留岡幸助
(とめおかこうすけ)
感化事業に捧げた生涯
家庭学校を創設 キリスト教と二宮尊徳
凶悪犯の大半は、少年期に非行の経歴があることを知った留岡幸助は、非行少年のための感化院を作ろうと考えた。そのため万難を排して、この分野の先進国アメリカに留学。そして、これまで誰も試みたことのない感化院、つまり家庭学校を日本に作ろうと決意して帰国するのである。
北海道家庭学校
北海道の東にある人口2万人ほどの町、遠軽町に「北海道家庭学校」と称する児童自立支援施設がある。いわゆる感化院である。これを創設した留岡幸助は、「不良少年は憎むべき者ではなく、親の愛情を受けられなかった憐れむべき者」という考えを持っていた。親に代わる教師たちの愛情と北海道の大自然に育まれて、非行少年の多くが素直な心に立ち返り、生きる喜びを取り戻していった。そしてここから社会に巣立っていったのである。
留岡幸助は1864年4月9日、備中松山藩の城下(現在の岡山県高梁市)で、吉田万吉・トメの間に生まれた。子だくさんであった吉田家に生まれた幸助は、子どものいない米屋留岡金助・勝子の元に養子としてもらわれた。
小学校に通う幸助にとって、生涯忘れることができない出来事が起こった。学校からの帰り道、町人(商人と職人階級)の子であった幸助は、士族(元武士階級)の子との口論から喧嘩になってしまった。相手は木刀を振り上げ襲いかかってきた。たとえ自分に非がなくても、歯を食いしばって耐えるしかないのが、町人階級である。木刀で殴られる痛みに耐えていたが、ついに堪忍袋の緒が切れ、とっさに相手のふところに飛び込み、その左手に噛みついてしまったのである。予想外の抵抗にその少年は、泣きながら逃げていった。
翌日、父の金助は武家屋敷から呼び出しを受けた。「町人のくせに、武士の子に手を出すとは何事か」。噛まれた少年の親は、金助に怒声を浴びせた。幸助から何も聞いていなかった金助は仰天し、平謝りに謝ったが、結局「出入り禁止」を申しつけられてしまった。その武家屋敷は米屋のお得意先であったのである。
青ざめた顔をして帰宅した父は、幸助を呼び出した。「武士に歯向かうのは、商人のすることではない。根性をたたき直してやる」。そう言うやいなや、父は幸助を殴り倒した。しかし、幸助はどうしても父の仕打ちが納得できなかった。悪いのは士族の理由なき暴力ではないか。正当防衛で噛みついた自分が不良扱いを受け、士族の暴力は不問となる。あまりにも不公平であり、理不尽ではないか。
監獄の教誨師に
16歳になったある日、高梁の町に「西洋の軍談」をするという一行が乗り込んできた。好奇心が強く講談好きな幸助は、友人に誘われるまま参加した。話を聞いて驚いた。話の中身は軍談ではなく、キリスト教の説教だったからだ。しかし、話の中の一言に彼の心は激しく揺さぶられた。「宇宙には神という唯一神がある。士族の魂も、町人の魂も、神の前に出るときには、同じ価値を持っている」。小学生の時以来、理不尽な身分の差に思い悩んできた幸助であった。人は皆平等だという教えは幸助の心を虜にした。
しかし、父の金助は大のキリスト教嫌い。洗礼を受けた幸助に離教を迫るが、幸助の心は頑なだった。怒った金助は、「親がこれほど心配しているのにわからぬのか」と言って、幸助の体を鞭で打ち、ついには座敷牢に閉じ込めてしまった。
隙を見て脱走した幸助が最終的に向かった先は、京都の同志社英学校。勉学意欲に溢れていたからである。新島襄校長の薫陶のもと、同志社には平民思想と自治自立の気風が溢れていた。同志社に学びながら、幸助は社会の暗黒面に目を向けるようになっていく。「人間社会には二大暗黒がある。一つは遊郭、一つは監獄である」と述べ、そこに光を照らすべきだと主張した。特に監獄改良こそが自らの天職と自覚するようになっていくのである。
同志社卒業後、丹波第一教会に赴任していた幸助のもとに、北海道の空知にある監獄に教誨師(受刑者の心をケアする人)として行ってみないかという依頼が届いた。監獄の仕事は願ってもないことではあった。しかし行き先は北海道、寒冷の地である。2年前に夏子と結婚し、長男が生まれたばかりの頃。その上、彼は胃腸を病んでいた。夏子は答えた。「それがあなたの使命であるならば、私はついて行きます」。彼の気持ちは固まった。親類、友人は一様に「どうして悪人の面倒を見なければならないのか」と言って反対した。反対されればされるほど、幸助の志は確かなものとなっていったのである。1891年4月30日、生後6ヶ月の長男をかかえ、留岡夫妻は北海道へと出発した。
アメリカに学ぶ
この監獄には全国から凶悪な犯罪者が集められていた。300人ほどいた囚人たちの生育歴を調べてみると、8割ほどが、14、5歳の頃に非行少年であったことが判明した。犯罪者の更生を本気で考えるならば、少年の時期に手をさしのべる必要がある。彼の出した結論は、少年感化の取り組みであった。そのためにアメリカで実状を学んでみたい。
一旦こうと思い詰めたら、がむしゃらに突き進むのが、彼の性格だった。彼は家財道具を売り払い、同僚や宣教師から寄付をかき集め、妻子を故郷に預け、1894年5月、アメリカに向かって日本を飛び出した。30歳の留学である。
