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小泉八雲


小泉八雲 
(こいずみやくも) 

欧米に対する日本の代弁者 
日本で魂の安住を得る  妻セツとの共同作業 

両親から捨てられたハーンは、長い旅路の果てに日本に辿り着き、ついに安住の地を得た。西洋の近代文明が見失いかけていた何かが日本には残っており、それが孤独な彼の魂を癒したのである。彼は生涯、日本文化を西洋に向けて発信し続け、日本の偉大な代弁者となった。

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小泉八雲

母への思慕の念

  小説家でありまた日本研究家として、国内はもとより英米でその名はよく知られている小泉八雲、本名はラフカディオ・ハーン。1850年6月27日ギリシャのレフカダ島で生まれ、父チャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド出身のイギリス軍の軍医。キセラ島に派遣されているときに、ローザ・カシマチと出会い、ラフカディオを身ごもった。
 誕生前に父はアイルランドに帰国していたので、誕生後の2年間は母子水入らずの生活だった。母の愛を一身に受けて育ったのである。ローザが夫の実家のあるダブリンに移住したのは、ハーンが2歳の時。しかし、ローザは新しい環境に適応できず、精神状態が次第に悪化し始めた。ときどき発作を起こし、暴力をふるい、窓から飛び降りようとしたこともあったという。母ローザは望郷の念に耐え難く、4歳になるハーンを残し、一人キセラ島に帰ってしまう。これが二人の永遠の別れとなってしまった。
 故郷に帰ったローザを離縁し、さっさと他の女性と再婚した父にハーンは、終生恨みを感じていた。母は父から捨てられた犠牲者でかわいそうな人という意識が、幼いハーンの意識に刻み込まれた。それがますます母への思慕の念を強めることになっていく。


孤独な少年時代

  4歳で母と別れたハーンは、7歳にして、今度は父との離別を経験する。インドに派遣された父は、息子を残して、旅立ってしまったからである。ハーンの面倒を見たのは、父の叔母に当たるサラ・ブレナン。子供のいない裕福な未亡人だった。彼女が幼いハーンに関心を持ったのは、彼を思ってのことと言うより、ブレナン家の跡継ぎを求めていたからだ。身近には、本気で彼を愛してくれる人は一人もいなかった。ハーンは、実に孤独な少年時代を過ごしたのである。
  両親のいない孤独のせいだろうか、幼いハーンは暗闇を異常に恐れたという。その上さらに彼を苦しめたのは、幽霊の存在だった。幽霊を見ては怯える日々が続いた。後にハーンは、怪奇現象、心霊現象に強い関心を示し、数多くの作品となって世に送り出したのは、幼い頃のこうした恐怖体験が原点になっていたことは間違いない。
  13歳の時、寄宿制の聖カスバード校に入学したハーンは、試練の谷底に突き落とされてしまった。友人とロープ遊びをしているとき、その固い結び目がハーンの左目を直撃し、彼の左目は視力を失ってしまった。ハーンが生涯、人との円滑なコミュニケーションを苦手としたのは、この左目と決して無縁ではない。自分は醜い。そんな意識に終生つきまとわれたのである。
  不幸はさらに続いた。親代わりのブレナン夫人が倒産してしまう。学費が払えなくなり、退学を余儀なくされた。ブレナン夫人から見捨てられたハーンは、ロンドンに流れ着き、街を放浪。貧民収容所で保護を受けることもあったという。天涯孤独の惨めさ。ハーンの心はすっかり荒んでいた。その頃、ブレナン夫人から、ハーン宛に少しばかりのお金が届けられた。「アメリカに行くように」という指示が書かれていた。19歳のハーンは、わらをもすがる思いでニューヨーク行きの移民船に乗り込んだ。


アメリカで文才が開花

  アメリカに渡ったハーンは、シンシナティの下宿屋に下男として住み込んだ。孤独な彼の魂を慰めたのは、書くことだった。暇を見つけては本を読み、物語を書いたと言う。彼の人生に少しばかりの光がともり始めたのは、シンシナティ・インクワイアラー紙に投稿した記事が認められるようになってからである。定期的な寄稿が可能となり、ついに正社員として採用されるに至った。文才が認められたのである。
  若手ジャーナリストとして、ハーンが得意としていたのは、センセーショナルな社会派のネタ。特に殺人事件などの遺体状況などを克明に描くそのタッチは、読み手を震え上がらせたという。ハーンは、一躍有名人となった。その後、タイムズ・デモクラット紙の文芸部長として、ニューオリンズに職を得た。新進作家として文壇にも名を知られるようになっていた。37歳でデモクラット社を退社。筆一本で生計を立てる決断をした。


