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土光敏夫


土光敏夫 
(どこうとしお) 

希代の改革請負人 
質素倹約、清廉潔白  母が創設した学校に寄付

世界も、日本も未曾有の危機に瀕している。しかし、危機自体が危機なのではなく、危機に際して、リーダーがいないことが、本当の危機なのである。そういう意味では、現在の日本は本当の危機なのかもしれない。土光敏夫のようなリーダーの登場が、今こそ願われている。

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土光敏夫

強いリーダーシップ

  土光敏夫は、石川島播磨重工業(IHI)、東芝という日本を代表する大会社の社長を歴任。その後、経団連(日本経済団体連合会)の会長に就任し、経済界のトップとして、日本経済を牽引。さらには、臨調(臨時行政調査会)の会長に就任し、国家の行政改革に取り組んだ。彼の生涯を一言で言えば、「改革請負人」という言葉が相応しい。危機の時に登場し、改革を期待された。それには理由があった。まずは、信念と行動の人であったからだ。それと清廉潔白な人柄、質素な生活ぶりのゆえであった。
  月の生活費は、多くて10万。背広は着古しのヨレヨレ、革靴の底を何度も張り替えて使っていた。冬でも暖房を使ったことがなく、外食で食べきれないときは、必ず残りを持ち帰った。その生活ぶりを側近の一人は、「修道僧のように見えた」と言っている。
  経済界のトップに似つかわしくない、そういう質素倹約の生活ぶりであったからこそ、危機に際して、強いリーダーシップを発揮することができたに違いない。


受験の失敗

  土光敏夫が生まれたのは1896年9月15日、岡山県の大野村という農村で、現在は岡山市に編入されている。父は菊次郎、母は登美といい、この二人の次男であったが、長男が1歳で病死したため、事実上長男として育てられた。家はもともと農家であったが、父が病弱であったので、農業をやめ、米穀類、い草、肥料などを扱う卸業を営んでいた。
  父の仕事の手伝いで、60キロもある米俵を小学生の頃から担いでいたので、足腰も腕力も強く、体力にはかなりの自信を持っていた。その上かなりの腕白で、勉強より遊びに熱中する少年だった。そのせいかどうか、土光は岡山県下一の競争率を誇る県立岡山中学受験を三度も失敗している。その後、私立の関西中学に進学。そこを2番の成績で卒業後、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を受験した。しかし、またもや失敗。土光の学生時代は、決して順風満帆なものではなかったのである。翌年、再び挑戦し、見事合格。それもトップでの合格となった。


スイス留学と結婚

  社会人としての出発は石川島造船(現在のIHI)、タービンの研究開発部門に配属となる。土光が入社した1920年当時、日本の造船業界はまだ黎明期に近い状態で、タービンを始め機関、機器類の多くは輸入品に頼らざるを得なかった。外国に頼らない自前の技術力を持つことが、土光ら技術陣にとって緊急の課題であった。
  1922年、土光は社命でスイスに留学することになる。前年、スイスのエッシャーウイスとの契約で、同社のツェリー式タービンの製造販売権を得ていたからである。土光はこの技術の習得と研究のために派遣されたのである。滞在期間は約1年半、「この間、現場で油にまみれて働くか、あるいは技師たちと議論をするか、終始、このどちらかであった」と土光自身語っている。
  帰国後1ヶ月して、土光は重役の娘栗田直子と結婚した。スイスに向かう直前、直子と見合いをしていたが、結論は母に任せて出発した。土光の留守中、母は栗田家を訪問し、直子と面談し、大いに気に入った。重役でありながら質素な暮らしぶり、それと親を大切にしている家風であったからである。母の見込んだこの女性が、まるで修道僧のような土光を生涯支える人となったのである。


造船世界一

  改革請負人としての土光の本領が発揮されるのは、石川島重工(造船を改称)の社長に就任してからである。1950年の春、本社役員会での決定であった。当時、石川島重工は大変な苦境に陥っていた。1億円を越す大赤字を出し、給料の遅配まで起こっていたのである。土光は、不退転の決意で臨み、果敢に改革を断行した。
  まずは、コスト削減。社内の伝票、領収書を全部提出させ、社長室の机の上に山と積んだ。その上で、担当者一人一人を社長室に呼び出し、領収書の山を背景にして、怒鳴ったという。「諸君は冗費が多すぎる。もっと無駄を省けば利益は出る」と。ごまかし書類を見破る達人と言われた土光の改革で、弛んでいたたがが締め直された。
  土光がやったことは合理化だけではない。技術研究所を設立し、最新技術の導入に取り組んだ。こうした改革が功を奏したのと、朝鮮戦争による特需ブームで、石川島重工は見事に息を吹き返した。そして、播磨造船との合併(石川島播磨)を実現することで、石川島播磨を「造船世界一」の地位に押し上げることに成功した。
  改革は痛みを伴うものである。成功させるかどうかはトップの意気込みにかかっている。「人間タービン」と称された土光は休むことを知らない働き人間だった。その姿に社員の誰もが脱帽した。また社用車を使わず電車で出社する土光に社員は驚いた。
  土光の生活ぶりに驚いたのは、社員たちだけではなかった。1954年春、日本の造船業界は造船疑獄事件で大揺れに揺れていた。政財界の逮捕者が105名に上る戦後最大の贈収賄事件である。当時、石川島重工社長であり、造船工業会の副会長であった土光にも、司直の手が及んだ。
  4月2日早朝6時半、検察官の一隊が土光家を訪れた。彼らはまず土光家の傾きかけたボロ家に驚いた。「これが一流会社の社長の家か」と一人の検察官が呟いたという。対応に出た夫人は言った。「主人はたった今出ました。今ならまだバス停にいると思いますが」。近くのバス停に行ってみると、雨の中を土光は傘を差しながら、バスを待っている。
  担当の検察官は、この時点で土光のシロを直感したという。帰庁した一人の検察官は、同僚に言った。「いやぁ、まいった。実に立派な人だ。大会社の社長なのに生活は質素、それに朝早く、電車のつり革にぶら下がって通勤している」。この時、土光は20日間拘留され、後に無罪釈放となった。


