<向学新聞2016年10月号>
三波 春夫
(みなみ はるお)
戦後復興の音頭を取る
戦争体験と平和への祈り 歌は人を癒し、自分も癒される
歌手三波春夫は国民歌手と呼ばれるほど、日本人に愛された。戦後日本の復興を表す東京オリンピックと大阪万博、この2つのシンボル曲を歌ったのは三波春夫であった。彼の澄んだ明るい歌声は、二大イベントを成功させたいという日本人の心意気にマッチした。さらにその歌声には世界平和への祈りがあった。
国民歌手
1964年、東京オリンピックを前にして、日本中に鳴り響いていた歌がある。「♪ハアー あの日ローマで眺めた月が……」で始まるこの歌、そう「東京五輪音頭」である。オリンピックの前年に、三波春夫の歌でリリースされ、爆発的なヒット曲となった。全国津々浦々で歌われたため、60歳以上の日本人ならば、誰でも歌えるはずである。
戦後の日本の復興ぶりを世界に示すこの晴れ舞台を前に、三波は「オリンピックという世界平和のお祭りの音頭を自分が取るんだ」と思っていたという。戦後日本の復興を象徴するもう一つのイベント、大阪万国博覧会が1970年に開催された。この時のテーマソング「世界の国からこんにちは」を歌ったのも三波春夫であった。これも一大ヒット曲となり、三波春夫は国民歌手と呼ばれるようになっていく。
東京オリンピックと大阪万博という日本の大イベントの音頭取りのような役割を担うことになった三波は、晩年「この二つの曲は、私にとって生涯の宝物です」と語っている。実は、この2つの曲には、三波の平和への強い思いが込められていた。彼は先の戦争で多くの戦友を失い、戦後は俘虜として4年間のシベリア抑留生活を経験していた。彼の歌は世界平和への祈りであり、亡くなった戦友・同胞への供養でもあったのである。
三波春夫が生まれたのは、1923年7月19日、新潟県三島郡越路町塚山(現在は長岡市に合併)の田舎町。北詰幸三郎とミヨの三番目の子が、後に三波春夫と名乗ることになる文司であった。父の仕事は、文房具、書籍、瀬戸物などを扱う「なんでも屋」。
7歳の時、文司に大きな試練が訪れた。弟が誕生して2ヶ月後、突然の母の死。死因は腸チフスだった。例えようのない寂しさが一家を襲う。この寂しさを振り払うように、父は子どもたちに民謡を教えてくれた。仏壇の前に子どもたちを座らせ、お経代わりに民謡の稽古をしたという。後に三波は「歌うことによって人生の慰めがあることを知った」と述懐している。三波の歌の人生はこの時に始まったと言って良い。
父から民謡を仕込まれた文司が何よりも夢中になったのは、浪曲(三味線に合わせて歌い語る演芸、浪花節とも言う)だった。浪曲がラジオから流れ出すとラジオにしがみつくように聞き入って、それを覚えた。覚えた節を真似て唸ってみる。楽しくて仕方ない。その内、田んぼの畦道に立って、歌うことを思い付いた。そうすると、みんなが農作業の手を休め、「いい声だのう。歌があると、仕事がはかどるのう」と喜んでくれる。笑顔になってくれる。その発見が、後に国民歌手となる三波春夫の原点となった。
13歳の頃、父は株に手を出して失敗し、家業は倒産。北詰一家は逃げるように故郷を出て、東京に向かった。親の借金返済のため、文司は住み込みの奉公を始めることになる。米屋、製麺所、そして築地の魚河岸と職を変えた。自分には商売は向いていないと思い始めていた頃、「浪曲学校」があることを知り、即座に入学の手続きをした。仕事を終えると、誰よりも早く学校に行き、1日3時間は稽古を続けたという。
文司の才能を見込んだ校長は、「君は百年に一人しか現れない美声の持ち主だ」と言って励まし、入学1年ほどで文司を座長とする一座を組んでしまった。これを機に、浪曲一本で生きることにする。芸名は「南條文若」。17歳の決断であった。
戦争とシベリア抑留
文司が陸軍に入隊したのは1944年の1月。派遣された先は富錦県(現在の黒竜江省富錦市)。満州国とソ連との国境の地であった。終戦間近の1945年8月9日、長崎に原爆投下されたその日、ソ連軍は日ソ中立条約を破棄して、満州国に侵攻を開始した。
ソ連軍の砲弾が降り注ぎ、トーチカ(防御陣地)を次々と吹き飛ばしていく。その砲撃の真っただ中、文司は死を覚悟した。「もう、故郷には帰ることはできないなあ」。その時である。突然、母の死の場面が脳裏に蘇ってきた。母は仰向けに寝て、白衣を着せてもらっていた。湯灌の儀式なのだろう。本当に死んでいるとはどうしても思えなかった。チーン、チーンと誰かが打つ鐘の音だけが聞こえていた。7歳の文司にとって、あまりにも悲しい出来事であったため、心に封印していた記憶であった。
また別の日、文司がソ連兵めがけて投じた手榴弾が炸裂。ソ連兵は悲鳴を上げて退却しながら、「ママ、ママ」と叫ぶ悲しい声を文司は耳にした。その後、激しい銃撃戦で下級兵が文司の目の前で撃たれ、倒れ込んでしまった。唇はみるみるうちに青ざめていく。「お母さん、お母さん」。彼もあのソ連兵と同様、母を呼び続けていた。次の瞬間、文司は確かに見た。息絶えた彼の口から魂が抜け出し、一直線に故郷の母を目指して帰っていく戦友の姿を。後に、三波は「母親というのは、それほど大きな存在だと悟った」と語っている。7歳で母を失った文司にとって、母への思いは格別だったに違いない。
