見坊 豪紀
(けんぼう ひでとし)
戦後最大の辞書編纂者
145万の用例カード 辞書は言葉の「かがみ」
見坊豪紀は辞書作りに生涯を捧げた人物である。50年にわたり用例カードを集め続け、その数は145万に及んでいる。平均すると1年間に3万弱のカードを集めたことになる。とても人間業とは思えない。三省堂の社員は、この用例カードを見ると、敬虔な気持ちになると語っている。
辞書作りの申し子
見坊豪紀は、『明解国語辞典』(『明国』)『三省堂国語辞典』(『三国』)の生みの親である。国語辞典と言えば、普通「金田一京助」を思い浮かべる。背表紙には、「文学博士 金田一京助編」と記されていたからだ。金田一京助は原稿を一行も書いていない。典型的な名義貸しだった。『明国』という辞書は、編集方針も実質的な作業も全て見坊一人が担い、彼の超人的な能力と努力の賜物だった。彼は辞書作りの申し子とすら言われている。
見坊豪紀は1914年11月20日、東京で生まれた。父は内務省の地方官。見坊が国語辞書に携わるきっかけを与えてくれたのは、恩師金田一京助(東大文学部言語学科教授)であった。見坊が東京帝国大学文学部国文科の大学院に籍を置いていたときのことである。金田一が、自身が監修をする三省堂の新たな国語辞典の実質的な編纂者に、まだ24歳の一学生の見坊を推薦した。彼の計り知れない才能を見抜いていたのである。
見坊と面接した三省堂の社員は、見坊とのやりとりを通して、彼の編纂者としての才能を確信した。そして、次のような依頼をする。当時三省堂が発行していた『小辞林』という文語文の辞書があったが、それを「口語訳に直して欲しい、新規に入れたい項目があれば入れてもいい」と。見坊は「少し研究してから返事します」と言って帰ってしまった。社員はみな驚いた。誰もが二つ返事で了解してもらえるものと思っていたからである。何事も思い込みで判断せず、客観的な目で確かめてから仕事をしようとしたのである。
2週間後、三省堂本社に現れた見坊に、社員はさらに驚かされた。見坊は三つの編集方針を提案した。「引きやすいこと」「わかりやすいこと」「現代的なこと」の3点である。まず「ひきやすさ」。これは表音式というスタイルで、たとえば「栄養」を従来ならば、「えいやう」と書いていたものを「ええよお」と純然たる発音式に書く(現在では「えいよう」)。「わかりやすさ」とは、図鑑の丸写しみたいなことはやめて、一般の用語で解説する。「現代的なこと」とは、その時代に広く使われている言葉を載せ、特に外来語を積極的に入れる。社員たちは度肝を抜かれた。単に口語文への書き直し程度の依頼だったのに、これまで誰も見たことがない革新的な国語辞書の提案となっていたからだ。
革新的な国語辞典
1年間で原稿を仕上げること。これが三省堂からの依頼であった。見坊の格闘の日々が始まった。これまでの辞書に載っていない言葉を洗い出し、さらに新たに加える言葉を新聞、雑誌から拾い集めていく。新たに加える言葉は、何と8千語に及んだ。単に『小辞林』を口語訳するという次元をはるかに超え、全く新しい辞書が生まれようとしていた。
大学に行くゆとりもなく、狭いアパートの一室に立て籠もり、無我夢中で打ち込んだ結果、できあがった辞書が『明解国語辞典』であった。1年の約束の期限を2ヶ月ほど遅れたため、「申し訳ありません」と深々と頭を下げて詫びる見坊に、意外な言葉が返ってきた。「こんなに短期間でできあがったのは、三省堂始まって以来の快挙ですよ」。こんなに早く原稿が仕上がるとは誰も思っていなかった。猛烈なスピードで、それもたった一人でやり遂げてしまった見坊に若き天才編纂者の誕生を感じていた。見坊は26歳であった。
この辞書は、累計61万部を売り上げる大ヒット商品となった。その結果、金田一京助の名は一躍脚光を浴びたが、世間から見坊を評価する声が聞こえてこない。しかし、彼はそんなことは、全く気にしていなかった。当初は編者の一人として自身の名前が掲載されることすら、断っていたほどである。実に恬淡な男だった。
1945年8月15日、日本は太平洋戦争に敗北。その頃、見坊は東京高等学校で教鞭を取っていた。敗戦によるショックは想像以上で、彼は虚脱状態に陥り、教壇に立つことすらできなくなった。両親の世話になりながら、約3年半、実家で無為に過ごしていた。
この空白期間を抜け出すことができたのは、やはり辞書作りへの情熱だった。『明国』を作り上げる過程で、見坊を補佐してくれた山田忠雄や金田一春彦(京助の息子)との交流を通して、辞書作りの情熱を取り戻していく。この3人が協力して世に送り出した辞書が1952年に出た『明国』の改訂版である。全国各地の中学校で指定辞書として採用され、売れに売れた。売り上げ累計は6百万部に及び、辞書界を席巻するに至ったのである。
