宮本 常一
(みやもと つねいち)
日本中を歩いた民俗学者
忘れられた日本人を掘り起こす アカデミズムと一線を画す
宮本常一は、「歩く学者」とよばれ、日本各地をフィールドワークして、残した膨大な記録は、現在『宮本常一著作集』全50巻として残されている。しかし、彼の偉大さは、残した記録の膨大さにあるのではない。被差別民など底辺にいる人々に、深い愛情と共感を持って接したことである。
「歩く学者」
宮本常一は稀有な民俗学者であった。日本列島をくまなく渡り歩き、その調査の旅は延べ日数にして4千日に及び、1日当たり40キロは歩いたという。地球を4周するほどの行程を、ほとんど自分の足だけで歩き、泊めてもらった民家は千軒を越えた。「歩く学者」と呼ばれた宮本は、晩年の一時期(武蔵野美術大学教授)を除いて、肩書きらしい肩書きを持たずに過ごした。「山口県周防大島の百姓だ」の一本槍で押し通したという。アカデミズムとは一線を画し、知の殿堂入りを拒否した学者であった。
宮本常一は瀬戸内海に浮かぶ島、周防大島(山口県)に1907年8月1日に善十郎とマチを父母として生まれた。常一に最も影響を与えた人物は、祖父の市五郎であった。幼い常一は祖父から寝物語に、おびただしい数の昔話を聞き、それらは常一の心の奥深くに沈殿した。また宮本の家は旅する者は誰でも無料で泊める善根宿であり、祖父は自分が食うに困っても、旅芸人など漂泊の民を温かくもてなす人物だった。後に常一が、乞食の集落に関心を持ち、差別された人々に共感を寄せたのは、祖父の影響によるものであろう。
尋常小学校卒業後、家に残って百姓をやる気持ちでいた常一に転機が訪れた。関西にいた叔父の音五郎が、成績優秀だった常一を惜しんで、「常一を大阪に出して、勉強させたらどうか」と善十郎を強く説得したのである。15歳の常一が島を離れたのは1923年4月。大阪に出た常一は、とりあえず郵便局員を養成する逓信講習所に入学した。卒業後、大阪天満橋にある郵便局に勤務。近くには天満の市場があったため、そのおこぼれにあずかろうと乞食が多く住み着いていた。常一は仕事の合間を縫って、人々が目を背けながら素通りする乞食の集落を訪ね歩き、彼らの話を聞いた。彼らと接する中、おぼろげながら、自分の進むべき道を掴み始めたのである。宮本民俗学の萌芽であった。
被差別民への愛情
その後、常一は郵便局を辞職し、天王寺師範学校2部に入学し、教師の道を目指すことになる。大阪府泉南郡有真香村にあった尋常小学校の教師として赴任しても、民俗学への関心はますます強まり、暇さえあればその地の民話、伝説、風俗などを聞くため、歩き続けた。常一の人となりを表すその頃のエピソードがある。田尻町にある尋常小学校に赴任した時のこと。常一は被差別部落出身の生徒や片親で育った生徒には、肉親同然の愛情を注いだ。その一人に朝鮮から来た孫晋皓という少年がいた。常一は貧しい孫にとりわけ目をかけ、「朝鮮はいつか必ず日本から独立する。それまで頑張れ」と励まし続けていたいう。少年は常一を親のように慕った。
それからしばらくして、常一は肺結核を患い40度の熱で床に伏してしまった。孫少年は自分の家から布団を運び込み、常一の横に床を敷き、夜を通して看病したという。水枕を変える時、眠ったふりをしている常一の額に少年の冷たい小さな手が当たる。その度に常一の目に涙が溢れ出た。孫少年は神社に裸足参りの願をかけたが、常一は危篤に陥った。その知らせを受けた孫少年は一日中泣き続け、学校も休み、水垢離(水で身を清める)まで始めたという。そんな孫少年の様子を朦朧とした意識の中で聞いた常一は、孫のためにも元気になりたいと思った。
渋沢敬三との出会い
常一の容体がいくらか回復したので、郷里に帰って本格的な療養生活に入ることになった。療養生活は2年に及んだ。教職に復帰した常一は、後に療養生活の終わった日のことを「第2の誕生日であった」と回想している。死線を越え、そこから蘇ったのである。
常一にとって生涯の師となる渋沢敬三と出会ったのは、その少し後のことである。日本資本主義の父と言われた渋沢栄一の孫であり、渋沢一族の当主であり、経済人、政治家でもあった。そして、何よりも我が国屈指の民俗学者でもあった。その渋沢が、大阪で開かれた民俗談話会の会合に突然姿を現したのである。
渋沢は語った。「足半(草履の一種)はなぜ藁で作られたのか。足半を履いていた人はどんな人なのか。そもそも履物とは何か」。渋沢が諄々と語る言葉に衝撃を受け、渋沢の民俗学に対する激しい情熱に、常一はすっかり心を揺さぶられてしまった。渋沢としても、当時自分が主宰するアチック・ミューゼアム(渋沢が自邸に作った私的博物館)に入所させる人材を探していたのである。常一28歳、渋沢39歳、運命の出会いとなった。常一がアチックに入所するため、上京したのは1939年秋。この先、決まった給料はない。家族の生活がどうなるのか、皆目見当が付かなかった。ただ民俗調査を通して知り合った人々の苦しい生活を生涯見続けていたいという思いだけを支えに、飛び込んだのである。
