竹山 道雄
(たけやま みちお)
鎮魂の書『ビルマの竪琴』
戦う自由主義者 「現代のソクラテス」
戦前、ナチズムと軍国主義を嫌悪した竹山道雄は、戦後の左翼的風潮をも嫌悪した。その両者に同質性を嗅ぎ取ったからである。それは自由主義者竹山が最も嫌悪した専制と狂信の臭いであった。それと戦うために東大教授の約束された職を投げ捨て、文筆業に専念する道を選ぶのである。
自由主義者
竹山道雄は一高(現在の東大教養部)のドイツ語教師であったが、それ以上に『ビルマの竪琴』の著者として知られている。この作品は、戦争で多くの教え子を失った竹山が鎮魂を願って書かれたものであり、国民各層に深い共感を呼び起こしたのである。
さらに特筆すべきは、戦前、戦中、戦後に一貫して自由主義者としての自分の立ち位置を守り通したことである。まさに自由主義論壇の雄として活躍した。戦後、左翼的進歩主義がはびこる中、その時流に反して戦う姿をある評論家は「豪傑」と称するほどであった。
竹山道雄が生まれたのは、1903年7月17日の大阪。第一銀行に勤務する父純平と母逸の間の二男であった。道雄は詩的感受性に富み、芸術家肌の青年に育っていった。
1920年に一高文科に入学したことは父を大いに失望させた。官吏か実業志向を当然とする竹山家の家風にあって、文科に入ることは全く異例のことだった。父は「息子を一人失った」と嘆いた。しかし、この一高での生活が、後の自由主義者竹山道雄を育てたことは間違いない。一高は戦時下にあっても、自由主義の牙城と言われた学校であった。
豊富な海外経験
竹山は実に豊富な海外体験を持っている。東大文学部独文科に入学後、ドイツ語学習のためにドイツ人の家に寄寓し、そこから大学に通っていた。日本にいながらにして、ドイツ留学をしているようなものだった。東大卒業後は、1927年から3年ほどドイツに留学した。ナチスが台頭し始めた時期のドイツの雰囲気を肌身で感じていたのである。
帰国後、在日のドイツ人神父にドイツの印象を聞かれたとき、「精力的だが浅薄だ」と答えた。外国の文化研究者は、ややもすると盲目的崇拝者に陥りやすい中で、竹山はナチズムを胚胎するドイツを実に醒めた目で眺めていたのである。
戦後も外貨持ち出し制限が厳しい中、竹山は1955年以降ほぼ毎年のように海外に長く出かけた。当時の日本人としては貴重な体験であった。それゆえ巨視的な視野をもって世界の動向を見つめることができた稀有な知識人だったと言えるだろう。戦前の反軍部、反ナチス、戦後の反スターリン、反全体主義をぶれずに貫くことができたのは、こうした豊富な海外体験の故であることは間違いない。
一高教授として
1930年、ドイツ留学から帰国後、竹山は一高の教授に就任。一高生の間で竹山の名声は非常に高かった。とにかく授業が魅力的だった。文学論はもとより、文明論、哲学、歴史など幅広い教養に満ちあふれ、見識がずば抜けて優れていたのである。
竹山は一高、及び一高生をこよなく愛していた。選ばれた最優秀の10代後半の青年たちと最も親しく付き合った教授と言われている。一高の思い出を終生大切にし、最晩年に至るまで、一高のクラス会には喜んで出席したという。戦時中は、一高の寮の幹事となり、一高生と寝食を共にした。夜更けまで、寮で学生たちと一緒にゲーテを読んだことは忘れられない思い出となった。そんな竹山に感謝して、寮生だった今道友信(後の東大教授)は、父の吸わないタバコを匿名で、竹山のメールボックスに「祝クリスマス」と書いて入れた。竹山はタバコを取り出し、「戦争で物がない時期に、こういうことをしてくれる人がいる。一高はいいところだね」と言って、目に涙を浮かべて喜んだという。
そんな竹山が、教え子の出征を見送らざるを得ないことは、心をかきむしられるほど辛いことだった。常日頃、竹山はドイツが勝てば思考の自由が奪われると警鐘を鳴らしていた。ナチスの正体を知り抜いていたのである。大義と思えないこの戦争に、前途有為な青年を送り出す竹山の胸中はいかばかりであったことか。出征する生徒を校庭で見送るたびに『都の空』(一高寮歌の一つ)が合唱された。竹山の胸の奥底には、悲しく、そして心を揺るがすリズムとして記憶されたのである。
『ビルマの竪琴』
敗戦後、竹山はおびただしい数の帰還兵を駅頭で見た。山のような重い荷物を背負って、元気に列車を降りてくる者、憔悴しきった者、中には担架で運ばれる者、みな苦しい戦いを生き抜いて帰還した者たちであった。彼らの姿を見るにつけ、竹山に一つの思いが湧き上がってきた。義務を尽くして戦ってきた彼らのために、何か書き残さなければならない。できるだけ実も花もある姿として描いてあげたい。
こうして竹山は、『ビルマの竪琴』の執筆に取りかかるのである。書き終えた竹山は、自己の天職を自覚した。同時に、有為な若者を死に追いやった専制や狂信に対する戦いの覚悟を固めていく。それは筆を取る者としての使命感でもあった。
