大島鎌吉
(おおしまけんきち)
東京オリンピックをつくった男
オリンピック精神を啓蒙 青少年の育成に尽力
1964年に東京で開催されたオリンピックは、敗戦国日本が焼け野原から完全に復興したことを世界にアピールした。その大会を大成功に導いた男が大島鎌吉である。しかし、彼が見ていたものは、単にオリンピックではなかった。未来を担う青少年の行く末であり、国民の健康体力つくりであった。
陸上競技に目覚める
1964年、東京で第18回オリンピックが開催された。有色人種国家における史上初のオリンピックを成功に導いた男こそ、選手強化対策本部長の大島鎌吉であった。人は彼を「東京オリンピックをつくった男」と呼ぶ。
1908年11月10日、大島鎌吉は金沢市に履物屋を営む吉太郎と乃布の長男として生まれた。小学校時代の大島は、決して際立った運動神経の持ち主ではなく、運動会の徒競走でもせいぜい三等あたり。そんな彼が陸上競技に目覚めたのは、金沢商業学校(現・石川県立金沢商業高校)に入学してからである。陸上部に入部し、そこで顧問の斎藤守二と出会った。理論家として知られていた斎藤の指導により、大島は三段跳びで飛躍した。県の中等学校陸上競技大会で見事優勝。それも前年の全日本選手権での優勝者に迫る記録だったのだ。15歳の快挙であった。
この活躍により、大島は三段跳びに専念するようになる。大島の素質を見抜いた顧問の斎藤は、彼に厳しいトレーニングを課した。登下校時、重い砂袋をタスキ掛けに背負う。走り込みと助走の徹底的練習。自宅の階段を利用し、一気に三段、四段と跳び上がる跳躍力の鍛錬。大島の非凡な才能は一気に開花した。18歳で参加した初の国際大会(上海の極東選手権大会)では、織田幹雄にはわずかに及ばなかったものの、南部忠平を抑えて銀メダルに輝いた。大島がスポーツの世界で生きる決意をしたのは、この時であった。
オリンピック精神
大島がオリンピックを強く意識しだしたのは、関西大学に入学した年(1928年)のことだった。2ヶ月後に控えていた第9回オリンピック(アムステルダム大会)の予選会での成績が今ひとつふるわず、オリンピック出場は叶わなかった。この悔しさと無念さが、オリンピックへの思いを一層募らせた。
その4年後、念願叶って第10回オリンピック(ロサンゼルス大会)に参加。その頃、織田と南部と大島は「日本跳躍界の三羽ガラス」と称され、ロサンゼルス大会では金銀銅の三本の日章旗も夢ではなかった。「3本の日章旗を揚げよう!」。こう意気込んでロサンゼルスに乗り込んだものの、過度の練習に明け暮れたためか、織田は脚を痛め、南部は腰痛に苦しんでいた。その上、大島まで左足首を故障してしまう有様だった。
悪いことは続く。本番4日前の朝、大島は痛めた脚を温めるため、風呂に入ろうとした時、あろうことかガス風呂が爆発。両脚、両腕、腹部に大火傷を負ってしまった。両脚、両腕に包帯が巻かれ、とうてい競技ができる状態ではなかった。それでも大島は棄権しなかった。大島の姿に奮起したのか、南部は腰痛を抱えていたにもかかわらず、織田の世界記録を上回る15メートル72の跳躍をみせ、見事金メダルを獲得。大島も15メートル12で銅メダルに輝いた。日本中が、歓喜の渦に包まれたことは言うまでもない。地元紙では、「誇れ!我らの大島!死を覚悟して跳んだ」と報じられた。
しかし、大島にとってメダル獲得は二の次だった。平和の祭典と言われるオリンピック精神とはそもそも何なのか。その意義を知りたかった。そんな彼に、電光掲示板に映し出される言葉が目に飛び込んできた。「オリンピックにおいて、重要なことは勝つことではなく、参加することです。人生において重要なことは、大成功することではなく、努力することです」。近代オリンピックの創始者クーベルタンの言葉である。ライバル同士の激しい闘争の先に、勝敗を越えた何かが生まれる。友情であり、相互理解である。それがきっと平和の種になるに違いない。実は、クーベルタンのこの言葉を日本にはじめて紹介した人物が大島なのである。
4年後のベルリン大会では、大島は選手団主将に選ばれ、旗手として出場した。その時、いかにも大島らしいエピソードがある。当時、韓国は日本の植民地であったため、マラソンで金メダルを獲得した孫基禎(ソンギジョン)ら韓国人選手は日本の代表として参加していた。その開会式の時、馬術競技に出る軍人らが主将の大島に詰め寄って言った。「帝国陸軍の軍人が、朝鮮人と一緒に入場行進するのか」。大島は泰然として言った。「ふざけたことは言うな。ここは平和の祭典だ。朝鮮人も日本人も同じ人間だ。不満なら、行進しなくてもよい。立ち去れ!」。周りの選手たちは、一瞬凍てついたという。
オリンピック招致
