永井 隆
(ながい たかし)
原爆後、負傷者の治療に奔走
捧げ尽くした生涯 愛し子への遺言
原爆投下後の長崎は、2万人を越える死者を出し、負傷者は10万人に及んだ。爆心地である浦上界隈はもとより長崎市内は焦土と化した。医師であり、放射線医学の専門家でもあった永井隆は、原爆で妻を失い、自ら病を抱えながら被害者の救出、治療に奔走し、研究活動にも余念がなかった。
医師の道
1945年8月9日は、長崎に原子爆弾が投下された日である。爆心地から約700メートルの距離に長崎医科大学(現在長崎大学医学部)があり、物理的療法科の部長であった永井隆は、猛烈な爆風を受け被爆した。以来、病苦との想像を絶する戦いの中、医師と
して患者(被爆者)を助け、さらに死に至るまで長崎の復興に尽力した。「働ける限り働く」という信念に忠実に生きた人物であった。
永井隆の生まれ故郷は、島根県の松江市である。1908年2月3日に開業医であった寛とツネの長男として誕生した。祖父も松江藩の漢方医であったから、隆が医学の道を志すようになったのは、運命づけられていたのかもしれない。
士族(旧武士階級)の出であった母は、武家気質のしっかり者で、ドイツ語、医学、薬学を独習して、夫の仕事を支えるほどの女性だった。幼かった隆は、父と母が一つのランプの下で、一つの机に向かい合って、一冊の医学書を前に静かに勉強している姿を記憶している。いかにも楽しそうに勉強しているので、子ども心に「勉強は楽しいものなのだと思った」と述懐している。
1928年4月、永井隆は長崎医大に入学。その頃、永井は唯物論の虜であり、人間は所詮物質に過ぎないと思い込んでいた。そんな彼に転機が訪れたのは、母ツネの死であった。「母、脳溢血で倒れ、危篤」の報を受け、急いで駆けつけたときには、まだ母の息は
あった。息子の顔をじっとみつめたまま、母は事切れてしまったという。
その時である。彼は母の声を確かに聞いた。「お母さんは死んでも、霊魂は隆ちゃんのそばにいつまでも一緒にいるのよ」。彼は直感した。母は生きている。肉体を離れ去っただけで、今や霊となって生きている。霊魂の存在など、非科学的だと言って否定していた
彼ではあった。しかし、その時、何の疑いもなく、霊魂の存在を受け入れたという。彼は唯物論を捨てた。そして霊魂の宿る人間を看る医者になろうとするのである。
隠れキリシタンの里
その後、永井の生き方に決定的な影響を与えたのが、キリスト教であった。彼が下宿した森山家は、実は長崎の隠れキリシタンの子孫であり、浦上天主堂の真向かいに家があった。その牛小屋は迫害時の秘密の礼拝堂だったという。キリシタン禁令が出されて以来2
百数十年、一人の神父もいないのに彼らは、秘密組織を作り信仰を守り抜いてきた。
早朝、ミサに向かう信者の下駄の音で目が覚め、天主堂の鐘が鳴れば、森山家の人々の静かな祈りの声が響き渡る。また大家が語る殉教者の話に心をふるわせた。そんな日々を過ごしながら、永井隆の心には徐々に宗教心が芽生え始めた。後に、彼は浦上天主堂で洗
礼を受け、森山家の娘みどりと結婚するのである。
医大卒業後、永井は放射線医学を専攻した。長崎医科大学に助手として採用された彼は、物理的療法科(レントゲン科)に勤務。放射能が充満している部屋での仕事が続いた。さらに結核の予防のため、早期検診がやかましく言われていた時期であり、レントゲンの
集団検診が励行された。これらの対応に追われた結果、永井は放射能の過量照射を招いてしまった。まだ放射能の防護設備が不十分な時代、彼の体は白血病に冒されてしまう。余命3年の宣告、37歳の若さであった。終戦直前の1945年6月のことである。
物理的療法科での研究、無医村での無料診察、貧者家庭の訪問治療など、連日連夜の激務が続いた。その上、喘息の持病を抱えていた。それを隠しながらの活動であった。ある寒い夜のこと。喘息の発作が起きかけ、横になっていたとき、突然、往診の依頼があった
。喘息の患者の家からである。彼はすぐに立ち上がった。妻は驚いて制止しようとしたが、「あの苦しみはわたしにはよくわかる」と言って、往診に出かけてしまった。案の定、彼は往診の帰りに発作が起こり、道ばたに倒れ込んだ。心配して迎えに行った妻が、倒れ
ている彼を背中に背負って帰ってきたという。
こんな生活を続けたのであるから、彼の肉体は悲鳴を上げていた。そこに放射能の散乱照射である。病に倒れるのも無理からぬことであった。彼は常日頃、「医者の仕事は病人と共に苦しみ、共に楽しむことだ」と語っていた。永井は、患者の痛みを自分の痛みと感ずる感性を生涯持ち続けた稀有な医者であった。
原爆投下
白血病の宣告を受けてから2ヶ月後の8月9日、永井が部長室でレントゲン・フィルムを選り分けていた時である。午前11時2分、突然、目の前がピカッと光った瞬間、永井の体は爆風で吹き飛ばされた。窓ガラスの破片が一気に襲いかかる。右の目の上と耳のあたりから、生温かい血が首に流れ落ちてくるのを感じた。
