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大鵬幸喜

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大鵬 幸喜 
(たいほう こうき)

逆境を跳ね返す闘志  
樺太から引き揚げ 「天才ではない。努力家だ」

 大鵬の強さは、強くなりたい一心で単調な稽古を繰り返す忍耐力、また逆境を跳ね返す闘志、それと親方や家族の支えの賜物だった。脳梗塞で倒れた大鵬は、持ち前の闘志で懸命なリハビリを行った。その時、リハビリの模範生と言われたが、彼の生涯は「人生の模範生」そのものであった。


母の厳しい躾

 2013年1月19日、第48代横綱大鵬が亡くなった。子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という名フレーズは、昭和を生きた人々の記憶に深く刻まれている。強くて、大きい、そして均整のとれた体と甘いマスク。子供たちの文句なしの憧れのスーパーヒーローだった。
 その強さは「百年に一人の天才」と言われたが、大鵬自身はそう言われることを嫌った。「俺は天才じゃない。努力家だ。俺くらい努力した人間はいない」と断言する。それは、相撲の稽古のことだけを意味するのではない。彼の幼少年時代は逆境の連続だった。それを耐え忍び、努力することによって鍛え抜かれた精神力の賜物だったのである。
 大鵬幸喜(本名は納谷幸喜)は、1940年5月29日、南樺太(現在ロシア領サハリン州)の敷香(現在のポロナイスク)で誕生。母キヨ38歳の三番目の子で、兄と姉がいた。母の故郷は北海道の神恵内だったが、自立を求めて樺太に渡り、敷香の洋服店に住み込みで働いていた。そのときに、出会ったロシア人がボリシコ・マリキャンという白系ロシア人(共産政権に反対して亡命したロシア人)、大鵬幸喜の父である。二人は結婚したが、終戦の2年前、白系ロシア人に対する「集団移住」の命令のため、家族は離別を余儀なくされた。3歳であった幸喜にその記憶はなく、母も父のことを一切語らなかった。そのため、幸喜は相撲界に入るまで、父がロシア人だとは知らなかったという。
 夫のいない中、寝る間を惜しんで働いたキヨは、子供の躾には実に厳しかった。「どんなに生活が貧しくても、人をだましちゃいけない。絶対にずるいことをしちゃダメ」と母は言い続けた。大人になっても幸喜の頭から離れなかったのは、ずるいことをして母から雪の中に頭を突っ込まれたお仕置きの光景だった。


引き揚げ

 1945年8月8日、広島に原爆が投下された2日後、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。敷香の町は狂乱状態と化した。一家4人、最後の引き揚げ船に乗り込み、稚内港に入港したのは8月21日のこと。母キヨの故郷、神恵内を目指したため、稚内で下船せず、そのまま小樽港に向かう予定であった。
 しかし、キヨの船酔いが激しかったため、稚内から陸路を取ることにした。これが運命の選択となった。乗客7百人を乗せ、稚内港を出発した船は、小樽港手前の留萌沖で国籍不明の魚雷により、一瞬のうちに沈没してしまった。生存者はわずか62人だったという。幸喜は相撲界に入ってから、ほぼ毎年のように稚内を訪れていた。辛うじて命が助かって、日本本土への第一歩を記した記念すべき原点となったからである。
 3年後、キヨは小学校の先生と再婚した。生計に追われていたからであり、子供の教育を考えてのことだった。それ以来、義父の転勤で、訓子府(常呂郡)、岩尾別(知床)、夕張、弟子屈と道内を転々とする生活が始まった。小学校に通う幸喜は、その頃、朝の4時頃起き、凍てつく戸外に出て井戸水を汲み、朝のみそ汁を作った。それから学校に行くまでの時間帯で、納豆売りに出かけたという。後の大横綱大鵬は、こうした逆境で鍛え抜かれた根性のゆえに誕生したのである。


相撲との出会い

 相撲との出会いは、弟子屈の川湯中学を卒業後、営林署に臨時で就職してからである。昼休みに仲間内で相撲を取っていたのであるが、その強さが評判となった。新弟子を探していた二所ノ関親方にその知らせがいった。母も伯父(母の次兄)も入門には、絶対反対だった。しかし、たまたま二所ノ関一門が訓子府に巡業に来ていたので、見るだけならということで伯父に誘われるまま見物に行くことになった。
 ところが伯父は、幸喜を巡業先に残してさっさと帰ってしまった。お相撲さんの礼儀正しさにすっかり惚れ込んでしまった伯父は、幸喜を預けることにしたという。母と大喧嘩になったが、母も「腹一杯食えるなら」とあきらめがついた。
 こうして「何となく」相撲界に入った幸喜は、稽古場を見て驚いた。百三十、四十キロを越える巨漢がぶつかり合っている。当時の彼は70キロに満たないやせっぽち。「えらいところに来たなあ」と悔いたという。しかし同時に、持ち前の秘めた闘志が湧き上がってきた。16歳の門出であった。


