼に反対する陣営までもが、その勇気に感心したという。栄治郎は一躍、論壇の寵児となった。

 しかし、ファシスト勢力がこれを黙過するはずがない。栄治郎の一連の著作物が発禁処分に付されてしまった。また至る所に見えない殺気があった。そんな時でも、彼は「怯まず、ためらわず純理を貫徹しよう。それで倒れたら運命だ」と自らを鼓舞するのである。1939年2月、検事局は栄治郎の起訴に踏み切った。出版法の「安寧秩序を乱すもの」に該当するという。その時彼は妻に「天、我を捨てず。これで救われた」と言い、起訴を喜んだという。一見おかしなことだが、自分の常日頃の主張、思想が秩序安寧に触れるかどうか、公の場で争える場所を与えられた、そのことを彼は喜んだのである。

 取り調べは一日平均8、9時間に及び、それが12日間も続いた。幸いだったことは、石坂裁判長は外部勢力の影響を極力排除し、司法権の独立を貫こうとする毅然たる態度の持ち主だったことである。30回を越える公判の末、判決は「無罪」。廷内に響き渡る裁判長の凛とした声を聞きながら、栄治郎は法廷内の空気が今の日本では一番自由だと感じていた。しかし、果たせるかな検事は控訴の挙に出た。控訴審では、「有罪、罰金3百円に処する」という判決。拍子抜けするほどの軽い罰金だった。しかし、彼は裁判闘争を自由と真理の戦いと位置づけていたし、曲がったことが大嫌いだった。この3百円はとても承伏できるものではない。大審院へ上告したが、時は太平洋戦争の勃発直後、上告は棄却され有罪が確定した。司法権の独立が脅かされていたのである。一審で無罪判決を出した石坂裁判長は左遷され、二審の裁判長が栄転になったことから見ても明らかだった。

 約2年半に及ぶ裁判闘争で、栄治郎の健康は目に見えて衰え始めた。病床について二審の公判を3回も休まざるを得ないほどだった。バセドー氏病と診断された。下痢と嘔吐を繰り返し、下肢の倦怠感、骨痛を訴える始末だった。体重も激減した。そんな栄治郎を支え、見舞ったのが河合人脈と言われた土屋清、猪木正道をはじめとする門下生たちだった。彼らはみな戦時中の激務にかかわらず、栄治郎が主催する研究会を最優先した。

 栄治郎は「天成の偉大な教育者」と評された。学者、思想家である前に教師であることに生き甲斐を感じており、後進を育てることに情熱を燃やし続けたからである。その上、常に自らを鞭打ち、向上しようとし、正義を貫こうとする姿に、弟子たちは教師の理想像を見ていたのであろう。良き弟子を多く持った所以であった。

 1944年2月15日、栄治郎は家族に見守られて53年の生涯を終えた。晩年、栄治郎は映画『愛染かつら』の主題歌のレコードを書斎を閉め切って一人で聞いていたという。「花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる途」の歌詞に自らの人生を重ね合わせていたのであろう。日本はまだ戦時中であったが、栄治郎の嵐の人生は終わりを告げた。



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