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愛新覚羅浩 
(あいしんかくらひろ) 

国境を越えた夫婦愛 
満州国崩壊で流転の日々  皇帝の弟との政略結婚  

関東軍の意向で、満州国皇帝の弟に嫁いだ嵯峨浩は、政略結婚とは思えないほど、深い愛情と信頼の絆を夫溥傑との間に築いていた。満州国の崩壊、流転の日々、16年間の夫婦の別離、長女の死など数多くの悲劇に襲われながらも、耐え抜いてこれたのは、夫婦愛のゆえであった。

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国境を越えた夫婦愛

愛新覚羅浩

  1932年、日本の後押しで満州国が建国した。皇帝となったのは、清国の最後の皇帝(ラストエンペラー)であった愛新覚羅溥儀。その弟溥傑に嫁いだ日本女性がいた。愛新覚羅(旧姓嵯峨)浩である。
  愛新覚羅家は中国東北地方(旧満州)に居住していた女真族で、15世紀に英雄ヌルハチが現れ、中国に清国を築いたのである。約3百年続いた清国が辛亥革命(1911年)で滅亡。関東軍(満州に駐屯した日本軍)は満州国の建国に、皇帝の地位を追われた溥儀を利用した。溥儀にとっても悪い話ではなかった。満州国に清朝再興の夢を託したのである。溥傑と浩の結婚を仲介したのはこの関東軍で、いわゆる政略結婚であった。
  二人の運命は、戦争によって翻弄された過酷なものであった。しかし、次々に襲う悲劇は、夫婦の絆を強めこそすれ、決して弱めることはなかった。

溥傑の人柄に惹かれる

  嵯峨浩は、1914年3月16日、実勝・尚子夫妻の長女として誕生。嵯峨家は、祖母の叔母が明治天皇の生母という名門の公家華族(元の公家で明治以降華族に列せられた者)で、宮中との繋がりが深い家柄であった。浩は愛新覚羅溥傑に嫁ぐまで、お姫様のような生活を満喫していた。
  その浩に縁談の話が舞い込んだのは、22歳の時。日満親善を促進するため、満州国皇帝の弟が日本女性と結婚することが望ましいという。関東軍の意向であった。浩にとっても、家族にとっても青天の霹靂である。当時の時代状況では「お国のため」と言われれば、逆らえるものではない。浩は、最も親しい友人のもとでさめざめと泣いたという。
  見合いの場で、溥傑に会った浩は不安が吹き飛んでしまった。「軍服姿の気高い、ちょっと普通じゃお見かけできない立派な方だと思いました」と第一印象を述べている。溥傑の人柄に浩はすっかり惹かれてしまった。
  溥傑は1928年から日本に留学していた。将来満州国の将校候補生として陸軍士官学校への入学を許され、その後日本の陸軍に入隊して訓練を受けていたのである。彼を知る者は一様に、彼を頭の切れる秀才、部下思いの優しい男性、スケールの大きい立派な人間という。申し分のない男性であった。二人の結婚式は、1937年4月3日、東京九段にある軍人会館(現在の九段会館)で行われた。日中戦争が始まる3ヶ月前のことである。
  二人が満州に渡ったのは、結婚の半年後の1937年10月のこと。新京(現在の長春)での生活が始まった。そこでの生活は、浩にとって想像絶するものだった。住居は荒れ野に急ごしらえで建てた平屋の官舎、家の周りには野生動物が徘徊するありさまだった。関東軍の待遇の悪さに何度も泣かされたという。関東軍にとって、傀儡国の皇帝の弟に嫁いできた妃など所詮、虫けらに等しい存在だったのかもしれない。
  何よりも浩を苦しめたのは、関東軍の満州人に対する横暴な振る舞いであった。彼らの武力を背景にした威圧は、時として宮廷にも向けられ、関東軍と宮廷との深刻な対立を生み出した。「日満親善」「五族協和」の理想は、絵に描いた餅にすぎなかったのである。
  しかし、浩は不幸だったわけではない。38年2月に長女が誕生、慧生と名付けた。溥傑は生まれたわが子のそばを離れたがらず、皇帝から苦情の言葉を頂戴する始末であった。生活は何かと不自由ではあったが、子煩悩の夫と娘に囲まれたこの時期を浩は「幸福の絶頂期であった」と言っている。