大島がJOC(日本オリンピック委員会)委員に選出されたのは1959年のこと。大阪毎日新聞社の運動部記者として、活躍していた頃である。東京オリンピック招致運動の切り札として、総務主事の田畑政治が強く彼を推薦した。その頃、彼はひたすら経済発展のみを求める戦後の日本の現状に危機感を感じていた。真の健康とは心身の豊かさにあると信じ、文部省や厚生省に出向くたびに、スポーツ振興の重要性を訴えていた。官僚の煮え切らない態度に、大島はしばしば声を荒げた。「このままでは日本は病棟列島になってしまうんだ!」。怖いもの知らずの大島には遠慮がなかった。そんな彼にJOC委員選出は願ってもないことだったのである。
田畑政治が、大島に期待したのは、ドイツ語、英語、ロシア語に堪能な彼の語学力であった。それを生かして、ソ連をはじめとする東欧諸国を回り、招致活動を願っていたのである。また、大島にはそれらの国々に、選手時代に築いた豊富な人脈があった。東欧諸国での招致活動には、打って付けの人物だったのである。大島の東欧訪問は27日間に及んだ。彼は、「オリンピックの理想を追求するなら、第4の大州アジアでの開催に考慮していただきたい」と訴え続けた。大島は確かな手応えを感じて、ミュンヘンでのIOC総会に臨んだ。投票日、東京は第一回の投票で過半数を獲得、文句なしに開催地に決定した。
1960年1月、大島はオリンピック選手強化対策副本部長に就任。これも本部長田畑政治の強い要請だった。後に、田畑は政争に巻き込まれて本部長を辞任。大島がその後を引き継いだ。この大島昇格には反対意見も多かった。西の関西大学出身だったこと、言いたいことをずけずけと口にすることなど、大島の実力を認めつつも、日本体育協会の幹部連中にとっては疎ましい存在だったのである。しかし、田畑の後任になり手がいない。みな腰が引けていた。オリンピックが万一失敗したら、本部長はその責任を取らなければならない。スポーツ界の重鎮も、大物政治家も二の足を踏んでしまうのだ。大島以外に人はいなかった。失敗したら、その責任を大島に押しつければいいという結論だったという。
大島はまず、「選手強化5カ年計画」を策定した。そして、スポーツに科学を導入したトレーニングを推進し、学者たちを組織して、「スポーツ科学研究委員会」を発足させた。さらに海外から一流コーチを招聘した。そして、選手たちには、「ホスト国の選手として、お客である外国選手をもてなすべきだ」と語り、それは「正々堂々と戦うことはもちろん、最後まで座を持ってもてなすこと、つまり決勝まで残ることだ。予選で落ちることは非礼である」と言って激励した。選手たちが奮い立ったのは言うまでもない。
オリンピック開催を10ヶ月後に控えて、本部長の大島は報道陣を前に、「金メダル目標数は最低15個です」と宣言した。誰もが耳を疑った。前回のローマ大会では、金メダルはたったの4個だったのである。スポーツ関係者は一笑に付し、信じる者は誰もいなかった。それどころか、「大島は軽はずみな公約をしてしまった」と非難される始末だった。しかし彼の宣言には根拠があった。世界のスポーツ情勢を慎重に分析した上で、出した数字だった。心配する者たちを前に、大島は「心配することはない。開催すればわかる」と胸を張った。結果は大島の宣言を上回る16個の金メダル獲得となったのである。
「将来を担うのは若者」
他にも大島がこだわったことがあった。聖火ランナーである。当初の原案では、候補は自治体の首長や議員、財界有力者、スポーツ功労者など。彼はこれに断固として異を唱え、「聖火ランナーは若者に任せればいい」と主張した。大島は常に日本の将来を担う青少年のことを真剣に考えていた。オリンピックはその一里塚に過ぎない。大舞台の立役者は、明日の日本を担う青少年でなければならなかったのだ。大島の断固たる提案が通り、聖火ランナーのほとんどは高校生を中心とした若者たちとなった。
東京オリンピックは記録ずくめの大会だった。参加国数、入場者数、初の衛星中継など。そして何よりも、戦後19年目にして敗戦国日本が、完全に復興したことを世界にアピールできたことは大きい。まさに国家的な大事業だったのである。これを成功裏に導いた大島の功績はいくら強調してもしすぎることはない。しかし、大島はこれで満足したわけではなかった。オリンピック後、大島は「偸安を許すな!」と強い口調で語り続けた。安楽を貪ることをやめ、将来に備えよということだ。
彼は休むことを知らない。オリンピック開催の年を「スポーツ元年」と位置づけ、「みんなのスポーツ」推進運動に取り組んでいる。また大阪体育大学創設に尽力し、後に副学長に就任した。1985年3月30日に息を引き取るまで、大島は食道ガンと闘いながら、東奔西走の日々を送った。大島の指導を受けた誰もが口を揃えて言うことがある。「威厳もあり、行動力もある学者だった」。そして「威張らなかったし、弁解もしない人だった。ああいったスケールの大きい人物はなかなか出てこない」と。
(写真/関西大学年史編纂室蔵)
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