沢田美喜 
(さわだみき)
 

混血孤児の母として 
養育した混血孤児2千人  三菱財閥岩崎家の長女
 

混血孤児の救済に生涯を捧げた沢田美喜の原点は、イギリスでの孤児院体験にあった。財閥一家に生まれ、何不自由なく育った彼女が「心の目」を開いた体験となった。人を幸せにする喜びは、他の何よりも代え難い価値あることだと悟っていくのである。

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沢田美喜

キリスト教に心惹かれる

  神奈川県の大磯にエリザベス・サンダース・ホームという名の社会福祉法人がある。現在は、家庭の事情で親と一緒に生活できない子供たちの福祉施設となっているが、もともとは沢田美喜によって設立された混血孤児のための孤児院であった。
  戦後、日本占領のためにやってきた米軍兵士と日本女性との間に、数多くの混血児が生まれた。多くは売春、強姦、恋愛などの結果生まれた子供で、両親からも周囲からも見捨てられ、孤児となっていた。沢田美喜は大磯にホームを作り、混血孤児の親代わりとなって彼らの養育に生涯を捧げたのである。
  沢田美喜は三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫娘として、1901年9月19日に誕生した。父は弥太郎の長男久弥で、三菱財閥の3代目総帥であった。美喜は長女であったが、上に3人の兄たちがいたため、少女時代から男まさりで通っていた。両親は彼女の悪戯ぶりには手を焼いた。母方の親戚を訪れたときには、祖母が大切にしていた金魚を握りつぶしたこともあった。父はときどき「この娘が男であったら……」と洩らしたと言う。
  岩崎家は代々、仏教崇拝の念が強い家庭であったが、美喜はキリスト教に惹かれるようになっていく。きっかけは小学生の美喜が、病気療養のため、付き添いの看護婦と共に大磯の別荘にいた時のこと。夜、寝室で耳を澄ますと、クリスチャンであった看護婦が聖書を朗読している声が聞こえてきた。「汝の敵を愛せよ」。この言葉が「耳の中に火のように燃えて残った」と美喜は自伝の中で述べている。多感な少女は、この言葉に強い衝撃を受けた。この日以来、美喜はこの未知の宗教に心惹かれるようになっていくのである。
  しかし、祖母のキリスト教に対する反対は徹底していた。学校の友人から聖書を入手してしまうという理由で、学校(現在のお茶の水女子大学の附属高等女学校)を退学させたほどであった。


イギリスでの孤児院体験

  美喜の結婚は、21歳の時である。相手は外交官の沢田廉三。当初結婚にあまり乗り気でなかった美喜ではあったが、沢田家がクリスチャン家庭であった点が、結婚の決定的要因となった。祖母の反対にもかかわらず、美喜のキリスト教への関心は、ますます強固なものになっていた。廉三と結婚すれば、堂々とクリスチャンになれる。こんな思いが結婚へと駆り立てたのである。
  外交官夫人となって、夫と共に各国を渡り歩きながら、最も強い影響を受けた国がイギリスだった。1931年9月から丸2年の滞在に過ぎなかったが、イギリスでの体験は、彼女の後の人生にとって、その運命を変えてしまうような意味を持っていた。
  一人の老婦人の誘いで、ドクター・バナードス・ホームという孤児院を訪れたときのことである。そこで彼女が見たものは、一般的に人々が孤児院に対して抱く暗いイメージとはかけ離れたものであった。小、中、高の学校があり、教会があり、職業訓練の教室や実習の工場まで設備されていた。何よりも美喜を驚かせたのは、子供たちの表情であった。暗い表情の子は一人もいないのである。
  美喜は毎週木曜日に、このホームを訪れボランティアで働くことにした。人を幸せにすることの喜びを感じる貴重な体験となった。美喜は言う。「ここで心の目が開かれた」と。後に、日本に混血孤児院を作る精神的原点がここにあったことは間違いない。


混血孤児の養育

  美喜が混血孤児院を作ろうと決心するに至る出来事が起こった。終戦2年後の1947年、買い出しの商人などで混雑した列車に乗り込んだときのこと。闇物資摘発のため回っていた警官の目に止まったのが、美喜のすぐ上の網棚に置かれた紫の風呂敷包みだった。「包みを開けろ」。警官が美喜に命じた。それは彼女のものではなかったが、命ぜられるままに包みを開いた。そこから出てきたのは、なんと数枚の新聞紙にくるまれた生後まもない赤ん坊の死体。それも黒い肌だった。
  警官と乗客の疑惑の目が美喜に注がれた。黒人兵との間に生んだ子を殺し捨てようとしたに違いない、と。一人の老人の証言で、若い女性がその風呂敷包みを置いていったことがわかり、美喜への疑いは晴れた。この時である。美喜は、心の奥深くからか、あるいは天空からか、静かな、しかし確かな声を聞いた。「お前はたとえ一時でも、この子の母とされたのなら、なぜ、日本国中のこうした子供たちのために、その母となってやれないのか……」。この時、美喜は46歳。混血孤児の養育に捧げつくす決心をした瞬間であった。
  大磯にある岩崎家の別荘を施設として、使わせてもらうため、美喜は実家を訪れ、父にお願いした。父久弥は、美喜から悲惨な孤児たちの話を聞いて、目に涙をいっぱい溜めて言った。「世が世なら、大磯の家ぐらい寄付してやるのだが……」。大磯の別荘はGHQ(占領軍総司令部)の命令で、財産税のため政府に物納してしまっていたのである。
  美喜の活動は、大磯の別荘を政府から買い戻すことから始まった。自分の持ち物で、お金に換えられるものは、ことごとくお金にした。寄付も幅広く募った。最初の寄付が、在日生活40年に及んだエリザベス・サンダースという名のイギリス人女性からのもの。この女性の名をそのまま、ホームの名にしたのである。