満州国の崩壊

  日本の敗戦が原爆投下で決定的になった1945年8月9日、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻。それは悲劇の始まりであった。その頃、溥傑は軍籍を離れ、皇帝直々の命令で侍従職となり、兄を助け国家建設のため尽力していた。その夢がもろくも崩れ去ったのである。
  一刻の猶予もない。皇帝一行は特別列車に乗って、新京を脱出。長白山中にある大栗子まで逃げ延びた。国を失った彼らに残された選択は、ただ一つ。日本への亡命である。一行は奉天(現在の瀋陽)飛行場から2陣に分けて、脱出することにした。第一陣は、溥儀と溥傑、それとわずかな側近。第二陣が皇后の婉容、浩など女性、子供らが大半。第二陣は、第一陣の到着の報を受けて出発することになっていた。しかし、事態は最悪の結末を迎えてしまった。溥儀ら一行は、奉天飛行場でソ連軍に捕縛されてしまったのである。溥儀も溥傑も、ソ連に連行され、ハバロフスク収容所で抑留生活を余儀なくされた。
  残されたのは、女子供ばかり。彼らの逃避行が始まった。満州に安全なところはどこにもない。略奪、集団暴行が出始め、日本人への襲撃も報告されていた。満州は危ない。女性はみな髪を切り、顔に泥を塗りつけ、男装しての逃避行が始まった。彼らが落ち着いた地が、朝鮮との国境に近い通化(吉林省)。逃走を開始してすでに5ヶ月、年が明け46年1月になっていた。彼らがここまで辿り着くことができたのは、中共軍の監視下にあったからである。
  通化で彼らにあてがわれた住居は、4階建ての公安局のビルの2階の1室。しかし、そこは決して安心できる場所ではなかった。中共軍と国民軍の内戦があり、日本軍の残存部隊もいる。いつ戦闘が起こっても不思議ではなかった。世に言う「通化事件」に巻き込まれたのは、2月初旬。日本軍の残存部隊が、国民軍と手を組み、中共軍に占領されていた通化を奪回するという暴挙に出た。それに対して、中共軍は日本人虐殺によって応えた。
  残存兵が浩ら一行の救出を図り、公安局に乗り込んできたため、公安局が中共軍の猛攻撃に会ってしまう。機関銃の一斉射撃で窓ガラスは吹っ飛び、落下する砲弾、耳をつんざく轟音、浩は5歳の次女嫮生を抱きしめ、息を殺して祈るばかりであった。浩の目の前で、皇帝の老乳母が砲弾の破片で手首が吹き飛ばされ、痛い痛いと泣きながら絶命。皇后は恐怖のあまり、気がふれてしまった。通化事件の後、一行は中共軍に連れられて、長春に着いたのは4月のことである。
  浩ら一行が、最終的に到達した地が上海。帰国を果たしたのは47年1月、日本軍の上海連絡班の助けがあったからである。この時浩は33歳。

慧生の死

  引き揚げ後、浩がやっかいになったのは、実家の嵯峨家であった。日本の小学校に入るため、日本に残っていた慧生が元気に育っていたことが、浩を何よりも喜ばせた。その2年後、嬉しい知らせが届いた。夫の溥傑からのもので、ハバロフスクの収容所で兄と共に無事であるという。浩は夫の釈放を待ちながら、二人の子育てに専念した。
  1957年12月、とんでもない事件が起こった。学習院大学の学生であった慧生が、心中自殺を遂げてしまったのである。一緒に死んだ相手は、青森出身の同級生。生きる望みを失っていた青年に、心優しい慧生が同情し、行動を共にしたものである。
  浩はすっかり打ちのめされ、自宅の床に伏し、起きあがれなくなった。最も衝撃を受けたのは、当時中国の撫順の収容所にいた父溥傑であった。「何という悲しみであろう!清朝の子として、薄幸であることは宿命なのか?将来の全てを慧生と嫮生に託して、楽しい夢を描きながら、苦しみに耐えてきたのに、何と言うことだろう。誰にも罪はない。もしあるとすれば全ては父である私の罪だ」。溥傑は清朝の血を背負う自らを責め、浩は娘を守ってあげられなかった自らの非力を責めた。

16年ぶりの再会

  1960年12月、ついに溥傑は特赦になり釈放され、北京に帰った。浩は夫のいる中国に渡る準備を始めた。16年に渡る別離の日々が終わろうとしていた。しかし、兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したという。溥傑はきっぱりと言い切った。「私も妻もお互い信じ愛し合っています。娘もいます。たとえ民族や国が違っても、夫婦親子一緒に暮らすのが目的で、今まで私は耐えてきました。一家団欒の楽しみを取り戻すためです」。
  翌年5月、溥傑は広州駅のプラットホームで、香港経由で中国入りする浩と嫮生を待っていた。人混みの中に夫の姿を見つけた浩は、用意していた言葉も出ず、ただ黙って頭を下げるばかりであった。溥傑も黙ってうなずくばかりで、言葉にならない。二人は人目を憚ることなく、肩を寄せ合って泣いた。16年の長かった別離が終わりを告げた。
  浩は大切に抱いてきた慧生の遺骨を差し出し、「申し訳ございません……」と言って泣いた。溥傑は、その両腕に慧生の遺骨をしっかり抱きしめたまま、ホテルに着くまで離そうとはしなかった。部屋に着くと花を飾った机の上に遺骨を置き、「申し訳なかった」と一言漏らした後、その場に泣き崩れてしまった。
  長く苦しい別離を体験したからであろうか、溥傑と浩の二人は、再会以来27年間を二人で支え合い、実に円満な家庭を築いたのである。浩が健康を害し始めたのは、1978年日中平和友好条約が結ばれる時期のこと。病名は慢性腎不全、人工透析が必要であった。病状は徐々に悪化し、病床に伏す日が多くなっていた。妻を看病しながら、「もし浩が死ねば、私も生きてはおれない」と溥傑の呟きを周りは聞いている。
  ついに別離の時が来た。1987年6月20日、夫に見守られながら、浩は静かに息を引き取った。享年73歳。溥傑は浩の遺体の枕辺に立って、ぽろぽろと頬を流れる涙をぬぐおうともせず、葬儀の参列者に丁寧に挨拶をしていた。その落胆ぶりは、妻の後を追うのではないかと心配されたほどである。
  娘の嫮生は、浩の亡骸に取りすがって、「浩さん、浩さん」と慟哭する父の姿を見た。「母は、こんなにも父に愛され惜しまれながら亡くなったのだから、幸せだったとつくづく思います」。清王朝の末裔に嫁ぎ、数々の苦難を乗り越えた浩の生涯は、日中友好の礎となったばかりではなく、夫婦愛のシンボルとして、我々に記憶されている。



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