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岸信介


岸信介 
(きしのぶすけ) 

死を覚悟した安保改定 
保守合同の立役者  占領体制からの脱却

 岸信介が目指していたものは、占領体制からの脱却、それと共産勢力の浸透を阻止すること。その第一歩が、日米安保の改定と位置づけていた。デモ隊による激しい反対の嵐の中で、ついに安保改定をやり遂げた。彼の中の信念は、如何なる反対があろうとも揺らぐことはなかった。

画像の説明

佐藤家の教育
 戦後の政治家の中で、岸信介ほど毀誉褒貶の激しい人物は見あたらない。「妖怪」あるいは「巨魁」と称する者もいる。いずれにせよ、1960年の日米安保改定は岸なしにはあり得なかった。戦後の日本の一つの方向付けをしたという意味では、日本政治史に残る傑物の一人であることは間違いない。
 1896年11月13日、岸信介は山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に生まれた。造り酒屋を営む父佐藤秀助と母茂世の間には、三男七女がいて、信介はその次男であった。父の秀助はもともと岸家の出であったが、佐藤家に婿入りしたため、佐藤姓を名乗ることになる。信介が後に岸姓を名乗ったのは、中学3年の時に父の実家の岸家の養子に入ったからである。
 佐藤家では代々、「男子をして立身出世せしめる」と言われており、一族の教育への執念は目を見張るものがあった。特に母茂世の教育は徹底しており、今でいうスパルタ教育である。そんな教育の甲斐あってか、長男市郎は海軍兵学校始まって以来の秀才と言われ、東大に進んだ信介と三男の栄作(後の総理大臣)の秀才ぶりは語り継がれている。

叔父の死
 少年時代の岸信介にとって、格別に意味を持った存在が叔父(母の実弟)の佐藤松介である。東大医学部を出た秀才で、岡山医専(医学専門学校)の教授をしていた。優秀な信介を見込んで、山口から岡山の小学校に転校させたのは、この叔父である。彼が信介の教育に注いだ熱意は、実の親にも劣らぬもので、自腹を切って、家庭教師、英会話教師などを付けさせたりもした。彼は、信介の姉たちまでも岡山に呼び寄せ地元の女学校に入れて、生活の面倒を全面的に見たのである。
 岸が岡山中学2年の時、この叔父が突然肺炎を患い、35才の若さで急逝した。最も尊敬し頼りにもした叔父である。その時の気持ちを岸は「悲しくて泣いても泣いても泣き足らぬ思いであった」と述べている。彼は一緒に同居していた姉と抱き合って慟哭した。
 後に岸は叔父について次のように語っている。「叔父の全収入は私たちの教育費に全てつぎ込まれた。急逝した後に一銭の蓄えも残さなかったのはそのためである」。こんな叔父に喜んでもらいたい、期待に応えたい。この思いは、松介が存命中はもちろんのこと、死後さらに強くなり、信介の向上心の支えとなっていた。この叔父への思慕の念と感謝の思いは、岸信介の生涯を貫いている。

農商務省へ
 叔父の死後、岸は山口中学に転校した。岸が政治家志望を明確に意識し始めるのは、中学卒業の頃である。その後、一高(旧制高校)、東大と進み、後に東大教授となる我妻栄と首席の座を争ったことは、語り種になっている。
 岸の大学時代は、第一次世界大戦後の世界の激動期であった。ロシア革命により、共産主義政権の樹立が世界を震撼させた。国内でもインフレが昂進し、貧富の差が深刻化。米騒動(米価高騰による全国的暴動)などの社会不安が、革命前夜を思わせた。
 いくぶん理想主義的気分の中で、岸は国家社会主義的考えを持つようになる。資本主義社会の矛盾を国家の手によって解決をはかろうとする考えである。しかし社会主義者であったわけではない。自由放任だけではいけない。自由を守るためにも、ある程度、国家の統制もやむなしとする。国家統制論ではあるが、軸足は自由主義に置いている。
 東大卒業後、二流官庁と言われていた農商務省に入省、周りを驚かせた。「政治の実体は、経済にある」と考えていた岸にとって、農商務省は政治家への近道と考えたのである。

満州国へ
 岸が入省した5年後に、農商務省は機構改革により、農林省と商工省に分けられ、岸は商工省に配属された。そこで上司の吉野信次に見出され、徐々に頭角を現し、吉野と共に省内最大の実力者として認められるようになっていく。しかし、商工大臣小川剛太郎との対立で、吉野と岸は辞任を迫られ、岸は満州国(中国東北三省)行きを決断する。
 満州国を実質支配していた関東軍(満州に駐屯した日本陸軍)も、岸の卓越した行政能力を評価し、満州に呼ぼうとしていた。岸にしても、以前から満州に並々ならぬ関心を持っていた。未開の大地に産業を根付かせることで、「五族協和」と唱われた建国理想に産業面で寄与したい。そんな夢を抱いていたのである。岸が渡満したのは建国4年後の1936年10月、40歳になろうとしていた。
 岸の在満は、わずか3年間に過ぎなかった。古巣の商工省に次官として呼ばれたのである。しかし、岸の生涯の中で、満州の3年間は大きな意味を持っていた。新しい国造りを共に担った仲間たちが満州ネットワークを形成し、後の政治家岸信介を支える人脈となったからである。
 さらに、星野直樹(満州国最高責任者)の言葉によれば、岸は「満州で立派な政治家に成長した」のである。最高首脳の一人として、産業政策を一手に引き受け、果敢に実行した。満州の産業は、「白紙に描くようにして造った私の作品である」と岸が豪語するのも、あながち誇張ではなかった。ビジョンを描き、強いリーダーシップのもと、同志と共に政策を推し進める岸の政治スタイルは満州で確立したと言える。

