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五代友厚

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五代友厚 
(ごだいともあつ) 


大阪経済の基礎を築く 

若くして開国の志 正義と大義の志士

 若くしてイギリスに渡り、イギリスの経済、とりわけ株式会社制度に注目して帰国した五代友厚。鎖国の日本を早く開国し、貿易を促進することで国を富ませたい。その信念を抱き、果敢に実行した。大阪経済の基礎を作った五代は、商人である前に正義と大義に生きる武士であった。


大阪の恩人


 五代友厚は、薩摩(現鹿児島県)出身の実業家である。「東の渋沢(栄一)、西の五代」と言われ、大阪商法会議所(現在の商工会議所)初代会頭として大阪実業界に多大なる影響を与えた。当時、大阪の事業で五代の息のかかっていないものはないと言われるほど、その影響力は絶大なものであった。
 
 「天下の台所」と言われた大阪の衰退を憂い、ここを日本の経済の中心地にしようと努力した。明治以降大阪の発展に貢献した指導者の中で五代の右に出る者はいないと言われ、「大阪の恩人」と称えられるのも、決して故なきことではない。
 
 五代は、幕末に海外を体験した数少ない日本人の一人であり、攘夷(外国排斥)運動が荒れ狂う中、開国の信念を早くから抱いていた。開国を急ぎ、国を富ませなければ、日本は欧米の植民地に成り下がってしまう。この危機感に突き動かされて、新しい国造りに邁進した。

長崎を拠点として


 五代友厚は、1835年12月26日、薩摩藩城ヶ谷に生まれた。父秀堯は、薩摩藩の儒官(儒学を教授する先生)であり、武士でもあった。12歳で藩校造士館に入り、文武を修めた。満12歳のときのエピソードが伝えられている。五代が、開国の信念を抱くようになったきっかけと言われている。
 
 藩主島津斉興が父秀堯に世界地図の模写を命じたことがあった。ポルトガル人から購入したものである。父はそれを友厚(幼名は徳助)にやらせた。友厚は2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げて、日夜眺めていたという。地図を見ながら、彼はイギリスに注目した。ちっぽけな島国ではないか。こんな小さな国がどうして世界を制覇できたのか。五代のイギリスへの関心はこうして生まれ、イギリスを目標にした国造りを考えるようになった。
 
 満14歳(1850年)のとき、藩主に数千語に及ぶ建言書を提出した。そこには、他藩に率先して汽船を購入すべきこと、留学生を派遣すべきことなどが書かれてあった。この時点で、五代の開国論はすでに信念として固まっていた。明らかに彼は時代を先取りしていたのである。
 
 1853年6月、ペリー来航により日本中が騒然となった。海防の必要性を痛感した幕府は、オランダの力を借りて、長崎に日本最初の海軍を創設した。それが長崎海軍伝習所である。約200名ほどの伝習生が各藩から集められ、五代も薩摩藩16名の1人として選ばれ長崎行きを命じられた。伝習所で3年過ごした後、藩の貿易業務担当に任じられ、長崎駐在を続けた。
 
 彼は長崎を足場として、そこに集まる有為な人物との交流を深めた。勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作、それとイギリス商人グラバーなどである。こうした人脈があればこそ、後の倒幕運動で彼は裏方として決定的な役割を果たすことができたのである。
 
 1868年、戊辰戦争の先駆けとも言うべき鳥羽伏見の戦いが勃発した。幕府軍1万5千に対し、薩長の兵力は4千にすぎなかった。にもかかわらず、薩長軍は兵力4倍の幕府軍をわずか4日間で打ち破ったのである。もちろん、士気の差もあったであろう。しかし、何と言っても、五代がグラバーから調達した武器弾薬が威力を発揮したのである。

薩英戦争と欧州行


 1862年、とんでもない事件が起こった。薩摩藩の大名行列を避けなかったイギリス人を薩摩藩士が斬殺してしまったのである。有名な生麦事件である。この事件が契機となり、翌年イギリスは鹿児島を砲撃し、薩英戦争が勃発した。イギリスの砲撃直前、五代は購入した汽船を失ってはならないと考え、独断で3隻の汽船を避難させた。対外貿易の手段を失ってしまうからだ。しかし、運悪く彼は友人の松木弘安(後の外務卿寺島宗則)と共に捕虜となってしまう。
 
 この戦争でイギリスは薩摩の実力が侮りがたいことを認識し、薩摩も外国と戦うことが得策でないことを悟った。その結果、和議が成立し、両者は急接近することになる。これには捕虜となっていた五代の貢献が大きい。クーパー提督は、五代に薩摩の戦力を問いただした時、五代は「薩摩藩士は一人として生を欲する者はいない。みな死を覚悟し、戦いに臨んでいる」と述べ、陸上戦となったら、イギリスの勝算はないと断じた。これを聞いて、クーパーは再戦を思いとどまったという。
 
 しばらくして、五代は藩当局に上申書を提出した。もはや開国しか道がないこと、そして薩摩が率先して開国に当たるべきであると説き、具体的には、上海との直接貿易、英仏両国への留学生の派遣を提案した。
 
 その後、五代は政策立案者として、藩政の中枢にカムバックする。彼が提案した留学生派遣が正式に採用され、渡航に関わる全てが五代の手に委ねられることになった。いよいよ薩摩が開国に向けて全面的に動き出したのである。
 
