重松 髜修
(しげまつまさなお)
聖者と慕われた日本人
養鶏で豊かになった朝鮮農村
朝鮮の農民を豊かにしたいという熱い思いを抱いて、朝鮮に渡った重松髜修は、敵意と恨みのこもった銃弾を受けながらも、初心を忘れなかった。貧しい朝鮮農民の目線に立ち、常に彼らを理解しようと心がけたがゆえに、朝鮮の人々の多くが日本人を敵視する中、重松は聖者のように慕われた。
朝鮮に渡る使命感
日本が朝鮮(当時の一般的呼び方)を植民地として支配していた時期、重松髜修は朝鮮の人々から聖人のように敬愛された稀有な日本人であった。貧しく報われない朝鮮農民の生活を改善しようと、献身的な生活をひたすら続けたからである。
1891年4月23日、愛媛県温泉郡粟井村(現在は松山市)に生まれた重松髜修が、朝鮮との関わりを持ち始めたのは、旧制の松山中学を卒業後、東洋協会専門学校(後の拓殖大学)に入学してからである。選んだ学科は朝鮮語科。「朝鮮のために役立つ何かをしなければならない」。そんな使命感を持ち、朝鮮に渡る日を夢見るようになっていた。
卒業後、朝鮮に渡ったのは1915年。朝鮮総督府の官吏として、土地調査局に勤めることになった。併合後5年目のことで、日本の一部になった朝鮮を豊かな国土にしようという熱い思いを抱いて朝鮮に渡ったのである。24歳の時であった。
その後、重松は金融組合の理事に転職した。直接、朝鮮の人々と触れ合う仕事をしたかったからである。この金融組合は、借金苦に打ちひしがれている朝鮮の零細農民を救済する金融機関として設立された。農村では、土地を持たない小作人の割合は農民全体の7割を占め、年利にして5割以上の高利の借金に苦しんでいた。こうした農民を救おうとして、重松は農村に飛び込んでいったのである。
1918年1月に重松が組合理事として赴任した先は、平安南道(北朝鮮)の陽徳。そこは平壌から東へ150キロほど離れた孤立無援の僻村で、日本人は家族を入れても30人ほどに過ぎなかった。朝鮮語を自由に操り、率直で誠実な人柄の重松は、村人らにすぐに好感を持って迎えられた。
銃弾に倒れる
1919年3月1日、京城(ソウル)のパゴダ公園から始まった独立運動は、燎原の火のごとく一気に朝鮮半島全土に波及した。重松のいる陽徳にまでこの運動が及び、日本人が一部の暴徒に襲われたのは3月5日午前9時過ぎのことであった。怒濤のように猛り狂った群衆が、日本人が集まっていた憲兵隊分遣所の門前に殺到。重松は、防備の最前線に飛び出し、彼らを制止しようとした。その時である。重松の右足に激痛が走り、そのまま崩れ落ちてしまった。拳銃で撃たれたのである。
宿直室に運び込まれた重松の太ももの中央部には、人差し指がすっぽり入るほどの穴があり、噴水のように鮮血が流れ出ていた。意識がもうろうとする重松に分遣所の所長が泣きながら語った。「しっかりしてくれ。君は我々のために犠牲になってくれたのだ。決して君だけを死なせない」。うつろな意識の中で所長の声を聞き、重松は意識を失った。
一刻の猶予もない。一進一退の状態が続いた。周囲の懸命な介護により、翌朝には熱も徐々に下がり、意識も戻った。そして、救援の兵士12名が到着した時、友人が重松の耳元で、「もう大丈夫だ!」と言った。友人の目には涙が光っている。重松は横たわったまま、「万歳!」と叫んだ。目から涙がこみ上げてきた。
この事件で重松は右足の自由を失い、障害を持つ身となってしまった。しかし、同時に人生最大のパートナーを得たのである。京城にいた知り合いのマツヨという女性が、重松の窮状を知り、介護のため、危険を冒して陽徳までやってきてくれた。日本人を守ろうとした重松の犠牲的精神に深く感動していたのである。彼女の献身的な介護で重松の傷は徐々に回復に向かった。彼女の愛情は、重松の生きる支えとなり、力となったのである。
事件後、彼に与えられた仕事は平壌にある金融組合の事務。しかし、この仕事に彼は満足できなかった。朝鮮の農民の中に入り、彼らと喜びと悲しみを共にしたかったからだ。それは彼が朝鮮に渡った原点である。この気持ちは、事件の後でも、全く変わっていなかった。彼は手記に書いた。「残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。こう決心した時、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた」。
養鶏事業
1925年7月、重松に江東金融組合理事の辞令が下りた。江東は平壌から東に40キロに位置する農村。重松夫妻がこの村に赴任してまもなく、重松はふとしたことから、「副業として養鶏をやれないか」と思いついた。在来種の鶏は小さく、卵の数も少ない。それを白色レグホン、名古屋コーチンなどの改良種の鶏に変えるのだ。卵は協同販売にし、販売代金は貯金させるというアイディアである。
これには改良種の有精卵を各農家に配布する必要がある。しかし、農家にも、組合にも、そうした資金的余裕はない。重松は誰にも頼らずに、自分でやり切る覚悟を固めた。自宅に鶏舎を建て、そこで卵から孵化させ、その雛を育て、成鶏にしてまた卵を孵化させる。これを繰り返すことで、有精卵を増やし、その有精卵を無償で農家に配布する計画である。これは妻の協力なしにはできない仕事である。妻に計画を打ち明けると、「一緒にやります」と言ってマツヨは微笑んだ。何よりも大きな激励であった。