竹山はこの作品で、次のような情景を描いている。舞台はビルマ奥地の山深い村。イギリス兵に追われた日本兵一隊は、久しぶりに村人の歓迎を受け食事にありついた。そのお礼に次々と歌を披露した。この部隊の隊長は音楽学校出身で、兵士に合唱を教え、苦しいときに歌を歌いながら、耐え忍んできた部隊であった。ふと気付くと、村人は一人もいない。イギリス兵にすっかり包囲されていたのである。
隊長は「歌い続けろ」と小声で命令した。戦闘態勢が整うまでは敵に気付かないふりをしなければならない。弾薬の準備が整ったとき、兵士は、『埴生の宿』を歌っていた。兵士が銃を構えたその時である。森の中から、歌声が鳴り響いてきた。よく見ると、イギリス兵が歌いながら、広場に走り出てくるではないか。彼らは一塊になって、『ホーム・スイート・ホーム(埴生の宿)』を歌っているのである。
イギリス人は、この歌を聞くと、故郷のこと、父母のことを思い出さずにはいられない。敵である日本兵の口から、思いもかけず、懐かしい祖国の歌を聞き、異様な感動を覚えたのである。イギリス兵が歌いながら広場に走り出る。日本兵もまた、歌いながら広場に出る。こうなるともう敵も味方もない。彼らはみな一緒になって合唱した。この夜、日本兵たちは3日前に停戦になっていたことを知り、武器を捨てた。恐怖と憎悪のただ中にあって、人間として通じ合えるものがあることを竹山は描き出そうとしたのであろう。
水島上等兵に託した思い
竹山は反軍国主義者である。しかし、戦後の「戦った人は誰も彼も一律に悪人である」かのようなマスコミの風潮には批判的であった。義務を果たして命を落とした人たちの鎮魂を願うことは、戦争自体の原因の解明と責任追及とは、全く別次元の話しなのである。
竹山は『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵に彼自身の鎮魂の思いを託している。水島は、終戦後も三角山で徹底抗戦する別の部隊に停戦勧告のため派遣される。しかし、彼はそのまま行方不明になってしまった。説得に失敗し元の部隊に戻る途次、彼が見たものは、日本兵の腐乱した屍の山。さらに、ある病院の裏手で埋葬が厳かに行われている場に出くわすことになる。埋葬が終わり、イギリス人看護婦たちは賛美歌を合唱し、歌い終えると胸に十字を切り、首を垂れて黙祷した後、静かにそこを離れていった。
水島が近づいて見ると、きれいな花輪が供えてあり、石には「日本兵無名戦士の墓」と彫られているではないか。衝撃を受けた水島は、その場に茫然と立ちつくしてしまった。異国人が敵である日本兵の屍を葬り、祈ってくれている。彼は自分自身を恥じた。道すがら、日本兵の屍をそのままにしてきた自分を。そして、この国に残る決心をする。仏に仕える僧となって、ビルマの山野に晒された日本兵の屍を弔うためである。竹山は水島にこう語らせている。「ここに、どうしてもしなければならないことが起こりました。これを果たさないで去ることは、もうできなくなりました」と。
戦後の日本人は、みな日々の生活に追われ、物質至上主義がはびこっていた。そんな時期に、竹山は日本人に忘れてはならない大切な何かに気付かせようとしたのではないだろうか。日本人が本来、大切にしてきた鎮魂を願う気持ちに他ならない。同時に、異国で死んだ教え子に対する竹山自身の鎮魂の思いでもあったろう。だからこそ、この小説は、多くの人々の心を打ったのである。
竹山は『ビルマの竪琴』を世に問うた3年後、一高が新制東大に移行する際に、教職を去った。文筆に専念するためである。竹山が抱き続けてきた疑問、「あの戦争は何だったのか」。この疑問に答えを出すべき戦いが、本格的に始まったのである。
竹山は、『精神のあとをたずねて』『昭和の精神史』『妄想とその犠牲』などを次々と発表した。その中で彼は戦前の軍国主義者やナチズムと、戦後の左派インテリの同質性を指摘したため、左派陣営からしばしば「危険な思想家」とレッテルを貼られた。しかし、左翼が支配的だった論壇に媚を売るような「安全な思想家」に甘んずることは、彼の良心が許さなかった。戦前の専制や狂信のゆえに犠牲になって死んだ教え子たちの鎮魂のためにも、彼は戦わなければならなかったのである。
論敵の主張を逐一検討し、その論拠となる矛盾点を明らかにする態度は「現代のソクラテス」とまで言われた。1984年6月15日に、80歳で息を引き取るまで、竹山の戦いは続いた。時流を恐れるな、時流を見つめよ、しかし時流に惑わされるな。このことを我々に教えてくれた竹山道雄の人生だった。
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