英語教師として松江に

  ハーンが日本の地を踏んだのは1890年4月4日、40歳になろうとしていた。知り合いの美術記者から借りた日本関連の書物を読んでから、彼はすっかり日本の虜になってしまう。この未知の国を訪れ、旅して回りながら、何か作品を残したい。そんな気持ちで来日した。まさか、この国に定住することになろうとは夢にも思っていなかった。到着翌日には、知人から紹介されていたチェンバレン東京帝国大学教授に手紙を書き、就職をお願いしている。1日の滞在で日本がすっかり気に入り、長期滞在を考えたのである。
  ハーンが得た職は、島根県の松江尋常中学校の英語教師。その年の8月には赴任した。彼は、それまでの外国人教師とは全く異質であった。多くの外国人教師は、祖国を鼻にかけ、日本を未開の劣等民族として見下す態度がありありだった。
  ハーンは違った。日本人を見下そうという意識は皆無。その上、日本の宗教や習俗に関心を持ち、敬意すら払っていた。たとえば天長節(天皇誕生日)に、彼は御真影(天皇・皇后のお写真)に敬礼した。その姿を見た生徒は驚いた。以前の教師は、神以外のものを尊ぶ者は、野蛮人だと決めつけていたからだ。ハーンは言った。「祖先の神々を敬い、国の宗教を尊ぶのは日本人の本分であり、それを否定する異国人の方が、よほど野蛮人なのだ」。彼は天皇制の下で生活している日本人の精神を全面的に肯定したのである。


セツとの出会い

  松江時代のハーンにとって、最大の収穫は生涯の伴侶となる小泉セツと出会ったことであろう。セツは、松江の士族の娘であったが、実家が没落したため、不遇な少女時代を過ごしていた。日本で迎える最初の冬、その寒さにすっかり体調を崩していたハーンの身の回りの世話をするため、セツは女中として住み込むようになったのである。当時、ハーンは40歳、セツは18歳年下の22歳であった。
  すっかりセツに惚れ込んでしまったハーンは、かなり早い時期に結婚を決意した。彼が生まれてはじめて家庭の幸せを満喫できたのは、セツのおかげであった。「日本人の善良性が彼女の中に濃縮されているように思う」。チェンバレン教授にこう書き送っている。
  セツは気性の激しいハーンの欠点を知り抜いて、実に賢く彼を支えた。アメリカの出版社の不誠実な態度に激昂し、相手を激しい口調でののしる手紙を書く。それを投函するように頼まれたセツは、そのまま手紙を出さないでおく。二、三日すると怒りが静まり、「あの手紙出しましたか」と聞くという。セツはわざと「はい」と答えると、本当に悔やんでいる様子がうかがえる。その時に、手紙をヒョイと目の前に出してやると、ハーンは心から喜んで、穏やかな口調の手紙を書き始めるのだという。
  ハーンの作品もセツの協力なしに完成できなかった。代表作『怪談』を書く時には、幽霊の世界にどっぷりと浸かりきっている夫に、セツは心を合わせ、一緒にその世界に入り込んだ。古来から伝わる伝承をセツは語り、ハーンはそれを聞く。セツの語りを聞きながら、一緒に泣き出すこともあったという。まさに二人の共同作業であったのだ。
  ハーンが松江にいた期間は、わずか1年半に過ぎなかったが、松江の思い出は、彼の心の中に深く根を下ろした。そこで築いた心の絆があったからだ。松江を離れる日、ハーンを慕う生徒200名が自宅に集った。これだけ多くの人から別れを惜しまれた経験は、これまで一度もなかったことであった。


東京生活のストレス

  1896年から7年間、ハーンは日本の東京帝国大学で英文学の講師として教壇に立つ。帝大総長の外山正一の強い推薦によるものであった。帝大は外国人並みの破格の待遇で彼を招聘した。すでに帰化した日本人であるにもかかわらず。
  しかし、東京生活のストレスは、徐々にハーンの肉体、特に心臓を蝕み始めた。官僚体質の東大にはなかなか馴染めなかったし、大家族(セツの縁者を含む)を養うため、原稿を書き続けなければならなかった。大都会での生活がそもそもストレスだったのだ。
  それでも、学生のハーンに対する人気は絶大だった。感情に訴える授業は定評があったし、学生には常に誠実に接しようとしたからである。後にハーンが東大から解雇された時、学生たちの間から、抗議の声が沸き起こり、留任運動が展開されたほどであった。
  しかし、ついに命の尽きるときが来た。早稲田大学で教鞭を執り始めて、半年にも満たない時であり、官僚的体質のない早稲田を気に入り、「松江時代に帰ったようだ」と話していた矢先のことであった。1904年9月26日、心臓の痛みを感じたハーンは、セツに促されて寝床についたまま、帰らぬ人になってしまった。54歳であった。
  時は日露戦争の真っ最中。高名な詩人野口米次郎は、ハーンの死を知って、「軍艦の一隻や二隻なくしてもいいから、ハーンを生かしておきたかった」と叫び、「日本は英語世界に対する強力な代弁者を失った」と言った。アメリカ人の中で親日家の大半は、ハーンの愛読者であることを知っていたのである。
  亡くなった前日の夜、ハーンは不思議な夢を見ていた。目覚めた直後、セツに語った。「遠い旅をしました。西洋でもない、日本でもない、珍しいところでした」。人生の長い旅の果てに、ハーンが辿り着いた日本。そこに彼が見たものは、損得抜きの優しさ、人情の濃さであった。それは彼の心の奥底に刻み込まれていた母の記憶と強く共鳴した。常日頃、彼は「生まれ変われるならば、日本の赤ん坊になりたい」とまで言っていた。身も心も日本人になりきりたかったのである。
  さらに、ハーンは日本文化の母なるものの根源に普遍的な何かを見ようとしていたに違いない。西洋でもない、東洋でもない、日本でもない普遍的なところにきっと辿り着きたかったのだろう。
  


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