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吉田 富三 
(よしだ とみぞう)


世界初の人工内臓ガン

「人様のためになる研究」  理想主義に徹した命の研究者

 吉田富三が医学の道を志したのは、母の影響を無視するわけにはいかない。母が彼の進路に願っていたことは、「人を救う人」になることだった。さらに長崎の原爆投下で親友一家を失ったことは、その後の彼の生き方を決定した。親友の死を無駄にしない生き方を自らに課していくのである。




医学の道へ


 吉田富三は、日本のガン研究を独創的思考で切り開いた実験病理学者である。世界で初めて肝臓ガン(動物)の実験的発生に成功した。さらに、吉田肉腫と呼ばれることになる腹水肉腫(液状のガン)を発見し、ガン研究の新しい地平を切り拓いたのである。
 
 吉田富三は1903年2月10日、福島県の南端にある寒村、浅川村(現在の石川郡浅川町)に生まれた。喜一郎となおの3番目の子であり、長男(上の二人は姉)であった。造り酒屋を営んでいた父喜一郎は、「酒屋はどうにでもなる。本当の勉強をする人間になれ」と富三を常に励ました。母なおは信仰心の厚い女性で、誰に対しても優しく平等で献身的に接した。母の口癖は、「何でもいいから、人を救う人になっておくれ」であった。
 
 富三が医学の道を志したのは、父母の影響によるところが大であった。父は、大学卒業までの学費は出してやるが、その先は何になろうとお前の自由だと言っていたが、暗に医者になることを希望しているようだった。医者になれば、母が言う「人を救う人」になれると考え、富三は東京帝国大学医学部に進学した。
 
 東大卒業後、無給の副手として病理学教室に勤務していた富三は、従妹の田子喜美子との結婚を考えていた。その婚約の取り決めのため、父喜一郎が東京に上京してきた時のこと。婚約を取り決めたその日、父は田子家で突然、脳内出血で倒れ、そのまま不帰の人になってしまった。突然の父の死に、富三は大変な衝撃を受けた。心の支えを失っただけではない。下の弟たちはじめ、母の面倒も見なければならない。さらに結婚生活が待ち構えている。早急に収入を得る道を考えなければならなくなったのである。



ガン研究


 富三が佐々木隆興と運命の出会いをするのは、このような時期のことであった。佐々木は、杏雲堂病院の佐々木研究所の所長であり、研究助手一人を東大病理学教室に依頼してきた。手を挙げたのは富三だった。そこがどんなところか何も知らなかった。ただ給料が支払われるという理由で飛び込んだのである。ここで富三は生涯最高の師に巡りあった。
 
 佐々木隆興は、実は大変な学者だった。5年もドイツに留学し、京都帝大の内科教授も努めたことがあり、日本の生化学分野の大家である。名聞を求めず、言葉の純粋な意味での学究であり、常にこう語った。「研究者は生活を単純にして、俗物に堕することなかれ」。その言葉の通りに生きた人物だった。富三は佐々木隆興を全面的に信頼し、研究者としての基礎を全て彼から学んだのである。しかし研究所とは言っても、所長と富三の二人しかいない。研究室も所長の書斎の延長のような部屋が一つあるだけ。雇用規約なども一切なく、最初の給料も佐々木のポケットから無造作に差し出されるような始末だった。
 
 富三に与えられた最初の研究課題は、化学物質(アゾ色素など)を長期間動物に与え続けることにより、臓器に何らかの形態的変化、つまり動物の内臓ガンを確かめることだった。一定期間の投与の後、動物を解剖して臓器を調べる。毎日がこの繰り返し。富三は、辛抱強くこの観察を続けた。実験を続けて4年目、ラットの肝臓に肝臓ガンの発生を見たのである。人工の内臓ガンは世界初の快挙であった。この日、家に帰った富三は、妻に「できた!できたぞ!」と叫んだという。家では、仕事の話はほとんどしない富三である。よほど嬉しかったのだ。
 
 富三はこの結果をすぐにレポートにまとめあげたが、佐々木は目も通さず、机の引き出しにしまい込んでしまった。そしてアゾ色素以外の物質が入り込んだ可能性を指摘し、その追試を命じた。「疑うことが科学である」と改めて富三は学んだのである。
 
 世界で初めての特定の化学物質による人工内臓ガンの発生に関する富三の論文は、大反響を巻き起こした。1932年の東京医学会総会において、富三の発表が終わるやいなや、会場に拍手がわき起こった。通常、学会では拍手など起こらず、静かに進行する。異例のことだった。それほどインパクトが大きかったのだ。富三29歳の快挙であった。
 
 富三が「液体のガン」に関心を持ったのは、長崎医大の教授に赴任してからである。腹水肉腫、つまり液体のガンができれば、ガン研究に一大境地を開くことになるはずである。この時期、日本は戦争に突入した。深刻な食糧不足、実験動物を集めるにも困難を極めた時期である。そんな中、研究は地道に続けられた。富三は研究室の弟子たちに、「ガンの研究は根気だよ。馬鹿にならないとできない」と言い続けた。結果が出たのは1943年の6月。3年の歳月が経っていた。一匹のラットの右睾丸部に腫瘍ができ、腹部がふくれ始めた。開腹してみると、腹腔内に牛乳状に白濁した腹水があった。腹水肉腫であった。
 