権力の頂点に
 戦後、60歳で首相という最高権力に登りつめた岸信介は、彼自身が「政治家は運が大半」と言うとおり、実に強運の人であった。開戦時の東条英機内閣の商工大臣であったため、戦後A級戦犯で逮捕されるも、結局は不起訴となった。
 1955年、岸は保守合同(自由党、民主党)を成功させ、自由民主党を成立させた。この成功により岸の政治的立場は急速に高まり、ポスト鳩山一郎の総理候補と目されるに至った。最大のライバルは緒方竹虎であったが、遊説中に風邪をこじらせ急死。総裁選を戦い、岸にわずかの差で勝利して総理となった石橋湛山は、在任2ヶ月で脳梗塞を患い退陣。外相(副総理格)で入閣していた岸に政権が転がり込んできた。
 女教祖(踊る宗教)の北村サヨは、岸が石橋湛山に敗れた時、岸に手紙をしたためた。「いまから3ヶ月以内に石橋内閣はつぶれて岸内閣になる」と書いていた。北村サヨの予言はまさに的中したわけだが、こんな話がまことしやかに伝えられているほど、岸政権の誕生は神懸かり的だったのである。
 首相として、岸の政策課題は実に一貫している。戦後の占領体制の清算と共産主義勢力の浸透の阻止である。占領政策から脱却し、真の独立を果たし、日米間に対等の協力関係を築かなければならない。それには、「駐留協定」に過ぎない日米安全保障条約の改定、それと占領軍によって押しつけられた現憲法の改正、これは不可避のことと考えていた。
 岸の憲法改正に対する思い入れの強さは、国会議員になったその年に、憲法調査会の会長に就任したことからも、うかがえる。鳩山一郎は、そんな岸を評して言った。「度胸のある男だよ。終戦後の雰囲気の中で、早々と改憲論を口にするとは……」。
 首相となって、岸はこの安保改定に全エネルギーを集中して取り組んだ。実に25回に及ぶ日米当事者による公式会談の末、ついに最終妥結を見たのである。1960年1月、訪米した岸は晴れて、ホワイトハウスの調印式に臨むことになる。

安保改定
 調印後、岸はアイゼンハワー大統領の「6月19日訪日」の約束を取り付けた。しかし、まだ国会での批准が残っている。野党をはじめとする反対勢力は、国会内外で日米安保断固反対を叫んで、苛烈な運動を展開した。5月19日、衆議院本会議は30日間の会期延長を強行採決。翌日未明、採決が行われ、自民党議員の起立多数で可決。
 後は参議院。憲法の規定では、衆議院の議決後、30日以内に参議院が議決しない時は、衆議院の議決が国会の議決となる。大統領訪日まで参議院での可決を得なくても、自然承認となり、来日した大統領との間に批准書を交換できる。岸はこう考えていた。
 しかし、この日の強行採決を境に、野党勢力による大衆闘争が巻き起こり、労働組合、大学生、高校生、農民など約54万人がデモに結集し、「安保断固反対!」を叫んで国会を取り囲んだ。大統領を迎える4日前、ついに最悪の事態が起こってしまう。国会構内に乱入した学生デモ隊約4千人と警察官が激突し、東京大学の学生樺美智子が圧死した。国会内外の政治的緊張は一気に頂点に達したのである。
 ここに至り、ついに岸は臨時閣議を開いて、一つの決断を表明した。大統領の訪日断念である。実はこの時、密かにもう一つの重大な決断をしていた。自らの退陣であった。しかし、新安保条約を成立させる信念は、微塵も揺らぐことはなかった。岸はその時、この条約さえ通れば「殺されようが、どうされようが」構わないという心境で、参議院での自然承認だけを待っていたのである。
 自然承認が決まる6月18日から19日午前零時にかけて、首相官邸を30万以上のデモ隊が取り囲んだ。警視総監は、岸に官邸の警備には自信が持てないと言っていた。首相官邸にいた側近たちは、デモ隊の襲撃を恐れたのか、一人去り、二人去って、ついに残ったのは実弟の佐藤栄作だけだったという。岸には官邸を離れる気持ちは全くなかった。「死ぬなら首相官邸で」と腹を決めていたからである。
 19日午前零時を回り、新安保条約は自然承認となった。岸が退陣表明をしたのは、それから4日後のことである。岸の首相在任期間は、3年半に過ぎなかった。しかし、戦後の日本の立ち位置を決定した一大事業であった安保改定を成し遂げることで、名宰相として日本政治史にその名を刻むことになった。1987年8月7日、90歳で息を引き取るまで、岸は日本の政界の影のリーダーとして、あるいは改憲政治勢力の精神的支柱として、精力的に活動した。岸にとって、戦後の日本の清算がまだ終わっていなかったからである。



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