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島田叡

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島田 叡 
(しまだ あきら)

             官選最後の沖縄県知事  
             壮絶な殉職の道 沖縄県民と運命共同体

 米軍の沖縄上陸が予想された時期、なり手のない最後の官選知事として沖縄に敢然として赴任したのが、島田叡であった。彼の在任期間は、5ヶ月足らずであったが、沖縄県民に鮮烈な印象を残して散った。誇り高き内務官僚として、壮絶な殉職の道を選んだその生涯は、今でも語り伝えられている。

島田叡


死を覚悟して赴任

 沖縄県の新知事島田叡が沖縄県那覇市の県庁に着任したのは1945年1月31日、第二次世界大戦末期であった。沖縄県知事の内命を受けたのは同年1月11日。大阪府の内政部長の職にあった島田は、大阪府の知事から、沖縄県知事就任の打診があった。島田は即答した。「私が行かなかったら、誰かが行かなければならんでしょ。私が行きます」。早すぎる返答に知事が驚いた。「3日間ほど考えたらどうか。妻子もいることだし。断ってもいいんだぞ」。島田は、「これは私が決めることです」と言い切った。
 沖縄に単身で赴任するにあたり、自決用の青酸カリを携帯していたという。死を覚悟していたのである。内命を受けて以降、実に気丈に振る舞っていた島田であったが、彼の本心を垣間見た人がいた。沖縄に渡る少し前、日本画家矢野橋村画伯の家を訪ねたときのこと。酒の酔いが回り始め、気持ちよくなった島田が踊り始めた。その時、矢野画伯が何かの拍子に「年老いたお母様のお心を思うと……」と言いかけた。すると、島田はその場に座り込んで、ハラハラと畳の上に涙を落としたという。ほんの束の間のことではあったが、自分の決断が、母や妻子を苦しませることになることに耐えられなかったのであろう。一緒にいた友人が「彼の本心を垣間見た思いがして辛かった」と語っている。
 島田叡は1901年12月25日、開業医五十三郎とタマの長男として神戸に生まれた。神戸二中、三高(現代の京大教養学部)、東京帝大と進んだ島田は、この間ずっと野球の名選手として鳴らしていた。同級生は島田のことを思い出して、「自分の使命、与えられたポジションを守り抜く強い信念。このスポーツマンシップが叡さんのバックボーンだった」と述べ、こうした精神が島田を作り上げたと語っている。
 内務省に入った島田は、主に警察畑を歩んだが、決してエリートコースではなかった。徳島県保安課長になって以来17年間、実に13回も転任を繰り返し、それも地方回りばかりであった。「愛される警察官になれ」「セクト主義はなくせ」などと強調したため、本省から煙たがられたのである。今では褒められるところだが、時代が違った。しかし、沖縄の厳しい現実に直面した内務省は、責任感と決断力に溢れ、非常時に民心をつかめる知事を必要とした。島田に白羽の矢が立ったのである。


沈鬱の中に一縷の光

 新知事を迎えた県庁の全職員の中で、島田の赴任を一番喜んだのが警察部長の荒井退造だった。島田が赴任するまで、知事が事実上不在の中、責任感の強い荒井は一人で県政を切り盛りし、苦闘していたのである。米軍の沖縄上陸を目前にして、政府は「沖縄に戦火が及ぶ可能性大」と判断して、県民の県外疎開を決定した。この決定を受けて、荒井は疎開を積極的に推進しようとした。その荒井の前に立ち塞がった人物が、あろうことか知事(前任)であった。知事は周辺に疎開反対の言辞を述べたため、荒井は独断専横と非難を浴びることになってしまった。
 荒井はこの知事に悩まされ続けていた。44年10月10日早朝、米軍の大空襲が突然沖縄を襲った時のこと。那覇市内の90%が灰燼に帰した大惨劇の中、すっかり怖じ気づいた知事は、寝間着姿で官舎の防空壕に閉じこもり、そこから出てこようとはしなかった。その時に、県庁に残り一人指揮を執っていたのが荒井だった。以来、この知事は出張の名目で沖縄を離れることが多くなり、在任期間の3分の1近く沖縄を留守にした。さらに背後で沖縄脱出を画策し、香川県知事におさまってしまったのである。
 不安と焦燥にあえぐ沖縄にあって、島田の登場は一縷の光となった。県庁の職員の一人は、「この知事は自分たちを見捨てない。この人になら最後までついて行ける」と感じたという。沈鬱の県庁内が、新知事が着任した途端、この曇りが払拭されたのである。


