清水 安三
(しみず やすぞう)
中国のスラム街に女学校
貧しい少女を救済 桜美林学園は復活体
中国北京のスラム街の貧しい少女たちは、身売りされることも稀ではなかった。そうした現状を清水安三は看過することができなかった。少女たちが手に技を持ち、読み書き、計算ができるようになれば、身売りされずに済む。そう考えた安三は、スラム街に女学校を創設するのである。
桜美林学園
東京の郊外町田市に清水安三が創設した桜美林学園(大学、高校、中学、幼稚園等)がある。この学園は戦後創設されたにもかかわらず、沿革に「1921年、中国北京市朝陽門外に崇貞学園を創立」とある。実は、清水安三は中国に渡ったキリスト教の宣教師であり、北京のスラム街の貧しい少女たちを救済するため、創立した学校が工読女学校(後の崇貞学園)だったのだ。桜美林学園は、この崇貞学園の復活体に他ならなかったのである。
安三が生まれたのは、1891年6月1日、滋賀県高島郡新儀村(現在の高島市)。清水家は由緒ある家柄で名の知れた豪農であった。父弥七と母ウタとの間に末っ子として生まれたのが安三だったが、父は安三が5歳の時に急逝。16歳年上の長兄弥太郎が家督を継いだのだが、彼の放蕩三昧が祟り、中学の頃、安三は住む家を失った。弥太郎の愛人が切り盛りする料理旅館に移らざるを得なかった。多感で純情な安三は深く傷つき、兄や愛人らを軽蔑した。安三がキリスト教に出会ったのは、そんな時であった。
名をウィリアム・メレル・ヴォーリズという一人のアメリカ人が、聖書講座を開いていた。そこに参加した安三は、その教えに深く共感した。何よりも「姦淫するなかれ」の言葉は、彼の心に切実に響いた。兄の性的な放埒を身近で見てきたからである。安三が洗礼を受けたのは、その2年後の17歳の時であった。
その後、同志社大学神学部に学び、中国行きを強く希望するようになった。その契機となったのは、中国で死んだ米人宣教師ホーレス・ペトキンの話を聞いたことであった。ペトキンは中国に渡り、貧しい人々の救済活動に専念していた。そこに起こったのが義和団事件。狂信的な排外運動であり、外国人と見れば容赦なく殺害した。妻子を米軍艦に避難させたペトキンは、「羊飼いが羊を野に置いたまま逃げることはできない」と言って、北京に戻ってしまったという。数日後、彼は暴徒の銃弾に倒れてしまった。以来、母校エール大学では中国に牧師と献金を送り続けているという。この話を聞いた安三は、感動で心が揺さぶられ、「自分は日本のペトキンになる」と誓った。
工読女学校の設立
関西の組合教会の派遣で、1917年6月、満州(中国東北地域)の奉天(現在の瀋陽)に到着した安三は、2年後には北京に移動した。彼が横田美穂と結婚したのは、その直前のことである。中国で活躍する安三を敬愛し、弱い立場の子供たちを助ける仕事に就きたいと、常日頃考えていた女性だった。
彼等が北京に着いた直後、中国北部を大干害が襲った。農民たちは飢えに苦しみ、妻や子を売りに出す始末。それでも、命を保つことができない惨状が続いた。安三はすぐさま救済活動に取り組んだ。日華実業協会の委託により災童収容所を開設し、彼は子どもたちを集め、美穂は収容された子どもたちの生活の面倒を看た。どの子も痩せ衰え、体は埃にまみれている。皮膚病で膿だらけの子も多かった。二人の奮闘により、700名近い子が健康を取り戻したのだが、安三はそれで満足できなかった。彼らに識字など初等教育まで施して親元へ帰したのである。彼らの未来のためと考えたからであった。
災童収容所の仕事をしながら、安三は「中国随一のスラム街」と言われる朝陽門外の惨状をたびたび耳にした。子どもたちは、数日水だけで過ごすという飢餓寸前の生活に甘んじていた。子どもの犯罪は多発し、女の子は身売りされるケースも少なくない。大多数の子は学校とは無縁で、読み書きもできない始末。安三はここに女学校を作ろうと考えた。美穂が賛成したのは言うまでもない。こうしてできたのが工読女学校、後の崇貞学園である。「工」は手に技を持たせること、「読」は読み、書き、計算の能力を養うことを意味した。最低限の教養を身につけ、手に技を持つようになれば、家族を養うだけでなく、遊郭に身売りされなくて済む。事実、卒業生たちは刺繍の技術を身につけ、売春から抜け出すことができたのである。
妻の死