9月11日、ついに武装解除。捕虜となって、連行された先はハバロフスク。待ち構えていたのは、ラーゲリと言われた俘虜収容所である。10月末、うっすらと雪が降り積もり、凍えるような寒さに震えた。倉庫のような薄暗い建物に入れられ、支給される朝食は、固い黒パンと塩とお湯だけのスープ。昼食は抜き。夕食も朝食と同じ。
もうじき日本に帰れる。誰もが、その希望だけを心の支えにして耐え忍んでいた。浪曲を聞きたいという声に促されて、ほぼ毎晩のように浪曲を歌い語ったという。日中の重労働の後、誰もが夜の浪曲に救いを求めていたのである。聴きながら、涙が止まらず、顔を上げることができない人が大勢いた。「聴いている時だけ、日本に帰っている気がする」と言ってくれる人もいた。22歳から26歳までの4年間のシベリア抑留生活を、後に三波は「人生の道場」だったと語っている。
歌謡曲へ
1949年9月20日、帰還船に乗船。舞鶴港に近づき、懐かしい日本の景色が見えてきた時、熱いものが込み上げ、涙が止まらなかった。ついに帰国第一歩。文司は足が痛くなるほど何度も何度も大地を踏みしめたという。
その2年後、文司は生涯の伴侶と出会う。名は野村ゆき。苦労人だった。3歳で母を亡くし、生きていくためにあらゆる芸を習得していた。何より三味線がうまかった。打って付けの女性が現れ、二人三脚の夫婦旅が始まるのである。
誰もが口をそろえて言うことは、妻なしに「三波春夫」はあり得なかったと。妻ゆきは芸に対しては、「超」が付くほど厳しい人だった。芸の道に終点はないという考えであったから、三波を褒めたことは一度もなかったという。「三波春夫」を支え、進歩向上させることが自分の役割と心得ていたがゆえの厳しさだった。舞台での目の使い方、顔の向き、手を上げるポジションなど、アドバイスは細かく、厳しく、なお的確だった。
時代に合わなくなった浪曲から、歌謡曲へと転向したのは、33歳の時。二人にとって一大決心であった。芸名も三波春夫に変えた。デビュー曲は「チャンチキおけさ」、これが大ヒットとなり、レコード売り上げが最終的に2百万枚を突破した。その後、次々とヒット曲に恵まれ、「東京五輪音頭」250万枚、「世界の国からこんにちは」140万枚につながり、国民歌手の名をほしいままにするのである。
三波の爆発的なヒットの要因は、妻の支えはもちろんのこと、三波自身の努力があったことは間違いない。歌手生活20周年記念のリサイタルの場で、彼は何を思ったか、「お客様は神様です」と言った。この言葉が評判を呼び、一時期「お客様は神様です」が流行したことがある。しかし、この言葉は単にお客に媚びへつらうような意味で言ったのではなかった。舞台に立つ時、雑念を振り払い、澄み切った心で、あたかも神様の前に立つような気持ちで歌うという意味であり、さらには、お客さんに喜んでもらえば、その力によって自分自身が癒され、生かされていく。このように人を癒すお客様は、まるで奇蹟を行う神様に思えるということなのだ。彼はお客様の中に神様を見ていたのである。
そんな彼であるから、日常生活は常に神様の前に出るための準備に費やされた。酒もタバコも御法度。歓楽街に足を向けることもない。娯楽はせいぜいゴルフとビリヤード。食事にも気を付け、喉に悪い辛いもの塩分の強いものは極力控えていたという。「体は楽器です」が口癖で、「楽器」の手入れは怠ることがなかった。「神様」(お客様)の前に出る時、常に万全の心と体で臨むという強い気持ちを持ち続けていたのである。
1995年、終戦50年に当たるこの年に、テレビの特別番組のロケで三波はシベリアのハバロフスクを訪問した。ラーゲリのあった跡地など思い出の場所を訪ね歩いていくと、普段は饒舌な三波も寡黙になり、物思いに耽り始めた。込み上げてくる何かを必死にこらえている風だった。日本人墓地を訪れ、花束を手向け、祈りを捧げた時だった。「墓標さえない方たちが、何万人もいらっしゃることか……」。目を真っ赤にはらした三波はつぶやくように言った。死んでいった戦友たちのことが思い出され、その供養のために歌い続けてきた数十年の日々が走馬燈のように蘇ったのだろう。
2001年4月14日、前立腺ガンが悪化して、三波は今際の息の中にいた。病室で目を覚ました三波に妻は言った。「二人で一生懸命にやってきたね。偉い、偉い!よく頑張ったよ」。一度も夫を褒めたことがない妻が、初めて夫を褒めた瞬間だった。「ありがとう。幸せだった」。三波は笑顔で応えたという。これが二人の最期の会話であった。満77歳の生涯を終えた三波春夫の顔には笑顔が浮かんでいたという。
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