島秀雄 
(しまひでお) 

東海道新幹線の生みの親 
父の遺業を成し遂げる  安全確保に120%の努力 

 1年9ヶ月に渡る世界旅行の際、島秀雄はオランダでインスピレーションを得た。日本の鉄道の将来ビジョンが天啓のように閃いたのである。その時抱いたビジョンを東海道新幹線という形で実現し、その安全性を確保するため、渾身の努力を傾けた。世界最速で、しかも最も安全な新幹線が完成した。

島秀雄

技術者一家

 島秀雄は鉄道技術者、東海道新幹線を世に送り出した人物である。十河信二と共に、「新幹線の父」と呼ばれている。十河信二(国鉄総裁)がいなくても、島(技師長)がいなくても、新幹線は開業に到ることはできなかったからである。
 東海道新幹線が開業して以来、46年の歳月が経過しているが、乗客の死亡事故は1度も発生していない。新幹線の安全を確保するシステムが的確に運用されてきたからに他ならない。世に言われる「新幹線の安全神話」である。島の最大業績は、新幹線の安全性を確保するため、120%の努力を惜しまなかったことである。
 島秀雄は1901年5月20日、安次郎、順の長男として、大阪に生まれた。秀雄と同じく鉄道技術者であった父の安次郎は、鉄道の広軌改革(レールの間隔を広くする)に情熱を燃やしていたことで知られている。まさに息子の秀雄は、父の果たし得なかった悲願を東海道新幹線で実現したのであった。秀雄の弟文雄は、戦後初の国産旅客機YS11の中心的設計者として名をなしている。まさに島家は技術者一家であった。
 1925年に東京帝大を卒業して、島秀雄は鉄道省(現在のJR)に入省した。蒸気機関車の設計に携わったのは、3年目のことである。数多くの機関車の設計を手がけた島は、彼の最高傑作と言われているD51を作り上げた。これは、鉄道ファンから今でも「デゴイチ」の愛称で親しまれており、彼の持論「合理的なメカニズムは、美しくなければならない」を地でいく名車であった。
 D51は、極力低コストで、未熟な国産工業力の制約の中、上手に保守しながら、なるべく長期間走らせたいという願いのもとに設計された。保存しやすく、使いやすい機関車を目指したのである。タフで、謙虚で、実直な機関車であった。マシンは設計者に似ると言われている。デゴイチは、まさに島秀雄その人の特徴を有していた。


世界視察旅行

 島は入省2年目に7ヶ月に及ぶ世界旅行を行い、その9年後には2度目の世界旅行に赴いている。特に1年9ヶ月に及んだ2度目の視察旅行は、後の島を作る肥やしとなり、東海道新幹線につながる体験となった。
 ライン川を遡る船上から、河岸を走るオランダの電車を見ていたときのことだ。島の脳裏に「日本にも、いずれ高速で走る電車列車の時代が来る」という思いが、突如として啓示のように閃いたという。欧米では一般的に、重い機関車を先頭にして列車を牽引する「機関車列車方式」が主流であった。しかし、オランダは例外的に「電車列車方式」(小型モーターを各車両に分散させて走るもの)を採用していた。路盤が軟弱なオランダでは、重い機関車は不向きであったからだ。
 これはそのまま、日本にもあてはまる。それに電車列車は加減速性能に優れているので、緻密なダイヤを組めるし、機関車を切り離す必要がないので、折り返し運転が平易で、コストも安い。欧米を視察した島は、日本の鉄道を近代化する確かな道筋を見つけ出していた。これに徹し切ること、これこそが自分に課せられた役割だと確信して、帰国するのである。37歳であった。


戦後鉄道の青写真

 戦後、島は若い技術者たちと共に、台車(車体を支える鉄製の枠)、ブレーキ、パンタグラフ(電車の屋根に付ける菱形の集電装置)等の研究を始めていた。必ずや高速の電車列車時代が来るとの信念からであった。戦時中、すでに彼は日本鉄道の青写真を明確に描いていた希有な存在だった。
 海軍航空技術廠の技師だった松平精は、戦後、鉄道技術研究所に勤め始めた頃、焦土と化したこの日本に、斬新で具体的な鉄道ビジョンを語りうる高邁な人物が存在したことに驚き、感動した。島は「今の電車は振動もひどく、音もうるさい。あなたの航空技術の知識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきたい」と言った。これを聞いて松平は、必ずや自分でやり遂げようと心に誓ったという。
 電車列車方式の最大の問題は台車の振動問題。高速でも振動せず、静かで安全なモーター付き台車の開発が不可欠だった。終戦直後のこの時期、島は時速2百キロで走る電車列車をすでにイメージしていた。1946年12月には「高速台車振動研究会」を開催、官民の第一級の技術者たちが利害を超えて結集した一大研究会議であった。先の松平らが、航空技術で培った理論が、鉄道技術に生かされ、鉄道の高速化を可能にしたのである。
 1951年4月24日、横浜の桜木町駅手前50メートルで、京浜東北線の列車で火災事故が発生。乗客106名が死亡した。列車のパンタグラフが架線に引っかかり、垂れ下がった架線が木製の屋根に接触して発火したものだった。この車両は戦時中、応急処置的に設計されたもので、材料、コストなどぎりぎりまで切りつめられていた。火は一気に木製の屋根をのみ込み、ものの1分で車両全体を包んでしまったのである。
 この事故に関して、セクト主義が表に出て、責任を回避しようとする国鉄幹部の姿に島はすっかり嫌気がさしてしまった。純粋に鉄道技術の向上に取り組んできた島にとって、国鉄内部の現状は耐え難いものであったのだ。勤続26年、50歳の島は国鉄を去った。