最初に訪れたのはコンコルド感化監獄。ここで1年間過ごし、アメリカの感化監獄は一種の技能養成学校であることを知った。続いて訪れたのは、ニューヨーク州にあるエルマイラ感化監獄。ここの典獄(監獄の長)ブロックウェーに会い、彼から学ぶことが渡米の最大目的だった。ブロックウェーは、監獄事業一筋に人生を捧げた人物で、幸助は彼の思想と生き方に深い共感を抱いていたのである。ブロックウェーは言った。「私の座右の銘は、『我この一事をつとむ』である」と。そして、「私はただ一つのことをやっているだけなのです」と付け加えた。この言葉に幸助の心は奮い立った。人から何と言われようと自分の信ずる道を貫こうと思ったのである。以来、彼は自分の座右の銘を「一路白頭に到る(白髪になるまで一途の道)」とした。日本に感化院を作る決意が固まった。
家庭学校設立
人は刑罰によって善良になるのではない。君子になるか、盗賊になるかを決めるのは、家庭における陶冶による。これは幸助の生涯に実に一貫して貫かれた考えであった。だから、感化院という名称を嫌い、家庭学校という呼び名にこだわった。教師と生徒の関係を庭師と植物の関係にたとえ、庭師はそれぞれの植物の性質をよく知らなければ、育てられないと言った。まさに学校にして家庭、家庭にして学校を目指したのである。これまで誰も試みたことのない事業であった。
幸助に向けられた世間の目は冷たかった。親のいない孤児といえば、世間の同情も受けやすいが、非行少年となるとそうはいかない。しかし、逆風の中でこそ、留岡幸助はその本領を発揮する。金策にかけずり回った結果、ついに1899年11月、東京の巣鴨に家庭学校を設立してしまった。生徒たった一人からの出発だった。
その半年後のこと、幸助は人生最大のピンチに襲われた。最大の理解者であり、パートナーであった最愛の妻夏子を失うのである。病弱だった彼女は5男を生んだ後、回復不能の病に倒れ、息を引き取ってしまった。幸助は苦しんだ。献身的で忍耐心のある妻には、苦労のかけ通しだった。自分の夢のために妻の命を犠牲にしたのではないか。そんな思いがわき起こってくるのである。しかし彼は思い直して言う。「家庭学校は僕の戦場である。どんな困難があっても、この事業を進めることが、妻の記念碑となる」。彼は迷いを振り切り、ますます決意を固めていった。それは妻の供養のためでもあったのだ。
北海道へ
巣鴨における実践は15年。彼は自分のやり方に強い確信を持つに到った。卒業生の大半は社会復帰に成功し、ある者は大学に進み、教師になった者までいる。改善率7割という数字は当時にあっては画期的だった。しかし彼の夢にはまだ先があった。彼は北海道に家庭学校を作る夢を持っていたのである。若い頃、北海道で暮らした経験から、厳しい大自然こそが人間を育ててくれると信じていた。彼は内務省に掛け合って、北海道の原野の払い下げを要望した。そして1914年8月、念願叶ってついに開場式を行うに到り、50歳の新たな挑戦が始まるのである。
家庭学校の教育は三つの柱から成り立っている。一つは家庭的教育。非行少年は親の愛情に飢えている。教師は彼らの親代わりに他ならない。二つ目が大自然の中での教育。幸助は言う。自然は人間を差別しない。非行少年でも正直に労働さえすれば、葱や芋はよく育つ。葱や芋は、彼らを非行少年と見なしていないのだ。生徒をおとなしくさせる最も効果的な言葉は、「悪いことをすると東京へ帰すぞ」であったという。どんなに乱暴な子でもこの言葉でしゅんとなった。彼らは北海道の大自然にすっかりなじんでいたのである。「教育は自然と人間との協同作業である」。これは幸助の持論であった。
三つ目が宗教的教育。幸助は熱心なキリスト教徒である。しかしキリスト教を押しつけることはしなかった。むしろ日本土着の思想家、農政家である二宮尊徳に深く傾倒した。尊徳の報徳思想は経済と道徳の一致を目指している。自分の利益だけを求めるのではなく、この世の全てに感謝し、これに報いる行動を取れば、社会のためにも、自分のためにもなると説く。この尊徳の思想とキリスト教は深いところでつながっている。これは彼の確信であった。キリスト教精神を尊徳の思想で表現し実践しようとしたのである。
北海道家庭学校も、今ではすっかり地域になじんでいるが、当初は「不良少年の施設なんかが作られれば、安心して寝られない。とっとと帰れ」と言われ、数多くの妨害があった。しかし、逆境に強いのが幸助の持ち味である。雨漏りのするおんぼろ小屋で起居を共にしながら、教師たちが先頭に立って、原野に道路を作り、農地を開墾した。その姿を見て、地元からの協力者が増えていったのである。今ではこの学校は町の誇りとなっている。
当時誰も顧みなかった感化事業を生涯貫いた留岡幸助は、1934年2月5日、ついに息を引き取った。友人の徳富蘇峰は友の死に際し、「君ありて、キリスト教は社会化され、日本化された。無私にして勤勉、努力の人、日本の忠僕であった」と追悼の辞を寄せ、その功績を称えた。もう一人の友人山室軍平は、「社会のどん底に悩む人々の友となって尽くしたゆえに、寿命を縮めたであろう。絶えざる犠牲の生涯だった」と言って、友の死に涙を流した。北海道家庭学校は、約百年の風雪に耐え、今なおその輝きを失っていない。
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