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南方熊楠

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南方熊楠 
(みなかたくまぐす)

「歩く百科事典」と呼ばれた天才 
地球が学校  熊野の自然の中、研究40年

 超人的な記憶力の持ち主であり、18カ国語に通じていたという南方熊楠は一途で純粋無垢な研究者で、あらゆる束縛を嫌った。権威に頼らず、常に自分自身で自然を観察し、考えようとした天才である。その人生は不遇ではあったが、それ故にこそ、誰も追随できない不朽の業績を残した。

南方熊楠

超人的記憶力

 民俗学、考古学、天文学、粘菌学などを修めた南方熊楠は、「歩く百科事典」と呼ばれた天才であった。特に粘菌の研究では他の追随を許さず、日本で発見された粘菌の半数は彼の発見によると言われている。しかし、彼は日本のどこの大学にも、研究所にも属さず、熊野(和歌山県)の大自然の中で、人生の大半を過ごした。権威に頼らず、終生在野の研究者であろうとしたのである。
 南方熊楠が生まれたのは現在の和歌山市、幕末の1867年4月15日のことである。鍋釜商人であった父弥兵衛と母すみの間の次男として誕生した。小学校の頃、熊楠の異才ぶりは両親を驚かせた。友達の家にある百科事典に関心を持ち、それを読み、暗記してしまう。家に帰ってからそれを思い出して、紙に書き付けたという。
 5年かかって、百五巻あったこの事典全部を写し終えてしまった。後に18カ国語に通じたという超人的な記憶力の片鱗がうかがわれる。しかし、和歌山中学に進んだ熊楠の成績は決して芳しくはなかった。自分が興味を持ったもの以外には、全く関心を示さなかったのだ。漢文、英語、理科などはほぼ満点だったが、数学などは見向きもしなかった。

大英博物館に学ぶ

 17歳の時、熊楠は東京大学予備門(後の一高、東大教養部)に合格したものの中退。好きなもの以外は学ばないという姿勢は、予備門でも変わらなかったのである。熊楠が洋行を決意するのは、和歌山に戻って、粘菌の採集に熱中していた頃のこと。粘菌は一夜にして動物から植物に変身する神秘に満ちた生命体である。これにすっかり魅せられていた。「自分の学校は、予備門でも、東大でもない。地球だ。地球を駆け回り、そこに生息する生命の根源をたずねたい」。彼は洋行を決意するのである。
 1886年12月、19歳の熊楠はアメリカに向かって出発した。しかし、アメリカの大学は、どこも彼の学問への渇きを満たしてくれなかった。奔放で野生児のごとき熊楠には、画一的な学校生活は耐え難いものであった。誰からも束縛を受けず、自由に研究に打ち込みたい。彼は自分の心に忠実に生きる道を選択した。自学の道である。
 学問への灼けるような渇きを覚えた熊楠は、世界第一の学問の場で、自分の学問を築き上げたいと思い始めた。それは世界の文化の中心イギリスである。1892年9月、26歳の熊楠はイギリスに向かった。
 たまたま片岡というイギリス在住の資産家に知遇を得た熊楠は、大英博物館考古学部長のフランクス卿を紹介された。臭いが鼻を突く、薄汚れたフロックコートを着て現れた熊楠に、フランクス卿は一瞬顔をしかめたが、その知識と見識に驚嘆。熊楠を助手のような立場で雇い、東洋の仏像などの整理を手伝わせることにした。

ロンドン大学総長との親交

 ロンドン大学の総長フレデリック・ディキンスとの出会いは劇的であった。彼はイギリス第一級の日本通、日本びいきで知られていた。彼は熊楠の論文発表などの活躍を称賛し、総長室に彼を招いた。ところが、ここで二人は怒鳴り合いの喧嘩をしてしまう。
 ディキンスが書き上げた『英訳 竹取物語』を手にして読み出すやいなや、熊楠は「ここはちょっと違う、いかんなあ」などと言い始めた。元々、世間的なマナーなど微塵も持ち合わせていない熊楠である。正直に感じたままを語ったまでである。相手は日本学の権威、そして誇り高いイギリス紳士である。ディキンスは顔色を変え、唇をふるわせ、激怒して言った。「その暴言、無礼であろう。外国の長老に礼を尽くすことも知らぬのか」。
 熊楠も負けてはいない。「間違いを指摘されて、反省も訂正もせず、怒鳴り返すような石頭の老人を誰が長老と思うか」と怒鳴り返した。その場は収拾がつかなくなり、熊楠はそのまま帰ってしまった。
 しかし、さすがディキンスはイギリス紳士であった。冷静になって考えてみると熊楠の指摘は実に正しい。ディキンスは唸った。イギリスの権威を相手に臆することなく抗議した熊楠の勇気と剛直さに総長は感銘した。その後、彼は自らの非を詫び、熊楠と生涯変わらぬ親交を結ぶことになるのである。
 8年に及ぶイギリス滞在中、熊楠の研究発表の場は、主に科学雑誌「ネイチャー」であった。掲載論文は36篇に及び、他の雑誌の分を合わせると50篇を超えた。驚異的な数である。こうした活躍にもかかわらず、彼の生活は困窮を極めていた。実家の家運が傾き始めたのと、父の死により送金が途絶したからである。1日1食の切りつめた生活を余儀なくされ、その上、大英博物館内での諍いから博物館を追放され、その収入を失った。

