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柴五郎 
(しばごろう)

日英同盟の影の立役者 
北京籠城戦の英雄  会津武士の誇りを守る

 中国語の猛勉強の末、柴五郎は陸軍の情報将校として清国(中国)に派遣された。そこで待っていたものは、義和団の列国公使館区域への攻撃の嵐。約2ヶ月にわたる籠城戦を勇敢に、かつ冷静に戦い抜いた柴五郎の名は世界に鳴り響いた。英国の柴への信頼は、その後日英同盟へと結実した。

柴五郎

会津藩の悲劇

 1900年夏、北京で義和団(排外主義を唱える宗教的秘密結社)の勢力が、列国公使館を包囲し、攻撃を開始した。1万を超える義和団と清国政府軍を相手にわずか430名の兵士と150名の義勇兵を指揮して、籠城戦を戦い抜いた男がいた。北京の日本公使館付武官であった柴五郎である。冷静沈着、勇猛果敢な彼の戦いぶりは、欧米列国の称賛の的となり、当時欧米人の間で最もよくその名前を覚えられた日本人であった。
 柴五郎が生まれたのは1860年、会津若松。時は1868年秋、徳川幕府の中核であったため、明治新政府から「朝敵(天皇の敵)」とされた会津藩は、薩長(薩摩と長州)率いる新政府軍との戦いを余儀なくされた。五郎の父らも若松城に籠もり、総動員態勢で新政府軍の侵攻に備えていた。面川村にいる大叔母が柴家を訪ね、「泊まりがけで遊びにおいで」と五郎を誘ったのは、そんな時期のこと。母の勧めもあって、五郎は大喜びで大叔母に従った。これが一家の女性たちとの永遠の別れとなったのである。
 敵進入の時には、辱めを受けるよりは、潔く自刃(自害)しよう。会津では、こんな誓いを立てていた女たちは少なくなかった。柴家の女たちも、その誓いを立てていたのである。母が面川村行きを勧めたのは、幼い五郎をその惨劇に巻き込みたくなかったからなのかもしれない。新政府軍が防衛戦を突破して、若松城下に殺到したのは、五郎が大叔母と共に面川村に入った翌日のことであった。
 城下は砲弾が飛び交う火の海、避難民が面川村にまで押し寄せていた。そこに大叔父の柴清助が飛び込んできた。五郎を呼び、きちんと正座させ、自らも背筋を伸ばして語った。「汝の母さまをはじめ、家人一同、潔く自刃された」と。五郎は、一瞬にして、母、祖母、姉、妹、兄嫁を失ったことを知った。落雷を受けたような衝撃。多くの人の慰めの言葉も、耳には入らなかった。その時、五郎は一滴の涙も流さなかったという。茫然自失の中、必死に耐えていたのである。やがて一人になったとき、五郎は部屋の雨戸を引いて、部屋の隅に座り込んで、ひくひくと泣いた。


斗南の飢餓地獄

 朝敵とされた会津藩の悲劇は続いた。元武士とその家族、約1万7千名が斗南(青森県の下北半島辺り)への移住を強いられた。五郎は、父の佐多蔵、長男の太一郎夫妻と共に斗南に向かったが、彼らを待ち受けていたものは飢餓地獄。そこは、雑穀以外はほとんど採れない痩せ地で、南部藩(岩手県)が価値なしとして手放した土地であった。冬を越すことができず、飢えと寒さで老人たちは、ばたばたと死んでいった。
 そんな極限状況の生活の中で、五郎を支えたものは、父の矜持(誇り)であり、兄の愛情であった。父は口癖のように「ここは戦場である。会津の国辱を晴らすまでは戦場なのだ」と言った。五郎は父のこの言葉を深く胸に刻み、この戦場に耐えようとした。
 兄の太一郎は、幼い五郎を立派に育てようと決意していた。そうしなければ、非業の死を遂げた母たちに顔向けできないと思っていたのである。次々に悲劇に襲われながらも、五郎が弱音を吐くことがなかったのは、父や兄の愛情に支えられていたからである。


陸軍の情報将校

 柴五郎は13歳の時、陸軍幼年学校へ入学を果たした。青森県の権大参事として、赴任していた野田豁通との縁がきっけである。青森県給仕として選ばれた五郎は、野田に仕えることになり、以後何かと野田の世話になった。五郎の不遇の身に同情した野田は、この少年を実の弟のように扱ったのである。
 この野田が、東京に出ていた五郎に「陸軍幼年学校を受けてみないか」と持ちかけてきた。父に「ひとかどの人物になるまで帰らない」と告げて、東京に出たものの、何の見通しもなく下僕に甘んじる日々であった。この学校は、学費も生活費も政府持ちだという。こんないい話はない。五郎は飛びつき、猛勉強が始まった。
 合格通知を受けたのは1873年の3月末。五郎は天にも昇る気持ちだった。その頃、彼は旧会津藩の元家老山川浩の家に世話になっていた。山川一家は、浅草にある寺の一部に仮寓して、旧会津藩士救済のため奔走していたのである。この山川浩は五郎のもう一人の恩人であった。行き場を失い、路頭に迷っていた五郎に「ぼくの家に来なさい」とすすめてくれた。その頃、山川家は恐るべき貧困のどん底にあえいでいたにもかかわらず、五郎を家族の一員として快く迎え入れてくれたのである。
 五郎の合格を誰よりも喜んでくれたのが、山川浩とその母であった。新調した軍服を着終えた五郎を見て、母堂は「うん、立派じゃ」と言って、涙を浮かべながらいつまでも眺めていたという。母堂の眼差しに亡き母を感じたのか、五郎も思わず涙ぐんだ。
 陸軍幼年学校卒業後、陸軍士官学校に学んだ五郎は、将来清国(中国)に渡って諜報活動をしたい。そんな夢を持つようになった。情報の分野で身を立てることで、国家のお役に立ちたいと考えたのだ。幕末、会津藩が朝敵の汚名を着せられ、無念の敗北を喫したのは、情報戦に敗れたからだと感じていたからである。
 その志を貫くため、中国語の猛勉強が始まった。そして、士官学校卒業後、4年目にして念願叶い、1884年に清国福州(福建省)勤務、その3年後に北京勤務を命じられる。ことあるごとに、中国勤務を熱心に懇請していたからであるが、五郎の中国語能力の優秀さが、陸軍省に届いていたからである。彼は、中国語だけではなく、フランス語、英語も自由に操る語学の達人であった。情報活動にはうってつけの人材となっていたのである。


