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宮沢 賢治 
(みやざわ けんじ)

世界ぜんたいの幸福  
零細農民への罪悪感 妹トシの死を乗り越えて

 つながりが希薄になった現代。宮沢賢治に思いを向けることは、格別な意味があるように思われる。賢治ほど森羅万象全てに、「つながり」を感じながら生きた人物はいないように思えるからである。宇宙森羅万象全ては、根源でつながっている。その体感の中から、偉大な文学が誕生した。

宮沢賢治


人のために生きる

 宮沢賢治は、老若男女、幅広く親しまれ、愛されている詩人、童話作家である。特に「手帳」に書き留められていた「雨ニモマケズ」は、あまりにも有名である。しかし、生前は全くの無名であった。詩集も童話集も全く売れず、生涯で稼いだ原稿料はわずか5円(現在の2万円弱)に過ぎなかった。大衆受けする作家ではなかったのである。彼は作家である前に、一人の求道者であった。『法華経(仏典の一つ)』から学んだ「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という精神を作品の中で描き出そうとした。そのため、どことなく教訓的で、説教調であり、大衆の理解を超えていたのである。
 賢治が生まれたのは、1896年8月27日、岩手県稗貫郡川口村(現在の花巻市)。質屋を営む政次郎とイチの長男であった。宮沢家は、地元でも有数の資産家であったが、そのことが賢治を苦しめた。彼の神経は鋭敏すぎたのである。零細な人々に金を貸し、その利息で生活することに、彼は強い罪悪感を抱き続けた。零細農民に対するこんな加害者意識が、後に農民救済へと駆り立てていくのである。
 賢治が、「自分を犠牲にしてでも、誰かを救わなければならない」という思いを強迫観念のように抱き続けたのは、母イチの影響も見過ごすことはできない。イチは幼い賢治に添い寝をしながら、毎晩のように「人というものは、人のために何かしてあげるために生まれてきたのよ」と言い聞かせたという。この母が後に、「どうして賢さんは、あんなに人のことばかりして、自分のことは何もしない人になったか」と嘆いたと言うが、この慈悲深い母を嘆かせるほど、賢治の人のために生きる生き方は徹底していたのである。


法華文学の創作

 盛岡農林高等学校時代、賢治は『法華経』を読んで感動して身が震えたという。以来、すっかり法華経に傾倒してしまった。重要な日には、「南無妙法蓮華経」と題目を朗々と唱えたという。試験が始まる直前、教室の前で題目を唱える賢治の姿を友人や教師がしばしば目撃している。賢治の作品には、他者のために自分の体を犠牲にする行為を主題としたものが多く見られる。それが『法華経』の説く本質だと理解したからであり、「生きとし生ける全ての人を幸せにする」ことが、自分の使命だと頑なに信じていたからである。
 親が困惑したことの一つが、困った人にはどんどんお金を与えてしまうことだった。そのため、自分のお金がなくなってしまい、盛岡から花巻までの約40キロの道のりを歩いて帰ったこともあったという。それは彼にとっては当たり前のことだった。そうしないことが苦しかったのである。彼の体は敏感すぎた。傷ついている人を見れば、自分も傷ついたし、まわりに配慮して、自分自身をごまかそうとすると、すぐ病気になった。
 教師時代、気分が悪くなって嘔吐した生徒がいた。吐いたものを見ると、大根しか入っていない。まわりの生徒は、その貧しさを見てどっと笑った。その日、早々に家に帰った賢治は、家人が心配するほど、顔が青ざめていた。彼は生徒の家の貧しさに衝撃を受け、生徒のことを思うだけで、胸が張り裂けるような痛みを感じていたのである。
 彼の作品の多くは、自然や動物、少年などをモチーフにしている。しかし、決して子供向けの童話ではない。「人生の意味は何か?人とどう協調し合えるのか?自然と共存する生き方は何か?」という人間の生き方の根源的なテーマが込められている。まさに、「宗教的啓蒙書」なのである。賢治の一連の作品群は、法華経の教えが、賢治の並はずれた鋭敏な感性を媒体として、表現されたものと言えるであろう。


花巻農学校教師時代

 賢治は25歳の時、花巻農学校(現在の県立花巻農業高等学校)の教師となる。生徒数が100名ほどのこじんまりした学校であったが、4年続いた教師生活は彼の短い生涯の中で最も光り輝く時期であった。「わたくしは毎日を鳥のように教室で歌って暮らした。誓って言うが、わたくしはこの仕事で疲れを覚えたことはない」と語るほど充実していた。
 教え子の一人は次のように語っている。「先生の授業ぶりはほとんど教科書に重点を置かず、全く天馬空を駆けるとでもいいたいほどの自在さを持っていた」。嬉しいときには、アカシアの花の下やクローバーの花咲く野で踊る。ある時は、突然両手を高く上げて麦畑に飛び込んでいき、手を上下左右に振り回しながら駆け回り、戻ってくると、「銀の波を泳いできました」と言ったという。他人から見れば、奇妙なこれらの行為も、賢治にすれば、ごく自然な行為であった。体の内面からわき出てくる何かに正直に従ったまでのことなのである。
 賢治の作品に出てくる動物たちは、人間の言葉で語り合う。それは決して彼らを擬人化しているのではないと語るのは、雑誌「賢治の学校」の代表編集の鳥山敏子氏である。「擬人化ではなく、動物たちが話している言葉を賢治が人間の言葉に置き換えているに過ぎない」と述べている。賢治は、宇宙森羅万象、全ては根源でつながっており、自分と同じ一つのものだと体で感じていたのである。こんな賢治の授業を生徒たちはみな楽しみにしていた。普段遅刻する生徒も、賢治の授業となると、「覚えないと損する」と言って、学校に駆け込んできたという。