ミルク集めに奔走

  ホームを開設した途端、あっという間に子供の数が20人、30人と増えていった。美喜は一人も拒むことなく、子供を引き受けた。苦労したのは、ミルク集めである。美喜の持っていた宝石、衣類、調度品、美術品などがミルクやオムツに換えられていった。
 米軍キャンプをも精力的に回った。ミルク集めのためである。しかし、進駐軍にとって混血孤児の問題は、なるべく触れてほしくない恥部だった。美喜の活動に快く思っていない者も、少なくない。そこに乗り込んでいくのである。物乞い的な態度は一切なかったという。堂々と胸を張って、「あなた達が生ませた子ではないか。協力するのは当たり前だ」ときっぱり言い切った。美喜の迫力に米兵は圧倒された。
  世間の風当たりも強かった。「日本を滅ぼした敵の子を育てるのか」「パンパン(娼婦)家のマダム」などと罵声を浴びせられた。投げ出したくなったことも幾度かあったという。そんな彼女を支えたのは、子供たちの姿だった。外回りで夜遅く帰ってきても、赤ん坊の寝顔を見ると疲れが吹き飛んでしまう。記憶の中に、母のイメージを持たない子供たち。それを思うと、いとおしさで胸がいっぱいになった。この子たちを見捨てるわけにはいかない。自分が彼らの母にならなければと気持ちを奮い立たせたのである。


忘れられない体験

  1952年から美喜はたびたび渡米した。基金集めのための講演と里親との養子縁組が目的であった。その中で、生涯忘れることができない体験をした。ホームで育てている黒人孤児の父親を訪ねるため、ミズリー州の監獄を訪ねた時のことである。父親の名はジョンソン、黒人である。日本女性との結婚を考えていたが、酒のうえの口論で、同僚を射殺してしまった。軍法会議にかけられ、その後本国で服役の身となっていた。
  ジョンソンは、まだ見ぬ我が子マイクに重労働で得た収入を7年間送り続けていた。父親としての責任を果たそうとした唯一の男性だったのである。自分を責めさいなむジョンソンを前にして、美喜に一つの思いがわいてきた。マイクをジョンソンの姉の家庭の養子にしてはどうだろうか。失意の彼を慰めたい一心から出たものだ。
  帰国後、美喜は夢中になって、マイクの養子縁組に取り組んだ。正式な許可が下りたのは、監獄を最初に訪れてから3年後のことである。美喜はマイクを連れて、ジョンソンのいる監獄を訪問した。面会室に入ってきたジョンソンの目に、真っ先に飛び込んできたのが、美喜の横にいるマイクの姿。ジョンソンは目を大きく開け、驚きと喜びを全身で表して、駆け寄ってきた。彼にはマイクと一緒であることを教えていなかったのである。
  美喜はマイクを抱き上げ、面会人との境にある低いガラスのしきり越しにマイクを手渡した。夢にまで見た我が子である。しっかり抱きしめる彼の目からは、喜びの涙が溢れ出ていた。看守の目にも光るものがあった。別れる時、ジョンソンは涙をぽろぽろ流して美喜に言った。「あなたをお母さんのようにさえ思えます」。


本当の親

  占領下で日米の混血孤児は約5千人いたと言われている。そのうち美喜のホームで育った子供たちは約2千人。美喜が仲立ちをして海外に養子に送った子供は500人を越えた。資金集め、養子縁組と東奔西走の日々を送った美喜の人生も、ついに終わりの時が来た。
  臨終の地となったのは、地中海に浮かぶスペインの美しい島、マヨルカ島。孤児救済の仕事に携わって以来、最初で最後のプライベートな観光旅行の途中であった。体の不調を訴え、高熱が出て起きあがれなくなってしまった。日本から駆けつけた美喜の息子と、妹に見守られて、1980年5月12日早朝、78歳の美喜は静かに息を引き取った。苦しみの跡はなく、安らかな死に顔だったと言われている。
  美喜を知る者の多くは、彼女は決して理想的な教育者でも、慈善家でも、社会活動家でもなかったと言う。感情の起伏が激しく、怒りを抑えられず、ハイヒールで孤児たちをぶつこともあったからである。しかし、美喜に激しくぶたれた子ほど、美喜の葬式に真っ先に駆けつけ、悲嘆に暮れていた。彼らは一様に口にする。「結局、本気で怒ってくれたからですよね。本気で怒るのは、本当の親だけじゃないですか」。「大人になるまでわからなかった。本当にたいした人だと思う」。
  美喜は混血孤児たちにとっての母になろうとした。だからこそ、生母のことを尋ねる中学生の孤児に「このママ(美喜のこと)のお腹から出たんだよ」と、誰でもわかる嘘を真顔で言うことができたのである。晩年の美喜は、国内、海外各地に散らばった卒園生の家族を訪ね、混血孤児の子、つまり「孫」に会うことを最大の楽しみにしていた。



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