原爆が投下されたのである。特に浦上一帯は火の海と化していた。黒こげになったおびただしい数の死体、裸同然で山に逃げのびようとする人々、死んだ父親を引きずって歩く二人の子ども、首のない赤ん坊を抱きしめている若い母親。約2万人が命を落とし、負傷者は10万人を越えた。大学病院も看護婦の8割が死亡。目を覆うばかりの惨状だった。
幸い永井は鉄筋コンクリートの頑丈な建物の中にいたので負傷ですんだ。しかし側頭動脈からの出血が激しい。シャツを切り裂いて、それを片手で自分の傷口に当てながら、患者の治療と救出に奔走した。救出が一段落した直後のこと、ついに卒倒してしまう。
周りの必死の看護により、何とか一命を取り留めた永井は負傷者の治療に専念した。自宅を訪れることができたのは、2日後の11日。消失した家の焼け跡で目にしたものは、台所跡に茶碗のかけらと一緒に転がっていた黒ずんだ塊。妻みどりの遺体だった。「たっ
たこれだけの骨になって」と語りかけながら、近寄って手をかけてみる。まだ生温かい骨が、軽くポロリと崩れた。黒こげの骨にからみつく妻のロザリオ。永井の胸は締め付けられた。憔悴しきった彼は妻みどりの遺骨をバケツに入れ、防空壕に戻り、そのまま倒れ込
んでしまった。翌朝、目覚めた彼は、灰となった妻を前に祈りを捧げた。涙が頬を伝い落ちてくる。
妻の死を嘆いてばかりはいられない。彼には、疎開させていた誠一(12歳)とカヤノ(6歳)の二人の子どもが残されていた。3週間ほどして焼け跡に古トタンを石垣にもたせかけただけの仮小屋を建て、そこで親子3人の生活が始まった。広さは2畳ほどの部屋
、石を二つおいただけの急ごしらえのかまど、柄の欠けた鉄鍋、どん底の生活だった。
永井は母を失った二人の子を慰める暇もなく、救護活動に駆けずり回らなければならなかった。医師が決定的に不足していたのである。医療隊を作り、朝から夜まで患者の家を戸別的に巡回診療して回った。自ら白血病を患い、その上に被爆し、重傷の身である。彼
の体は日に日に衰えていった。坂道の多い長崎で、1日8キロ以上も歩くのである。坂道では、同行の看護婦から体を押し上げられなければ、登れないほどであった。救護活動の傍ら、被爆地の実情調査も怠らなかった。放射線医学の専門家であり、しかもじかに原爆
を体験した者の義務だと感じていたのである。
働ける限り働く
翌年の7月、永井はついに長崎駅で倒れ込んだ。以来、病床に伏す身となってしまう。しかし、まだ人生を諦めたわけではない。腕と指はまだ動く。書くことができる。否、書くことしかできない。彼は残された人生の時間を書くことに費やし、そこから生活の糧を
得ようとした。また書くことは、長崎の再建と平和に寄与することでもある。彼はそう信じて、働ける限り働こうとしたのである。
こうして書き上げた『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子残して』などの著作はかなり評判となり、印税収入も徐々に増えていった。しかし、大半は公共事業体や浦上天主堂に寄附してしまうため、永井家の貧乏暮らしは変わらなかった。寄附を受けた天主堂の司祭は、永井家の苦境を知っているだけに、「相済まないような気がした」と語っている。それで信者の大工さんらと相談し、永井のために小さな病室を建てることにしたという。
終の棲家となった、3畳ほどの小さなこの部屋を彼は「如己堂」と名付けた。「己の如く人を愛せよ」というキリストの教えであり、二人の子どもに対する遺言でもあった。この家の名にふさわしい愛の一生を送ってほしいという願いが込められている。
ある日、幼いカヤノが遊びから帰ってきて、父の眠りを見定めて、こっそり近づいた。医者から、「お父さんのそばへ寄ってはいけません」と言われていたのである。脾臓がぱんぱんに腫れ上がっている永井に飛びついたら、たちどころにパンクするからだ。カヤノは冷たい頬を父の頬にそっとくっつけた。「ああ、お父さんの臭い」。母の臭いを忘れたため、せめて父の臭いを恋しがる幼い娘のいじらしさに、永井は忍び泣いた。やがて父をも失うことになるわが子の寂しい人生行路を思うと、永井の心はかきむしられるのである。
1951年5月1日、永井隆の壮絶な人生はついに幕を下ろした。享年43歳。遺体は解剖に付された。学生の研究資料に役立ててほしいと遺言していたからである。人生そのものを捧げ尽くした永井は、死してなお、己の肉体を役立てようとした。浦上天主堂の堂外広場で執り行われた葬儀には2万人の市民が押し寄せ、故人との別れを惜しんだ。天主堂から墓地まで、長い葬列が延々と続いていたという。
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