坪内 寿夫
(つぼうち ひさお)
会社を蘇らせた再建王
受刑者の更生事業に尽力 危機に際し全財産を投げ出す
実業家坪内寿夫の目線は、常に社会の底辺にいる人々に向けられていた。銀行から持ち込まれる再建依頼をことごとく引き受けたのは、従業員を路頭に迷わせたくなかったからである。普段から、「金も名誉もいらない」と言っていた彼が、最後まで支援を惜しまなかったのが、受刑者の更生事業であった。
目線は社会の底辺に
坪内寿夫は再建王と言われた実業家。グループ企業は180社に及び、年間売上高は8千億円に達していた。グループ企業が膨れあがったのは、誰もが匙を投げた会社をことごとく引き受け、蘇らせた結果であった。しかし、坪内の本当の偉大さは、有り余るほどの金を持ちながらも、その目線は常に社会の底辺に向けられていたことである。
個人の自家用車を持たず、生涯の大半を借家で過ごし、慎ましい生活に徹していた。四国の本社では応接室以外にはクーラーがなかった。労働者が汗にまみれて生活しているからという理由で。さらに社長室も作らせなかった。そして、彼の経営者としての真価は、来島どっくグループの経営危機の際にこそ発揮された。彼は社員を救うため、「わしは裸になってもいい」と言って、個人資産の一切を投げ出してしまったのである。
坪内寿夫は1914年9月4日、愛媛県伊予郡松前町に生まれた。父の百松と母のキクノは、芝居小屋を営んでいた。坪内は芝居小屋で演じられる芝居や人形浄瑠璃の世界にどっぷりと浸かって育った。そこで演じられる勧善懲悪の世界にほろほろと涙を流したという。
坪内は、弓削町(現在の上島町)にある商船学校に入学した。卒業後は、満州(中国の東北地域)に渡り、南満州鉄道の社員として、松花江、黒竜江を走る川船の船長をするようになった。20歳になったばかりの頃である。日本の敗戦後、ソ連軍によって連行された坪内は、3年間シベリアに抑留された。毎日誰かが、飢えや病で死んでいく。地獄を見たのである。後に「生きて帰れたのが不思議なくらいだった」と言い、「戦後の人生はおまけのようなもの。私利私欲に生きたら、死んだ仲間に申し訳ない」と周囲に語っていた。シベリアからの帰国は、まさに死からの生還であり、第二の人生の始まりだった。
「映画王」から造船業へ
シベリアから帰った坪内の前に、両親は240万円を差し出し、「お前のために貯めた金だ。これで事業をしろ」と言った。当時としてはかなりの大金だ。彼はこの金を持って、松山に出て、映画館経営を始めることにした。1948年、34歳の再出発である。
これが当たりに当たった。他に先駆けて、2本立て興行に成功した坪内は、四国全土に24もの映画館を持つまでになった。映画王と呼ばれ、現金の動員力では愛媛随一という評判が立つほどだった。しかし、坪内は決して天狗にはならなかった。どんなに忙しくても、映画が終わり観客がいなくなると、ちり取りと箒を手にして、妻と一緒に館内の清掃をしたという。後に造船
業に進出しても、恒例行事のように続けられたのである。
そんな坪内のもとに、波止浜の今井五郎町長が訪ねてきた。町の唯一の産業である来島船渠が戦後倒産し、閉鎖されたままになっていた。この造船会社の再建を坪内にお願いしたいと言うのである。当初、坪内は乗り気ではなかった。しかし、今井町長は週に一度は顔を出し、拝み倒そうとする。もともと人情家の坪内である。頼まれれば嫌とは言えない。しかし、この再建に失敗すれば何もかも失ってしまうかもしれない。彼は、妻のスミコに言った。「乞食になってもいいか」。スミコの答えは「あなたがお決めになったことに異存はありません」。どうせシベリアで一度は捨てた命である。恐れるものは何もなかった。
「来島の大将」
1953年4月、坪内は来島船渠(後の来島どっく)の社長に就任した。最初の仕事は工場内の雑草抜きと機械のさび落とし。それからドックにたまった土砂を取り除き、ようやく工場は蘇ったが、一向に注文が来ない。他の造船会社に頭を下げ、下請けを願い出たが、どこもにべもない対応。悩んだ末、坪内が辿り着いた結論は、「海を走るトラック」を作ることだった。天然の海の道路である瀬戸内海にトラックのような船を走らせる。安くて、丈夫で、スピードもあり、その上たくさん積める貨物船を作るのだ。
ターゲットは一杯船主。1隻の木造の機帆船の所有者で、もともと農業や漁業だけでは食べていけないため、兼業で始めた零細な海運業者のことである。重化学工業の時代を迎え、彼らの小型船では石油や鉄鋼などの新たな需要には全く対応できず、鋼船への転換が迫られていた。これら零細な一杯船主に「海のトラック」を販売しようと言うのである。