工読女学校の経営は常に火の車だった。女学校を支えるため、安三は京都で週刊雑誌「基督教世界」の編集や、同志社大学の講師の仕事を引き受けざるを得なかった。北京の女学校は美穂に任せ、安三の生活は京都という別居状態が続いたのである。そんな彼らを最大の危機が襲った。最愛の妻であり、パートナーであった美穂が、38歳の若さで命を落としてしまったのである。結核だった。安三のいない10年近く、女学校を一人で切り盛りしてきた美穂だった。心労が病状を悪化させたのかもしれない。亡くなる直前、美穂は遺言のように安三に言った。「女学校のこと、生徒たちのこと、くれぐれもお頼みします」と。そして続けて、「私の骨は、学校の庭の片隅に埋めて下さいね。約束ですよ」と言った。美穂の墓は約束通り、女学校の庭に置かれた。美穂の死を聞いた朝陽門外の人々は、服に喪章を付けて、美穂の死を悼んだという。
安三は悲しみのどん底にいた。しかし、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。残された二人の子のためにも、女学生のためにも母親が必要である。再婚を決断した安三に最大の協力者が現れた。青山学院女子専門部の教授、小泉郁子である。女子教育の専門家であり、クリスチャン女性であった。女子教育の理想を中国の地で実現してみたい。こう思って、教授職を投げ捨てて、安三のいる中国に渡ってきたのである。1936年6月1日、天津教会で二人は結婚式を挙げた。
崇貞女学校(元工読女学校)での郁子の仕事ぶりは完璧だった。安三は校長の座を郁子に譲り、教育面は全面的に郁子に任せ、安三は校主として経営面に責任を持った。この二人三脚により、女学校は大きく発展した。校舎の増築、設備の拡張、そして小学校、中学校に分け、正規の学校として認可を受けることに成功した。これらを総称して、崇貞学園と呼ぶことになったのである。
崇貞学園の復活
1937年に日中戦争が勃発し、日中が全面戦争に突入して以来、崇貞学園は、中国人にとって敵中にある学校になってしまった。清水夫妻に対する追放運動や嫌がらせなど起こっても不思議ではないほどに、事態は緊迫していた。しかし、驚くべきことに、そういうことは何一つ起こらなかった。朝陽門外の人々は、安三と美穂、また美穂の志を継いだ郁子が、私利私欲なく、貧民たちのために身を粉にして働いている姿をずっと見てきたのである。戦時中でありながらも、夫妻の活動は止むことを知らなかった。もう一つのスラム街天橋に、医療施設である愛隣館を建てようとするクリスチャン女性を助け、天橋の人々が無料で飲める井戸まで掘ってしまった。この井戸は梅光学園からの多額の寄付によってできたもので、「梅光の井戸」と呼ばれていた。たとえ敵の日本人であっても、多くの中国人は清水夫妻を受け入れ、彼らに感謝の気持ちを寄せていたのである。
しかし、ついに彼らが中国を去らねばならないときが来た。戦争が終わり、国民党政権から崇貞学園の全施設の接収命令が出され、退去せざるをえなくなってしまった。安三は何としても中国に残りたかったが、残留は叶わなかった。清水夫妻の貢献を認めつつも、彼らだけを特別扱いするわけにはいかないという返事であった。
中国を去るにあたり、安三と郁子は校庭の片隅にある美穂の墓の前に立った。この墓だけは残しておきたい。中国の底辺に生きる少女たちのために身を捧げた日本女性の記念として。二人は美穂の墓に花を手向け、安三は静かに祈りを捧げた。「私たちは日本に帰されてしまうが、美穂、あんたは永劫ここにいて、あんたの愛したこの国の少女たちを護っておくれ。しっかりと、頼んだよ」。安三の胸には込み上げて来るものがあった。
彼らが中国を去ったのは、1946年3月16日。安三は53歳、無一文からの再出発であった。彼らの行動は速かった。東京町田市に武器弾薬工場があり、そこで働く工員たちの寄宿舎が荒れ放題のまま残っていた。それを安く借り受け、同年の5月5日に桜美林高等女学校(桜美林学園)の開校式にこぎ着けたのである。帰国後、わずか2ヶ月足らずの内に。その後、幼稚園、中学校、大学、大学院まで発足させた。大学・大学院では、中国の言葉、文化、思想を教え、中国の学生をも迎え入れた。「日中の架け橋」となる人材を育てたいという安三の強い気持ちが表れていたのである。まさに桜美林学園は、安三が中国で果たせなかった崇貞学園の夢の復活に他ならなかった。
また、北京朝陽門外にあった崇貞学園の地には、現在は陳経倫中学がある。この学校の前史には「崇貞女学校」の名が挙げられ、清水安三と彼に協力した女性たちの写真が飾られているという。2002年に陳経倫中学は、安三と美穂が創設した工読女学校を出発点とする創立80周年を祝った。その日、清水安三と美穂を記念する碑が除幕された。中国広しといえでも、学校の門の中に日本人を顕彰する記念碑が建ったのは、この学校がはじめてのことだった。安三は1988年に96歳の天寿を全うしたが、死してなお中国にその精神が生きているのである。
(写真提供/桜美林学園)
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