妹トシの死

 周囲には変人と見られた賢治ではあったが、最も信頼のおける理解者がいた。妹のトシである。しかし、この最愛の妹が結核に冒されてしまった。療養のため、別邸の一軒家に移り住んだトシのため、賢治は泊まり込んで献身的な介護を続けた。学校が終わった後、トシの枕元で、一日の出来事などをおもしろおかしく話してあげ、食事やら服薬までかいがいしく世話をした。病に伏したトシの傍らには、常に賢治がいたという。
 しかし彼の介護も空しく、トシは24歳の若さで息を引き取った。賢治の悲しみは、あまりにも深く、押入の中に頭を突っ込んで慟哭した。「自分も一緒に死んだほうがいいのではないか」と思い詰め、しばらく作品を書けなくなってしまった。
 彼の煩悶の中から、生み出された作品が「永訣の朝」と題した詩である。この詩の中には、トシの言葉「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪取ってきてくれますか)」が繰り返され、哀愁を誘う。彼はトシに語りかける。「ああとし子 死ぬといういまごろになって わたくしを一生明るくするために こんなさっぱりした雪の一椀を おまえはわたくしにたのんだのだ ありがとうわたくしのけなげな妹よ」。死に赴くトシのために何かしてやりたい、しかし何もできずにおろおろしている兄に対し、「雨雪取ってきてくれますか」と妹は頼む。妹のこんなささやかな願いを叶えてやれたという追憶があれば、兄は一生を明るく過ごせるに違いない。臨終に際してすら、兄のことを思いやる妹のこんな心遣いが、賢治には痛いほど伝わってくる。賢治は泣いた。
 トシはどこへ行ってしまったのか。「わたくしの悲しみにいじけた感情は どうしてもどこかに隠されたとし子を思う」(「噴火湾」)と唱い、賢治はトシを探し続けた。賢治の代表作品『銀河鉄道の夜』は、トシの死をきっかけにして書かれたと言われている。死の直前までの約10年間、推敲に推敲を重ねられていた。
 主人公ジョバンニが夢の中で、友人カンパネルラと一緒に銀河鉄道の旅をするという物語である。夢から覚めたジョバンニは、カンパネルラが川で溺れたことを知る。クラスメイトを助けるため、川に飛び込み、彼を助けた後、溺れてしまったのである。カンパネルラとの銀河鉄道の旅は、死後の世界に向かう旅であったのだ。賢治はジョバンニとカンパネルラを、自分とトシの分身として描き出そうとした。賢治にとって、銀河鉄道の旅はトシを探す旅であり、見失いかけていた自己を探す旅でもあった。
 自分を犠牲にしてまで友人を助けたカンパネルラに、今際の息の中でなお兄への心遣いを示したトシの姿を投影させようとしたに違いない。自分のこと以上に、たえず他人のことを思いやる気持ちがあれば、たとえ命が消滅したとしても、魂は滅びず、天上でより良い場所に行ける。『法華経』から学んだ人生観、死生観をこの物語の中に描き出すことで、賢治はトシの死を受け入れ、悲しみを乗り越えていったように思われる。


燃え尽きた生涯

宮沢賢治は、常に心と体で感じたことに忠実に生きようとした。彼の人生の中で、最も充実していた教師生活を捨て、農業に飛び込んで行ったのも、心と体に忠実であろうとしたからである。生徒に百姓の仕事の尊さを説いておきながら、自分が教師という、安定した給料取りでいることに、彼は耐え難い苦痛を感じていたのである。自ら土地を耕して、貧しい農民と共に生きるほうが、はるかに平安でいることができた。ボランティア団体「羅須地人協会」を立ち上げたのは、そんな気持ちからだった。
 1933年9月21日、賢治は37歳という短い生涯を終えた。数日前、急性肺炎を患い、そんな容態でありながら、農民の肥料相談にのった挙げ句の死であった。通夜の席で、父は悲しみにうち沈みながら、座敷の電灯を見上げながら語ったという。「この電球に、いっぺんに強い電流を流すと、パッと白色光に輝くが、それっきり芯が燃え尽き、暗くなってしまう。賢治もこれと同じで、短い時間に激しく働いて燃え尽きたのだ」。



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