十河信二の登場

 島の辞任で、広軌の新幹線建設は大きく後退したかに思えた。しかし、1955年、十河信二が第4代国鉄総裁に就任することで状況は一変した。十河は国鉄総裁就任早々、自分の手で広軌による新幹線建設を実現しようと決意していたのである。
 十河は新幹線実現には、島秀雄が欠かせないと考えていた。民間会社(住友金属)に移っていた島を十河は「親父さんの弔い合戦をやらんか?」と言って口説いた。島の父安次郎は、鉄道の広軌改革に生涯をかけた大技術者であった。しかし、その志半ばで戦後まもなく没していた。
 再び国鉄に戻ることにためらう島に対し、十河は「君には親の遺業を完成する義務がある。親孝行を忘れたのか」と迫ったという。十河の国鉄再建への信念、広軌新幹線への情熱は、島の心を動かし、次第に「士は己を知る者のために死す」の心境になっていく。新幹線建設における十河の最大功績は、この島秀雄を強引にスカウトしたことだ言われている。それほどに島の存在は決定的なものであった。
 島は1955年12月、副総裁格の技師長として正式に国鉄に返り咲いた。十河は「俺が金と政治を全面的にやるから、君は広軌新幹線に存分に力を発揮してくれ」と言って、技術分野の全権を島に与えた。この二人は全く正反対の性格だったが、その連携は実にうまく機能した。政治家と技術者、剛毅な野人と学者風インテリ、怒号の人と慇懃な紳士、情熱家と合理主義者。この正反対の両者がお互いに補い合い、最後まで盤石な連携が崩れなかった。


安全神話の立役者

 島にとって最大の難題は、オリンピックまでに間に合わせなければならなかったことだ。しかも安全性を絶対に確保した上で。このため、島は自分の持てる全てを投入した。2百キロを超える新幹線には、一点のミスも、遺漏も許されない。そのためには、未経験の新技術は使わない。すでに狭軌で証明済みの技術を集めて、それを広軌に応用するだけである。島はこの原則を徹底して貫いた。安全の絶対性を確保するには、これが最も確実な方法だし、オリンピック開催に間に合わせるには、新技術を確かめる余裕はなかったからでもある。
 多忙で戦いの日々が続いた。それは島だけではなかった。現場の技術者たちは、休日なしの超過勤務体制を余儀なくされた。組合運動が激化した時期である。しかし、彼ら技術者の間からは、不平や不満の声が上がらなかった。もちろん、世界最速の列車を作っているという誇りはあったであろう。しかし、それ以上に「楽しくて仕方がなかった」と技術者たちは口をそろえて言う。十河に守られ、島に指導され、技術者たちはみな燃えていた。
 島の持論は、「鉄道は100%安全で当たり前。100%の安全を期して、常に120%の努力を惜しまないことが、技術者としての当然のモラルである」というもの。島の日常の生活はそれを地で行くものだった。生涯、家庭での定時ダイヤを乱さなかった。毎朝5時ぴったりに寝室の雨戸を開け、6時5分前に朝食の席に着き、NHKニュースを見ながら朝食を取り、朝日新聞に目を通す。全て定刻通りを貫いた。
 娘は父のことを「何でも完璧主義者で、100点で当たり前の人だった」と語っている。つまらないミスで新幹線が台無しになることが許せなかったのだ。また、島の「直角水平主義」は語り草になっている。文具や製図用具、書類などは、全て直角、水平に並んでいたからである。朝食に際しても、ナイフやフォークなど食器類、バター、パンなども、テーブルに対して、直角、水平に位置していなければならなかった。チーズは、島のナイフで「25×25×4ミリ」にきっちりと切り分けられた。帰宅時、孫たちが来て玄関の靴などが乱れていると、ステッキで「直角、水平、垂直」と呟きながら、きれいに整頓したという。東海道新幹線の安全神話は、天から降ってきたわけではない。「直角水平主義」に見られる島の完璧性へのこだわりと勤勉性と決して無縁ではない。
 1964年10月1日、東海道新幹線はついに開業の日を迎えた。東京駅で行われた出発式に最大功労者である十河信二と島秀雄の姿はなかった。前年、十河は総裁二期目の任期満了に伴い、「十河追い落とし」派に敗れ再々任を果たせなかったからである。技師長の島はまだ任期が残っていたが、彼は断固として十河に殉じる道を選択した。その十河が退任するときは、自分も身を引く時だと決めていたのである。
 島は常々言っていた。「私には尊敬し、敬愛する人物が二人いる。一人は父安次郎、もう一人は十河信二さんだ」と。島は新幹線のテープカットの栄誉を捨ててまで、十河信二に殉じて国鉄を去ったのである。あくまで私心のない律義な男であった。1998年3月18日、島秀雄は96歳で天寿を全うした。
  


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