しかし、一つ問題が発生した。見坊が提案した「表音式」の見出しである。たとえば、「右往左往」を表音式の『明国』では、「うおおさおお」と表記してしまう。現代の仮名遣いでは「うおうさおう」なのだが。これにはずいぶん苦情が寄せられ、中学の指定辞書から外されるケースが増えていた。それで、現代仮名遣いを採用してできたものが『三省堂国語辞典』であった。1960年のことである。
この『三国』は、辞書界にもう一つの革命をもたらした。これまでの辞書と言葉の意味の解説が根本的に異なっていたのである。たとえば「水」の語釈は、「水素と酸素の化合物」のような説明が大半であった。しかし、『三国』では、「われわれの生活になくてはならない、すき通ったつめたい液体」となる。つまり、言葉のイメージを日常の生活実感の中で掴み取ろうとしたのである。これを見坊は、「言葉の写生」と語った。
ワードハンティング
三省堂の八王子倉庫に、見坊カードと呼ばれる用例カードが大切に保管されている。その数はなんと145万例に及ぶという。見坊一人で50年にわたり集めたものである。彼は常に短冊(細長い紙)を持ち歩いていた。雑誌、新聞、本などを読み、文字という文字を全部チェックし、気になる言葉を短冊に書き込んでいく。個人的選り好みを避けるため、どんな文章も分け隔てなく、くまなくチェックした。現代を反映した辞書を作るには、「生きた言葉」を徹底的に調査しなければならないと考えていたからである。
三省堂の社員は、この見坊カードを前にすると、一種の畏怖の念に襲われ、見るたびに敬虔な気持ちになるという。見坊の辞書作りに対する真摯な姿勢が伝わってくるからだ。見坊がワードハンティング(用例採集)したこの145万のカードにこそ、彼が「戦後最大の辞書編纂者」と言われる所以があるのである。
彼のハンティングぶりは、実に徹底していた。仕事時間は毎日15時間、家にいても仕事の手を休めることはなかった。娘は「トイレでも新聞を持ち込んで、出てこなくなっちゃうの」と笑いながら父の思い出を語る。家族との食事中ですら、短冊を食卓の横に置き、仕事が途切れることはなかった。家族旅行ですら、新聞、雑誌を読むばかり。父と遊んだ記憶は正月にトランプをしたことだけ。正月には新聞が来ないからだという。彼の偉業はこうした生活の上に成り立っていたのである。
片寄りのない辞書
しかし見坊の用例採集は、思わぬ副作用を生んでしまう。用例採集に明け暮れたため、語釈に取りかかる時間がないのである。そのため、『明国』『三国』の改訂版を出さなければならない時期になっても、刊行されない状態が10年以上も続いてしまった。これに苛立ちを募らせたのが、三省堂と見坊の長年のパートナー山田忠雄であった。またその頃、山田はこれまでにない独創的な辞書を作ってみたいという意欲を持っていた。
こうして出版を急ぐ三省堂は、山田に改訂作業を任せることになった。こうしてできあがったものが『新明解国語辞書』で、全く別物に生まれ変わっていた。山田には、他の辞書の模倣を繰り返す辞書界への深い憂いがあった。そこに一石を投ずる気持ちもあったのであろう。あまりにも主観的、個人的な語釈が出過ぎてしまった。たとえば、「動物園」の語釈は、「生態を公衆に見せ、……捕らえられてきた多くの鳥獣などに対し、狭い空間での生活を余儀なくし、飼い殺しにする、人間中心の施設」とした。ずいぶん物議を呼んだが、その斬新さもあって売り上げは初年度だけで85万部の爆発的大ヒットとなった。
山田は、「言葉には必ず表と裏の秘められた意味がある。その裏の意味を指摘したい」という思いを持っていた。その結果、アクの強い語釈の辞書ができたのである。しかし、これは見坊の意図する辞書とは全く相反するものであった。見坊は辞書とは「かがみ」であるという信念を持ち続けていた。辞書は言葉を写す「鏡」であり、同時に言葉を正す「鑑(手本、模範)」である。「鏡」であるにはまず基礎資料が必要となる。145万の用例はそのために集めたものだった。辞書はまず言葉の鏡となって、次に鑑となるのである。
山田が作った『新明解』があまりにも型破りであったため、逆に見坊の『三国』の評価が高まったことは間違いない。朝日ジャーナル誌は、「この訳語には毒々しさがない。片寄っていない。平明である。文例は極めて適切である」と論評し、言語学者の大野晋も、「説明が平易で、それがよくこなれている」と絶賛した。
最晩年、見坊は病魔と戦いながら、最後の力を振り絞り、『三国』第4版を世に送り出した。「これでもう、思い残すことはない」と周囲に語っていたという。その出版から半年後の1992年10月21日、77歳の見坊はその人生に幕を下ろした。見坊は、虚栄心とは全く無縁の男であった。地位にも名誉にもこだわらす、叙勲すら断ったという。その彼が、「残しておいて欲しい」と訴えていたものがある。145万に及ぶ「見坊カード」であった。それは彼が辞書作りに捧げた生涯の結晶のようなものだった。ある人は、見坊豪紀を北極星のような人と呼ぶ。国語辞書の一つの基準を示す存在となった。
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