妻子を郷里に残して、アチック入りした後、常一のすさまじい旅が始まった。日本列島の隅々まで渡り歩き、近代化以前の日本民衆の暮らしを書き残そうとした。渋沢は言った。「君には学者になってもらいたくない。本当の学問が育つためには、良い資料が必要だ。君はその発掘者になってもらいたい」。渋沢を通して生涯のテーマを得たのである。
民衆の暮らしをこれほど多く書き残した記録は、他に例がないと言われるほど、常一の無類性は際立っていた。「野の学者」と言われた所以である。しかし、常一の本当の偉大さは、記録の量の膨大さにあるのではなく、歩いた距離にあるのでもない。日本列島に生きた名もなき、忘れられた民衆を深い愛情を持って丸ごと捉えようとしたことであろう。
常一は、一度訪れたところは必ず再訪した。並はずれた律義さの持ち主であった。ある村の老人は、「先生、あんたは偉い方じゃ。わしが死ぬ時に来てくれるか。あんただけは死に際に居てもらいたい」と言って、涙を流したという。またある村の案内役からは「是非もう一度行ってあげて下さい。あの老人はあなたがまた来ることを信じて15年も待っているのです」と言われたこともあった。
常一は民俗調査の旅を「全くの乞食旅行だった」と語っている。宿泊先のほとんどは民家、もしくは野宿だった。温泉地を通りかかると「一風呂浴びたいな」と思うこともあったという。しかし、迎えてくれる人々の多くは苦しいやりくりの日々を過ごしている。自分だけがくつろぐわけにはいかない。彼は民衆と共に生きようとしたのである。
常一は聞き取りの名人だった。農民そのものの風貌、人を警戒させない優しい口ぶり、そしてとびきりの笑顔。相手は心の鎧を外して本音を話してしまう。聞き取る際、ノートは決して広げない。ノートを広げれば、相手は本当のことを話してくれないからだ。テープでの録音など論外である。相手の話をただ熱心に聞くだけ。そして記憶にとどめた話を一言ももらさず、宿舎で一心不乱に書き留めたという。その記憶力は超人的だった。
一つの調査を終え、アチックに戻ると必ず渋沢が駆けつけ、夜の更けるのも忘れて、常一の話に聞き入ったという。渋沢への報告は常一の励みとなっていた。
家族の犠牲
常一の体は決して頑健ではなく、むしろ病弱だった。肺結核、リンパ腺化膿、十二指腸潰瘍などに冒され何度も死線を彷徨った。旅先で吐血したとの報を受けると、渋沢は当時なかなか手に入らなかったペニシリンを何とか工面して旅先に急送し、常一を死の淵から救った。結核の再発に怯えながらも、自らを鞭打つように過酷な旅を続け、学問の世界に生きようとした。いつ死ぬかわからない。そんな思いが常一を突き動かしていたのである。
常一のこうした生活スタイルは家族の犠牲なしにはありえなかった。定収入のない窮乏生活の中、それでも家族への仕送りは欠かさなかったという。渋沢への手紙に「寂しいことは、今もって妻子を自らの力で養う能力のないことです」と書き送っている。
長女の恵子は、「ほとんど家に帰れないほど旅を続けたから、あれだけの仕事ができたとは思います。やはりすごい人だったんだなあと思うが、……父でなければ尊敬できる人でした」と語っている。一番こたえたのは、生まれたばかりの次男三千夫の死だった。旅先で三千夫重篤の電報を受け、急いで島に戻ったが、家ではすでに葬式の準備が始まっていた。氷のように冷たくなったわが子の遺骸に向き合い、常一は声をしのばせて泣いた。妻は野の花を摘んで、涙ぐみながら三千夫の顔の辺りに埋めた。祖母は小さな棺に収まっている三千夫に、「また早く、私の元気な内にこの家に生まれてきなさいよ」と語りかけ泣いた。そして、常一は「この子のために、この子が生きて果たすであろうと思われる人間としての義務と愛情と誠実とを背負うて、将来を生きていきたいと思う」と手記に書き、その子の分まで生きようと決意するのである。
常一の仕事への情熱は死の床にあっても失せることがなかった。ガンの宣告を受け、余命2ヶ月という診断だったが、2百字詰め原稿用紙2千枚を病室に持ち込んだ。「海から見た日本」というテーマの原稿を書こうとしていたのである。病床から起き上がって原稿を執筆している常一の姿を見て、見舞客も感動するばかりであった。「俺は決死の思いで仕事している」と妻に語っている。まさに鬼気迫るものがあったのである。1981年1月30日、宮本常一は73年の生涯を終えた。無名の人々に語りかけ、励まし、勇気を与え続け、彼らの中に、美しい日本人、誇るべき日本人の姿を発見しようとした生涯だった。名誉も地位も一切望まず、ただその一事のため、黙々と日本の隅々まで歩き回った。そして宮本常一は誇るべき、美しい日本人となった。
(写真提供/株式会社未來社)
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