坪内が考え出した販売戦略は、これまでの常識をひっくり返すものだった。造船界ではこれまで受注生産が原則であったが、坪内は同じ規格の貨物船をたくさん生産することで、コストを抑え、その上、月賦払いにするという。船価の頭金1割は古い機帆船を売って用意する。4割は銀行からの借金、坪内個人が保証人になる。残り5割は、来島船渠が船主に貸し付け、月賦で返してもらう。まるで博打に打って出るような話なのだ。
これに一杯船主たちが食いつかないはずがなかった。彼らは喉から手が出るほど鋼船を欲しがっていたのである。1956年にはわずか1隻だった売上げが、58年には9隻に増え、その後一気に躍進を果たしていく。来島船渠再建を支えていたのは、零細の一杯船主を近代的な船主に育てたいという坪内の熱い思いであった。海で暮らす大衆の心を掴んだ坪内は、船主たちから「来島の大将」と呼ばれるようになるのである。
「経営の神様」
その後、坪内は奥道後の温泉開発、高知重工業の吸収合併などを引き受け、来島どっくは、1970年頃には傘下企業が百社を超す一大企業グループに成長した。銀行から再建依頼をことごとく引き受け、成功させた結果であった。しかし、佐世保重工業の再建依頼が飛び込んできた時には、さすがの坪内も躊躇した。これまでのようなローカル企業の再建とは次元が違う。従業員6千名を抱え、旧海軍の海軍工廠を母体としているがゆえに、プライドも高い。それに労愛会という労働組合が経営に強い発言権を持っているという。
経済界の重鎮であった白洲次郎が持ち込んだ話である。永野重雄(日本商工会議所会頭)が説得に乗り出し、福田赳夫首相までが激励し、坪内は後に引けなくなった。しかし、彼の決断を支えたのは、「佐世保重工が倒産すれば、従業員ばかりでなく、会社に寄り添って生きてきた佐世保市民が路頭に迷うことになる。それは何としても避けたい」という気持ちだった。側近が懸念を示す中、坪内は反対意見を制し、再建に乗り出す決断をした。
佐世保重工再建は、合理化案を拒否する労愛会(労働組合)との戦いとなった。労愛会側はマスコミを味方に付け、坪内を「乗っ取り屋」と喧伝し、対立は泥沼化した。「独裁者坪内を断固打ち倒せ!」「生き血を貪る吸血鬼、地獄に堕ちろ!」。こうしたアジビラが工場のあちこちに貼り付けられた。家の玄関先には藁人形が打ち付けられ、その釘には「奥さんも無事とは思うなよ」と脅迫文が巻き付けられる始末であった。
佐世保重工救済のため、坪内は会社の金を83億つぎ込み、私財10億円を生活の苦しい従業員のため低利で貸し付けていた。約1年半に及んだ泥沼の労使交渉は、坪内が合理化案を撤回する決断をしたことで終結。1981年、佐世保重工の経常損益は4年ぶりに黒字に転じ、翌年には169億円という過去最高の利益を記録し、その年度に債務を全て完済してしまった。血を流す戦いではあったが、結果的に坪内は佐世保重工の再建に成功し、「経営の神様」とまでもてはやされた。一躍「時の人」になったのである。
責任の取り方
1985年秋、日本は円高不況に見舞われた。これにより、日本の海運業、造船業はどこも経営危機に直面した。来島どっくも例外ではなく、グループ全体の債務は6千億円を超えた。さらに、これまで資金繰りに窮した一杯船主を救うため、坪内は手形の裏書き保証を続けていた。「弱い者こそ、真っ先に救わなければならない」という信念からだ。しかし、これが裏目に出てしまった。
再建には銀行の支援が不可欠となる。銀行から役員が送られ、坪内はグループ企業全ての代表取締役を退任せざるを得なかった。1986年12月24日、日本橋にある日本銀行本店で来島グループ再建計画が正式に発表された時のこと。日経の記者が質問に立ち、オーナー経営者として坪内の道義的責任を追求した。
日債銀の副頭取は答えた。「坪内氏は来島どっく再建のため、個人資産の全てを投げ出されました。坪内氏は何もかも失ってもよいというお覚悟です。こんな潔い経営者に出会うことはもう二度とあるまいと思っています」。会見場は金縛りにあったように、静まり返ってしまった。坪内の個人資産は、自宅を含め全て日債銀に提供され、次々に売却されていたのである。もし、彼が私財を投げ出さなければ、来島どっくは倒産し、数千人の失業者が出ることは明らかだった。それだけは何としても避けたかったのだ。
坪内がライフワークにしてきた仕事がある。刑務所に服役している囚人の更生保護事業である。来島船渠の工場内に服役中の模範囚を受け入れ、彼らの社会復帰のために、寮まで作った事業である。全財産を失っても、この事業には物心両面の支援を惜しまなかった。坪内は「金もいらん、名誉もいらん、わしがあの世に行く時は、手紙で一杯になっている段ボール箱一つ担いでいくんだ」と言っていた。晩年、受刑者から届いた感謝の手紙を身辺から離さず、折にふれ、側近に読ませていたという。1999年12月28日、大衆のために生きた稀有な実業家・坪内寿夫は85年の波乱に満ちた生涯の幕を下ろした。
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