 1865年3月22日早朝、船はイギリス目指して旅立った。留学生14名、それに五代ら付き添いが5名で合計19名での出発。この中には、後に文部大臣となる森有礼も加わっていた。五代にとって、感慨深い船出であった。彼が最も尊敬していた亡き島津斉彬は、外圧の危機を克服するには、西洋に学ぶしかないという積極的開国論者である。その斉彬の遺志を継ぐのは自分しかいないと自負していた。今、それが実を結びつつあるのだ。
 
 五代の欧州滞在はわずか半年にすぎなかった。留学生の受け入れ交渉は同行した松木弘安に任せ、彼は欧州各国をどん欲に見て回った。欧州の機械産業の発展ぶりに、腰を抜かすほどの驚きを感じつつも、五代が特に関心を向けたのは、ロンドンの銀行、商品取引所、商工会議所などである。さらにそれを支えている商社合力(株式会社のこと)。
 
 欧州を去るにあたり、五代が心に誓ったことがある。産業の振興と貿易によって、日本の基本を揺るぎないものにするために会社を興そう。薩摩藩のためではない。日本のために。島津斉彬から教えられた「日本一体一致」の考えをさらに強固にして、帰国した。1866年2月、徳川幕府が倒れる2年前、32歳になっていた。

不正を断固取り締まる


 五代友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まる。新政府は諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、そこに五代を任命した。この頃、日本人の無知につけ込んで、外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払いなどは日常茶飯事。領事館の家賃不払いまであった。五代は、こうした不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。
 
 五代のいる大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議がついに政府にまで届いた。政府が五代に取り締まり緩和勧告を出すほどの騒ぎとなってしまう。荷物検査が厳格に行われると、脱税など不正行為ができなくなる。外国商人の不満の真意は、そこにある。このことを五代は見抜いていたので、彼は一切の妥協を拒んだのである。
 
 五代には信念があった。常日頃、「事業が盛んになるかどうかは、お互いの信用が厚いか薄いかによるものである」と語り、商売における信用の重要性を説き続けていた。不正を糾弾することは、この信用を勝ち取ることにつながる。不正をひとたび容認すれば、結局は信用を失い、その損失は計り知れない。
 
 五代は商人である前に、正義と大義を重んじる志士であった。何よりも国家を優先する価値観が染み込んでいた。不正を見逃すことも、国益を損なうことも断じてできない人間であった。こうしたことから五代は外国商人から敬遠され、とうとう排斥運動まで起こされてしまうのである。

官を辞し民間へ


 外国商人の五代排斥運動が高まる中、五代の横浜転勤の辞令が下った。しかし大阪の商人たちは黙っていなかった。五代の横浜転勤阻止に向け、猛然と立ち上がったのである。五代の指導で大阪にようやく展望が開けてきた矢先のことである。彼らは「今、五代氏が転勤となっては、船の舵を取る者がいないのと等しい」と言って、政府に嘆願書を提出した。政府がこの声を聞き入れることはなかった。
 
 となれば五代本人を説得するしかない。大阪の商人たちは、入れ替わり立ち替わり五代宅を訪れて、大阪にとどまるように説得した。これには五代も心動かされた。官を辞し、株式会社を興すことで、民間人として大阪の復興、発展に身を投ずる決心をしたのである。1869(明治2)年、まだ弱冠33歳の時である。
 
 民間人となって以来の五代の活躍は目覚ましい。五代が設立に関わった事業は数え切れない。大阪の産業、経済の基礎は全て五代が作ったと言っても過言ではないのである。1879年、大阪商法会議所を創設し、その初代会頭に就任した。その2年後、五代にとって心外な事件が起こった。北海道開拓使の官有物払い下げ事件である。北海道開拓に実権を握っていた黒田清隆が、五代の企業に官有物を払い下げることになっていた。黒田も五代も同じ薩摩出身であったため、薩摩閥の不正取引だと非難されたのである。五代には自信があった。財政難に陥っていた北海道開拓事業を自分ならば、効率よく展開できる、と。
 
 実は、この事件の真相は政治問題であった。国会開設を要求する反政府勢力が、薩長政権を攻撃するため、払い下げ問題を政争の具として利用したのである。私利私欲の腹黒い経済人として攻撃されたことは、五代にとってずいぶん心外であったろう。しかし、彼は一言も弁解をせず、隠忍自重の態度を貫いた。結局、払い下げは中止され、北海道開拓に託そうとした五代の夢は消えた。
 
  こうした事件の後でも、大阪における彼の名声と信頼は全く揺らぐことはなかった。翌年1月に行われた商法会議所会頭の選挙で、62票中55票の多数を獲得して会頭に再選されたのである。大阪の人々は五代がいかなる人物かを知り抜いていたのだ。
 
 1885年9月25日、五代は50年間の短い生涯を終えた。惜しまれる死であった。葬儀の一般会葬者は4千8百人。遺産はなく、遺したものは膨大な借金ばかりであったという。財産のためではなく、地位や名誉のためでもない。日本の国力増大のため、捧げ尽くした生涯であった。財産は遺さずとも、彼は偉大な生涯を残すことに成功した。廉潔の士として、大阪の恩人として、今なお五代の精神は語り伝えられている。



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