重松は農家一軒一軒を回って、改良種による養鶏事業の意義を説いて歩いた。卵から、いずれ牛、豚も買え、土地購入も夢ではないと。しかし、なかなか信じてもらえない。日本人に対する敵意ものぞかせていた。誠意を持って接すれば、頑迷な村人の心は必ず溶ける。こう信じて、不具の足を引きずりながら、何度も何度も訪問した。
徐々に理解者が現れた。若者たちであった。重松は彼ら若者たちに「農村の振興は自覚する青年の奮起にあり」と熱く説き続けた。彼ら若者たちの活躍で、改良種による養鶏事業は徐々に浸透していった。農家の鶏舎では、レグホンや名古屋コーチンが、色鮮やかで大きな卵を産み始めていた。農民はこれを見て驚き、喜んだ。当初、集荷した卵をマツヨが比較的余裕のある家々を回り、売りさばいていたが、とても間に合わない。重松は江東養鶏組合を組織し、卵の販売ルートの拡大に取り組むのである。
卵から牛へ
養鶏事業の成果が表れる時が来た。1928年の12月、一人の未亡人が組合にやってきた。「貯金が30円貯まったので、牛を買いたい」と言う。職員たちは色めき立った。重松が通帳を見ると、貯金をはじめて1年も経っていなかった。夫を失って、息子と二人暮らしの夫人は、生活を切りつめながら、1個3銭ばかりの卵を組合に持ってきては、せっせとお金を貯め続けたのである。夫人は照れくさそうではあったが、嬉しさが表情に溢れていた。「牛が買えますよ。おめでとう」。重松は自分のことのように喜んで言った。誰もが半信半疑だった「卵から牛へ」の実現した第一号は、貧しい寡婦であったのである。
誰もが牛を買いたいと思っていた。しかし、所詮贅沢品だとあきらめていた。しかし、貧しい寡婦が、勤労と節約、努力によって、1年で牛を購入することができたのである。この事実が江東の農民たちの士気を高めたことは言うまでもない。農民たちは目を輝かせて言った。「鶏が牛を産んだぞ!」。
驚異的に伸びたのは、卵や牛の販売数である。1927年には、卵は993個の販売だったものが、2年後には5万6千個に増大、なんと56倍に増えていた。牛の購入も、1931年には235頭を数えるまでになった。
重松が特に嬉しかったことは、卵から医学生が誕生したことだった。尹景燮青年が重松のところに来て言った。「養鶏貯金を引き出したいのです」。理由を聞いてみると、「医者にかかれない貧しい人のために医者になりたい」と言う。平壌には医生講習所があり、そこを受験したいということだった。感激した重松は、じっとしておれないほど気持ちが高揚した。「これは稀に見る壮挙だ!」と言って、青年を激励した。講習所を卒業した景燮は、卵山里に施療所を置き、貧しい農民のための医療に従事した。後に「慈父」と称えられる人物となるのである。
「重い荷物を分けてもらう」
1932年、金融組合中央大会で、江東の農村を豊かにした功績で重松は表彰された。賞状授与のため、重松は壇上に上がる。右足が不自由な彼は、わずか数段の階段をよろめきながら昇った。会場からは、すすり泣きがもれ始めた。会場の誰もが知っていた。彼のその足は、朝鮮の人々の恨みの弾丸を受けとめたことを。そして、その恨みを恨みで返すのではなく、朝鮮の農民を豊かにしたい、その一念で献身的に努力してきたことを。誰もが目頭を熱くして、彼の登壇を見守っていたのである。
後日談がある。戦争が終わり、日本と朝鮮の立場が逆転し、日本人の官公吏や有力者の逮捕が続いた。重松も例外ではなかった。戦時中、不本意ながら戦意高揚のために作られた国民総力朝鮮連盟の実践部長を押しつけられていたからである。
検事と書記を前にして、厳しい取り調べがあったある日のこと。書記が席を外し、検事と二人だけになった瞬間、検事が言った。「先生、私を覚えていませんか。先生の卵の貯金で学校に行った金東順ですよ」。彼をよく覚えていた。江東の貧しい農家の一人息子で成績優秀な子供だった。3年生の時に父を亡くし、学校に行くゆとりがなくなった。学校をやめさせるという母を重松が説得して、鶏も5羽譲ってあげて、学校に行かせた経緯があった。その彼が見事に出世して、彼の前に検事となって姿を現したのである。
書記がいる前では、金東順は命令口調だったが、書記がいないところでは、恩人に対する口調に変わった。「先生、任せて下さい。先生は必ず私が守りますから」。この言葉に嘘はなかった。重松は47日間の拘留後に釈放され、帰宅した彼の家には、金東順から食料まで届けられた。自宅は常に警察に見張られていたが、金東順が手配した人々に導かれて京城を脱出、無事日本にたどり着くことができたのである。
重松髜修は、彼を知る朝鮮農民から聖者と呼ばれていた。常に彼らの心を理解することに心がけ、温かい心と言葉で接したからであり、その生活向上のために無私の心で取り組んできたからである。友人は重松が語った言葉を覚えている。「彼らの負っている重い荷物を分けてもらうんですよ」。
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