県民は島田に心酔

 島民の疎開は緊急を要していた。島田は「疎開緊急計画」をまとめ上げ、那覇や首里など南部の島民を北部の国頭方面への疎開を実行した。島田の秘書官は知事の仕事ぶりを評価して、「行政手腕は鮮やかという他はなかった」と述懐している。警察部長の荒井も肩の荷を下ろすことができた。それまで一人で苦しんできたのである。この二人の努力により、命を救われた沖縄県民は約20万人にも及んだという。
 島田の姿勢は実に一貫していた。沖縄県民と運命を共にするという決意である。疎開促進のため、激務の合間を縫って住民との接触に努めた。疎開の重要性を説くため、講演会におもむき、講演が済むと民家の実情視察。時には民家で酒盛りが始まることもあった。島田は県民が不憫でならなかったのである。敗戦濃厚の時期にあっても、国策をいささかも疑わない県民の心情がいじらしく感じた。そんな彼らに少しでも楽しい思いをさせてやりたい。島田の親心がなせる酒盛りだった。空襲でみんなが我れ先にと、壕に逃げ込むときにでも、島田はいつも最後に入っていたという。知事のそんな気持ちが県民に通じないはずがない。県民は島田を信頼し、そして敬愛した。
 4月1日早朝、ついに米軍は沖縄本島に上陸。本島中部に上陸した米軍は南下を開始したため、避難民の北部への疎開の道は断たれてしまった。島民は、ガマと呼ばれた壕(自然にできた洞窟)への避難を余儀なくされたのである。新壕と呼ばれた避難壕に移り住んだ島田は、百数十人の島民と生活を共にした。壕の拡張、改善作業には知事自ら率先して参加する。知事に差し入れがあれば、それを怪我人や病人に与えてしまう。そんな島田に誰もが心酔してしまった。島田と接したある人は、「立派なお侍さんのような方だった」と語り、「後光が差しているように感じた」と言う者もいた。


島田の死

 戦局は日を追って悪化。日本軍はついに首里を放棄し、南部への撤退を決断した。このことは南部の島尻全域が戦場と化すことを意味した。そこには15万人の県民が逃れていたのである。島田は、「住民の犠牲をできるだけ食い止めるには、首里での戦闘終息を選ぶべきだ」と強硬に申し入れた。しかし、その声は無視された。軍は本土決戦準備の時間稼ぎのため、あくまで抗戦の構えだった。沖縄は日本本土のための捨て石だったのである。
 5月25日、島田は警察部壕を出た。軍と合流するためである。戦場に放り出された県民の被害を最小限に食い止めるため、的確な情報を知る必要があると判断したからである。県庁職員一行百人の南部落ちである。連日の豪雨の中で、ぬかるみと苦渋にまみれての退却。雨は無慈悲に降り注ぐ。まさに涙雨であった。道中、島田が見た光景は、戦いに追われ、南に逃れる県民の悲痛な姿であった。サトウキビを杖に足を引きずっている老人。泥んこの道を這っている者。島田の顔は今にも泣き出しそうに歪んだ。至る所に散乱する死体には、誰もが不感症になっていた。しかし、島田は立ち止まっては死体の前で祈りを捧げ、特に子供の死体には心を込めて合掌したという。胸が張り裂ける思いだった。
 真壁村の轟の壕に着いた直後、島田は警察部を含む沖縄県庁の解散を宣言した。米軍の奉仕殲滅作戦を目の当たりにして、部下たちに行動の自由を与えてあげたかったのだ。彼らに生き延びてもらうための苦渋の決断だった。軍司令部のある摩文仁の壕に向かうため、轟の壕を出るとき、同行を懇願する職員に「君たちは若い。生きて沖縄再建のために働きなさい」と言って、受け付けなかった。女性たちには「君たち、女、子供には米軍は手を出さないから、最後は手を挙げて壕を出るんだぞ。決して軍と行動を共にするんじゃないぞ」と言った。犠牲者を一人でも少なくしたい心境だった。
 島田を摩文仁まで送ってきた秘書官らは、「側におらせてください」と懇願したが、「帰りなさい。これはわたしの命令だ」と厳しい口調ではねつけた。その後、島田はポケットから束ねた札束を取り出して言った。「せめてもの名残として、これを取っておいてくれ」。彼らが辞退すると、「私はもう使うことがないから。今後、自重し自愛するように」と言った。三人は、これで知事との別れになると思い、その場で声を上げて泣いた。
 毎日新聞の支局長が摩文仁の壕に島田を訪ねたときのことである。支局長は、「知事は十分に県民のために働かれました。文官なんですから、最後は手を挙げて出られてもいいのではないですか」と言った。島田はキッと顔を上げ、言った。「君、一県の知事として僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」。そして、少し自嘲気味に「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもないだろうなあ」と言った。
 島田が摩文仁の壕を出たのは6月26日。死に場所を求めての最期の旅立ちだった。壕内で死ぬと迷惑がかかると気遣ってのことだったと思われる。最期まで同行したのは、やはり死を覚悟していた荒井警察部長だった。二人は摩文仁のどこかで自決したと思われる。二人が摩文仁の壕を出た6月26日が、島田叡の命日になっている。享年43歳。
 島田の在任期間はわずか5ヶ月足らずであった。しかし、沖縄の最も苦しい時期、沖縄県民と苦難を共にして、県民のために生き、そして散っていったその人生は、短くはあったが、美しい。島田と荒井の殉職の報に接し、内務大臣は、島田に日本行政史上初の「内務大臣賞詞」と顕功章を贈り、荒井にも顕功章を贈った。そして、「その志、その行動、真に官吏の亀鑑と言うべし」と称えた。



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