籠城戦を指揮

 1900年4月、40歳の柴五郎は日本公使館付武官(中佐)として北京に着任した。北京駐在は13年ぶり。この頃、清国では義和団と称する結社が、「扶清滅洋」(清朝を助けて西洋を滅ぼす)をスローガンに、各地で外国人、特にキリスト教徒への襲撃を繰り返していた。そして、ついに北京にある各国の公使館区域を包囲するに至った。
 各国の外交団は緊急の会議を開き、天津の港に停泊している各国の軍艦に兵力を要請した。すぐに混成の救援隊341名が北京に到着。ところが、義和団により、天津・北京間の鉄道が破壊。2千名からなる第二救援隊の到着が何時になるかわからなくなってしまった。義和団に加勢して、清国兵による攻撃も始まった。こうなれば援軍が来るまで、公使館区域に立て籠もる以外に道はない。全員一致の見解だった。女、子供、老人、病人は比較的安全なイギリス公使館に避難させ、約2ヶ月に及ぶ籠城戦が始まった。
 総指揮官に選ばれたのはイギリス公使のマクドナルド、元軍人だった。彼は各国の兵を指揮する権限を柴中佐に与えた。彼を全面的に信頼していたからである。部下や大勢の義勇兵を組織化し、防衛ラインを固めていく中佐の手腕は、マクドナルドを感嘆させた。柴中佐の指揮下に入ったイギリス人義勇兵シンプソンは、彼に心服し、「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれている。彼はいつの間にか混乱を秩序へとまとめていた」と日記に記し、さらに「彼の奴隷になってもいいと思う」とまで書いている。
 日本兵は柴中佐の指揮の下、実に勇敢に戦った。数百の敵がイギリス公使館正面の壁を突破して侵入を開始した時があった。柴中佐の指示で応援に駆けつけた安藤大尉以下7名は、サーベル(軍刀)を振りかざし、銃弾が飛び交う中を一丸となって突入。たちまち数名の敵を切り倒してしまった。これにひるんだ敵兵は、浮き足立って壁の外に逃げ出してしまった。この戦闘は、イギリス公使館の人々の目の前で繰り広げられたせいもあって、後々まで日本兵の勇敢さは称賛の的になったという。
 一人のイギリス人義勇兵が語るところによると、彼の隣にいた日本兵の頭を敵の銃弾が掠め、鮮血が飛び散った。「くそっ」と叫んだ日本兵は、手ぬぐいを鉢巻状に巻き付け、そのまま何事もなかったように任務に就いていたという。日本兵の戦死率は20パーセント、戦傷率は52パーセントと他国の兵士を圧倒。日本兵の活躍は明らかだった。


北京開城

 8月に入り、籠城も2ヶ月近くに及び、食糧はついに底をつき、餓死者が出る状況となった。8月14日、ついに1万6千人(半分は日本兵)の兵士からなる援軍が到着した。援軍の銃声を真っ先に聞き分けていたのは、前線の兵士たちであった。彼らは小銃を空に突き上げ、飛び上がって喜びを表した。一般人を避難させていたイギリス公使館では、誰かれ構わず、抱きついて肩をたたき合い、みな目には涙をいっぱいためていた。
 援軍の北京入城後、列国指揮者会議が開催された。総指揮官マクドナルドは、籠城の経緯を元軍人らしく事実を順を追って報告。将兵の勇敢さと不屈の意志、それと不眠不休の働きによって救援の日を迎えることができたと述べた。そして、最後に「北京籠城の功績は、特に勇敢な日本兵に帰すべきものである」と付け加え、報告を終えた。一斉に列席者の視線は柴中佐に向けられた。彼の目は、うっすらと涙で潤んでいたという。
 その日、日本兵一同を集めた柴中佐は、彼らの奮闘をねぎらうと共に、マクドナルドの言葉を伝えた。参席者から嗚咽がもれ、その声が全体に広がっていった。兵士たちは、みな流れる涙をぬぐおうともせず、男泣きに泣いた。祖国の名誉を守り、欧米人から認められた誇りを味わっていたのである。
 この年の10月、一人の人物が駐日イギリス公使となって東京に赴任してきた。籠城戦の総指揮官マクドナルドその人だった。日英の関係は一気に接近の度を増し、1902年の日英同盟の締結に至るのである。マクドナルドは、イギリス首脳部に日本軍の優秀さを説き、日英同盟締結に尽力した。この同盟が3年後の日露戦争で絶大な効力を発揮したことを思えば、まさに柴五郎は、日本を救った影の立役者であったと言うべきであろう。
 その後、柴五郎は明治天皇の前で、北京籠城の経緯を報告する名誉を与えられた。朝敵とされた会津の汚名を晴らしたのである。彼の感慨はいかばかりであったろうか。1945年12月13日、85年の生涯に幕を下ろした。柴五郎は、生涯、自らの功績を人に語ることがなかったという。私心なき、真正の武士であった。



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