熊野生活

 イギリス生活に見切りをつけて、帰国したのが1900年10月。33歳の時である。南方家の人々は、熊楠の突然の帰国を歓迎しなかった。父の死後、家督を継いでいた弟の常楠は、船から下りてくる兄の姿に仰天した。ボロ服をまとい、片手に破れトランク、背中に標本類を包んだ大風呂敷。どた靴でタラップを踏み鳴らしながら下りてきたのである。弟は思わず叫んだ。「なんという滅茶苦茶な」。
 南方家を追われるのに、そう時間はかからなかった。泉南の寺に預けられ、そこも追われた熊楠は、熊野の那智村(現在の那智勝浦町)に宿を借りた。以来40年間、熊楠はここ熊野を離れることはなかった。熊野は人間に踏み荒らされていない未知の世界が広がっている。数多くの新種の粘菌などを発見できたのは、熊野ならではであった。身内から追われた、その鬱屈した思いを植物採集とその研究に打ち込むことで、癒そうとした。
 熊楠が結婚したのは、帰国して4年後のこと。研究の合間に、鬱屈した思いを晴らすかのように酒を浴びる熊楠を心配した友人の紹介であった。相手は松枝という名の神社の娘。謹厳な神官の家に育ち、几帳面で綺麗好きの松枝にとって、熊楠との生活は驚きと戸惑いの連続だった。紀伊田辺(田辺市)の借家で花嫁が見たものは、散乱する標本の群れ、埃をかぶった本の山、空いてるすき間は、机の前の熊楠一人が座るところだけ。万年床の布団にはシラミが住み着いている。松枝は泣きたくなった。
 しかし、松枝は気丈な女性であった。奔放で豪放磊落、男の逞しさに溢れた熊楠ではあったが、その内実は、純情で照れ屋、気の弱い一面を持っていることを見抜いてしまう。松枝は、激情的な熊楠の欠点を見事に補い、内助の功で終生仕えていくのである。熊楠は、勝ち気で献身的な松枝に頭が上がらなかった。「細君に叱られたときなど、塩をかけられたヒルのようにグニャリと融けてしまう」と友人に照れくさそうに告白している。
 熊弥と文枝という二人の子に恵まれた熊楠は、実に子煩悩であった。特に熊弥は自慢の子で、「わしの跡取りじゃから」と言って、父親として持てる限りの愛情と知識を注ぎ込んだ。心優しい熊弥は、いつも父をいたわり、父の期待に応えようとしていた。
 悲劇が襲った。この最愛の息子が17歳の時に、発狂したのである。癇癪を起こして、庭に飛び出して走り回る。挙げ句の果てには、父の標本を投げ散らす始末であった。娘の文枝は、この時はじめて父の涙を見た。何よりも父の学問を尊敬していた熊弥であった。今、何の分別もつかなくなった息子が不憫でならなかったのである。熊弥を入院させた熊楠は、この時以来酒を一滴も口にしなくなった。そして、深い悲しみを忘却しようとするかのように、研究に没頭した。この頃の熊楠の行動には、鬼気迫るものがあったという。

天皇にご進講

 人生は悪いことばかりではない。熊楠の生涯で最も輝いた瞬間があるとすれば、それは、昭和天皇へのご進講(講義をする)であったろう。天皇陛下が、田辺湾に浮かぶ小さな島、神島をご訪問されるという。その際、陛下をご案内し、ご進講を申し上げるという大役が回ってきたのである。神島は原生林に覆われた無人島で、熊楠はその自然を護るための運動を続けていた。
 無位無冠の男のご進講は先例のないことだった。元来が感激家の熊楠は、この大役に興奮を隠さなかった。「長生きはすべきものだ。自分のような薄幸の者すら、長生きすれば天を仰ぐ日もある」と友人に書き送っている。その4年前に長男の熊弥が発狂し、苦悩と失意の日々を過ごしていた時期だけに、ご進講の一件は熊楠を喜ばせた。
 1929年6月1日、ご進講が始まり、熊楠は陛下に珍しい粘菌の標本を献上した。周囲はそれを見て仰天してしまった。キャラメルの大きな箱に入れられ、新聞紙に包まれていたからだ。後に陛下は、「普通は献上というと桐の箱など、立派な箱に入れるものだが、南方はキャラメルのボール箱に入れてきてね、……それで、いいじゃないか」と微笑みながら語ったという。飾り気のない熊楠の人柄は陛下の心に深く刻まれたのである。
 熊楠のご進講は予定の25分を、陛下の「もう少し続けなさい」のお言葉で5分超過して終えた。異例のことである。向学心に燃える29歳の若き陛下は、熊楠の語る神島の話に目を輝かせ、時に笑い声を上げながら聞いていたという。
 帰宅した熊楠は、松枝に正装させ写真館に行った。下賜品(陛下から頂いた贈り物)を松枝に持たせて二人並んで記念写真を撮った。長い不遇の果てにようやく訪れた栄光の瞬間を二人で迎えたかったのであろう。それは松枝に対する労いと愛情の表れでもあった。
 その夜、書斎に入った熊楠は、知っている限りの小唄などを歌い、一人ではしゃいでいたという。そして、二晩ほど高いびきで眠り続けた。よほど嬉しかったのだろう。
 1941年12月29日、熊楠は74年の生涯を終えた。臨終の時、天井いっぱいに紫の花が咲き乱れるのを見たという。心配した娘の文枝は「お医者様を呼びましょうか」と声をかけた。「医者が来るとこの花が消えるから、呼ばないでくれ」。この時、熊楠は天皇陛下にご進講申し上げた日を思い出していたのかもしれない。あの日、神島では楝の木に紫の花が咲き誇っていたのである。彼が生前、最も愛した花であった。そして、息子熊弥の行く末を案じて、「熊弥、熊弥!」と二度ほど叫んで息を引き取った。熊楠の遺骨は神島がよく見える高山寺の丘に葬られた。


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