「役員は10倍働け」

  深刻な経営危機に陥っていた東芝電気の社長となったのは、68歳の時。土光は責任感が人一倍強い男である。請われた以上は、責任をもって改革に尽力した。社長就任の第一声は、「社員はこれまでの3倍働いてもらう。役員は10倍働け、私はそれ以上働く」。この言葉通り、土光の働きぶりは気迫にあふれ、鬼気迫るものがあったと言われている。
  社長自らセールスに向かう率先遂行。生活ぶりは相変わらず質素倹約。東芝の社長でありながら、家に冷暖房がない。カラーテレビすらない。電器メーカーの社長宅にカラーテレビがないのはおかしいと言って、労働組合の組合員が寄付を募り、カラーテレビを社長に寄贈したという。そんな土光に引っ張られて、東芝の体質は徐々に変わっていった。
  東芝でも、土光は合理化だけを推進したわけではない。「俺は東芝百年のための種まき人だ」と言って、コンピューター、原子力発電、防衛産業などには、採算無視で研究資金をつぎ込んだ。これらが今日の東芝を支える大きな柱となっているのである。
  77歳で経団連の会長に就任したのは、1974年4月。石油ショック直後のことで、財界の危機感はピークに達していた時である。この危機に際し、指導力を発揮できるのは、土光を置いて他にないと満場一致の推薦であった。「燃える経団連」を目指して、土光の全国行脚が始まった。ほとんどすべての会員に面会し、直面するエネルギー問題に関する意見書を内閣に提出。中東のみに依存していたエネルギー事情が大幅に改善された。さらに省エネに関しても、年10%以上のエネルギー節約に成功。これらは、土光が経団連会長時代に成し遂げた貢献と言っていい。


次の世代のため

  こうして希代の改革請負人は、ついに国家の改革に取り組むことになる。時の総理大臣鈴木善幸は、行財政改革の実現のため、第二次臨調(臨時行政調査会)の会長として、土光を招聘した。この時、土光は84歳になっていたが意気軒昂、「増税なき財政再建」「行政改革の断行」「特殊法人の整理・民営化」に体当たりで取り組んだ。国鉄の民営化などを柱とする行財政改革の答申をまとめ上げたのは、記憶に新しい。
  最後の頃には、体も衰え車いすで会議に出席していたという。体が弱っても、行革に対する情熱は衰えることがなかった。臨調の場で土光は、「私自身は21世紀の日本を見ることはないでしょう。しかし、新しい世代である孫やひ孫のために……」と語った。調査会の中心メンバー瀬島竜三は、これを聞いて目頭が熱くなったと語っている。
  土光の年収は、少なくても5千万円は越えていた。月の生活費は10万以下、残りはどうしたのだろうか。決して蓄財していたわけではなかった。母登美が72歳の時に設立した学校、橘学苑の経営のため、注ぎ込んでいたのである。母は熱心な日蓮宗の信者、平和な世の中を心底願っていた。どんな政治家でも、学者でも、軍人でも、みな母の懐に抱かれ、その声に耳を傾けて育っている。ならば、良い母を育成することが、次世代を支えることに他ならない。こんな気持ちで、女学校を作ることを決意したのである。財力があったわけではない。ただ信仰心から出た志があっただけである。登美は、すでに70歳を過ぎており、しかも戦時中のことであった。
  設立場所を決めると、登美は地主を口説いて回った。当初は誰も相手にしなかったが、次第にその熱意が人を動かし、土地を提供してくれる人が増えだし、ついに橘学苑が開校した。その3年後、登美は燃え尽きるように人生を終えた。母の生き様、死に様を見届けた土光は、母の理想を貫こうと決意した。学校は常に深刻な赤字状態。登美の方針が安い授業料であったからだ。それを土光は、生涯補填し続けたのであった。
  1988年8月4日、土光はついに人生の幕を下ろした。享年91歳、大往生であった。告別式には1万人以上の参列者が押しかけたという。国家の再建のため、身を削りながら、尽力した土光を国民はこよなく愛した。財界のトップに君臨しながら、これほど国民に愛されたリーダーは珍しい。



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