 吉田肉腫と命名されたこの腹水肉腫(液体のガン)は、次々とラットに移植を続け、何度も絶滅の危機を乗り越え、その株を残してきた。そのことが日本のガン研究に及ぼした影響は計り知れない。1947年に開かれた戦後初の病理学会での富三の発表は大反響を呼び、吉田肉腫の株の分与を頼みに来るものが後を絶たなかった。翌年の日本癌学会総会で、26の研究発表の内、吉田肉腫に関するものが全体の30%を占めるに至ったという。



預けられた命


 1944年7月、富三は東北帝国大学に転勤した。この移動が富三の運命を大きく変えることになったのである。翌年8月9日、長崎に原爆投下。彼が勤務していた長崎医科大学は、跡形もなく灰燼に帰してしまった。終戦直後、富三は仙台から長崎までの長旅を決行している。どうしても行かなければならない義務感のような気持ちに突き動かされていた。富三の後任として長崎医科大学に赴任した梅田薫のことが気がかりだったのだ。
 
 梅田は東大病理学の同窓で、富三とは親友の間柄だった。富三は梅田に後任を頼んでいたのである。何としても長崎を訪ね、その安否を確認したかった。生存が叶わないなら、せめて骨だけでも自分の手で拾ってやりたい。そんな気持ちで長崎に着いた富三は、茫然自失、立ち尽くしてしまった。校舎のあった辺りは廃墟と化していたのである。知り合いに聞いてみると、原爆は梅田の授業中のことだった。講堂もろとも吹き飛ばされ、遺骨すら跡形もない。わずかに梅田のものとわかるパイプだけが残されていた。
 
 この時のことを富三は次のように語っている。「本当は、私と私の一家がここで死んだはずなのだ。自分のこれからの命は、自分のものと思うことはできない。どなたか超人的な、神か、天か、そういう者からしばらく預けられたのだ」。こう考えることによって、命を奪われた者と生き延びた者との間の、やりきれない不公平さを受け入れようとした。そして、「自分のこれからの研究課題は、人様のためになるという一点を明瞭に正しく打ち出していく」と決意を固めていくのである。



理想主義


 戦後の富三の生き方は、この「預けられた命」をどう生きるかに尽きると言っても過言ではない。東大教授への転任を決断したのも、より役に立つと考えたからであった。恩師佐々木隆興は、東京に出れば審議会などに引っ張り出されて落ち着いて研究ができなくなると言って反対した。しかし、富三は医学教育者として発言し、次に続く若い人たちの養成を考えた場合、研究者の枠に閉じこもっていてはならないと考え、東京に出るべきだと判断したのである。
 
 さらに、武見太郎が牛耳る日本医師会の会長選に立候補して周囲を驚かせたのも、同じ理由からだった。自分が出馬することで、論争が巻き起こり、医師の本来のあるべき姿を考えてもらうことに意義があると言い切った。彼は現行の保険制度のあり方が、医師の品位を著しく損なっていると考えていた。医師はあくまで良医であるべきで、医療による「人間回復」という目標を持てるように、医療制度を改革すべきだという。徹頭徹尾理想主義的なのである。その啓蒙のための立候補で、最初から当選は考えていなかった。
 
 富三は晩年、自らの人生哲学を講演で語っている。「生涯がいよいよ終わるという時、静かに一生を振り返ってみて、その思い出の全てが自分の心に安心を与えるものであるならば、良い一生であったという考え方であります」。その最期の思い出作りのために、70歳で人生の幕を下ろすまで、富三は最善を尽くした。肺繊維症を伴う肺ガンで入院してからも、ベッドの上で、文部省関連の仕事を片づけ、たくさんの見舞客と話し、たくさん読書した。最期の時まで、何事も手を抜くことがなかったという。
 
 富三の墓に並んで「シロネズミの碑」が建っている。富三をはじめ、研究者らによって命を縮められた数限りない動物たちのために建てた供養の碑である。そして富三の言葉が刻まれている。「物言わぬ生類の幻の命も命に変わりあるべしとは思えず、あわれ生ある者の命よと念じてこの碑を建つ」。
 
 富三はその知性において、明らかに西洋の近代学問に軸足を置いていた。「疑うことが科学である」と言い続けていた。しかし、彼の魂の深奥は東洋的土壌にしっかり根を下ろしていたように思われる。東洋は、全ての命のつながりを説く。シロネズミの命も同様である。さらに、彼がその撲滅を願ったガン細胞ですら、「ガンも身の内」と語り、「ガンの治療も最終のところで、ガン細胞との共存なのだ」と語っている。富三は、これらの命を結びつける何ものか、命の総体と呼ぶべき大自然(天、あるいは神)に対する畏敬の念を持ち続けていた。生涯、命の医者であり、命の研究者であった。



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