特訓

 相撲の伝統的な鍛錬法にシコとテッポウがある。一本の足に全体重を乗せ負荷をかけ、屈伸することによって鍛えるのがシコ。鍛え抜いた力士でも、左右20回もやるとクタクタになる。一方、柱に向かって突っ張り動作を繰り返すのがテッポウ。大鵬は若い頃、シコ5百回、テッポウ2千回を日課にしていた。この鍛錬は恐ろしいくらいに単調で苦しいが、相撲に最適な柔らかい筋肉が付くという。大鵬の稽古は妥協がなかった。
 大鵬の強さのゆえんは他にもある。鬼軍曹と言われて恐れられた滝見山の「しごきの特訓」である。滝見山の胸を目掛けて突っ込んでいく。投げ飛ばされてはまた突っ込む。その繰り返しで、滝見山の胸は赤く腫れ上がり、足の裏も擦り切れてくる。痛くないはずがない。それでも、大鵬を強くするため、胸を貸してくれたのが滝見山であった。
 後に大鵬のほうが強くなり、滝見山が負け越してしまったある日、肩を落として大鵬に言った。「体力がすっかり衰えた。もう相撲を辞めようと思う」。大鵬は驚いて言った。「滝見山関、私が横綱になって恩返しをするまでどうか辞めないで下さい」。そう言うやいなや何か熱いものがこみ上げてきて、滝見山の前で子供のように泣いたという。滝見山は、大鵬が横綱になった1961年の九州場所まで土俵を勤め、男の約束を守った。
 二所ノ関親方は大鵬をマンツーマンで育てようとしていた。時間があれば大鵬を呼び、土俵講話と言うべきレクチャーをした。また、悪習に染まらないよう目を光らせていた。ある日、大鵬が兄弟子たちに誘われて、麻雀の仲間に入ったことがある。その事実を突き止めた親方は、大鵬を誘った兄弟子たちに鉄拳を浴びせたという。人気が上がっても、テレビ等の出演を最小限に制限した。当然、マスコミは非難したが、親方は毅然として言った。「大鵬は今が大切なとき。スター扱いされ、彼の本質的なものに悪影響があってはならない」。まさに親方の指導のもとで不世出の才能が開花したのである。


ピンチを跳ね返す力

 親方は大鵬のことを次のように語る。「大鵬は逆境に強い。ピンチを跳ね返す底力をもっている」。確かに史上最多の32回優勝も順風満帆だったわけではない。幾度も挫折を経験し、そのたびに懸命の努力により不死鳥のごとく甦って、つかみ取った栄光であった。
 1964年は13度目の優勝を果たし、人気も実力も絶頂の時期だった。欧州招待旅行に出かけた後の名古屋場所、2日目から3連敗という成績で、5日目から休場。体が思うように動かない。初土俵以来、初めての休場となった。最低血圧が124もあり、「本態性高血圧」と診断された。大鵬にとって、病との戦いの始まりとなる。慢心を正すため、禅寺で5日間ほど坐禅を組み、心身共に復調し始めた頃、巡業先で左膝を強くひねり、「全治1週間」の診断。翌日の新聞では、「秋場所休場は決定的、もはや再起不可能か」と報道。これを見た大鵬は、これまでにない異常なほどの闘志を燃え上がらせた。お灸をはじめ、体に良いと思われるあらゆることを実行し、秋場所出場に備えた。結果は、秋場所とそれに続く九州場所の連続優勝。完全復活を果し、再起不能説を完全に払拭した。
 その3年後、26回目の優勝を全勝優勝で飾った翌場所(九州)、ヒジを骨折してしまう。この時、大鵬はまだ27歳、再起をかけた療養生活が始まったのである。退院後、基礎体力を取り戻すため、砂浜で走るトレーニングを開始。それに付き合ってくれたのが、芳子夫人であった。夫人が先に走り、それを大鵬が追いかける。次第に距離を伸ばしていき、やがて全力疾走できるまでになった。
 こうして8ヶ月のブランクの後に迎えたのが、1968年秋場所。引退を噂する声が高まる中での出場であった。しかし、結果は予想に反し14勝1敗、27回目の優勝となった。この日ばかりは、涙が溢れ出るのを止めることができなかったと大鵬は述べている。
 引退後、36歳の若さで脳梗塞で倒れた大鵬は左半身不随となった。入院生活は1ヶ月半に及んだ。退院後の2年間は、持ち前の闘志で激しいリハビリ生活を続けた。施設では、誰が見ていようと気にせず、必死に四つん這いになって懸命に前に進もうとする。弟子たちは、それを隠そうとするが、「邪魔だ。自分の体のことだから、周りにどう思われようが関係ない」と言って取り合わなかった。元大横綱のプライドを捨ててリハビリに真剣に打ち込む大鵬や、それを助ける夫人の姿は、周りの人々の感涙を誘った。
 2013年1月19日、慶応病院に入院していた大鵬の容態が急変した。意識のない大鵬を抱きかかえながら、夫人は必死に叫んだ。「お父さん、何やってるの。いつまでも寝てるの?」「横綱として頑張ってきたんでしょ。まだ横綱でしょ!」。夫人がふと大鵬の顔を見ると、その目から涙が流れていたという。大鵬は、常日頃「相撲は自分との戦いだ」と言っていた。その戦いを終え、大鵬は夫人の腕の中で静かに息を引き取った。享年72歳。


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