原敬 
(はらたかし) 

原敬


本格的政党内閣の実現 
左右両勢力からの反発  国際協調路線を堅持

  本格的な政党政治を実現させた原敬は、若い頃、キリスト教の宣教師になろうとしたことがあった。何かに命をかけるという若い頃の純粋な魂を生涯持ち続けることは難しい。しかし、原は政治という世界の中で、それを持ち続けようとしたのではないか。

政党政治を実現

  原敬は、明治から大正時代に活躍した政治家である。幕末には幕府側に付いたため朝敵(天皇の敵)とされた南部藩(現在の岩手県)の出身。薩長(薩摩藩と長州藩)を中心とする藩閥政治を打破して、政党政治へと脱皮することに、政治家としてのエネルギーを注ぎ続けた。藩閥政治の権化とも言われる山県有朋の牙城を一つ一つ切り崩し、ついに本格的な政党政治(議会で多数を占めた政党が政権を担うこと)の実現に成功した。歴史家の原敬に対する評価は、「政党政治を実現した最大の功労者である」という点で、ほぼ一致している。
  また、軍部の拡張路線を極力抑えて、国際協調路線、特に対米関係を最重視した外交路線を打ち出していた。しかし、1921年東京駅で刺客に襲われ絶命。原の死により、軍に対する政治的指導力も死んだ。軍部の独走に引きずられながら、日本は中国進出へと動き出してしまう。原がもう少し長く生きていたら、軍部の暴走を阻止できていたかも知れない。こう嘆く識者は多い。

母の苦労とキリスト教の洗礼

  原敬は、1856年2月9日に父直治、母リツの次男として生まれた。「平民宰相」として人気を博した原であるが、生まれは平民(武士以外の農工商階級)ではない。代々南部藩に仕える武士であり、祖父は南部藩の家老(重臣)を勤めたほどの人物であった。後に家督は長男が継いだので、次男の彼は分家して平民となった。
  原家に悲劇が襲った。原が4歳の時に祖父が死亡、9歳の時に父までも死亡する。一家の大黒柱を失った母リツに待っていたものは、7人の子供たちの養育という現実であった。
  困窮を極めた生活の中で、15歳になった敬の希望を入れて、母は彼を東京に出してくれた。この時すでに長男は東京に出ていて、その負担だけでも大変だった。その上、次男の敬までも行くというのだ。母の苦労は、想像に難くない。母はよく子供たちに言った。「女手で育てられたから、お前たちがろくでなしになったと世間から笑われるようになっては、心苦しいからどうか偉くなってくれ」と。原は、子供心に母のために偉くなろうと決心した。後に原は、「私が大命を拝受(首相になること)するに至ったのは、ひとえに母の言葉を忘れずにいたおかげである」と語っている。
  東京に出て英学塾に学び始めてまもなくの頃、生家が泥棒に入られるという事件が起こる。母は学費を送ることができなくなった。この時、親戚が援助の申し出をしてきたが、彼はそれをきっぱりと断った。「自分はたとえ餓死しても人からの金銭援助は受けない」と言って、苦学の道を選んだ。後の大政治家を彷彿とさせる気概であった。
  経済的事情で英学塾を辞めた原敬は、フランス人宣教師の経営する伝道師養成所に塾生として入ることになった。布教を目的としていたため、塾生は無料で宿泊できた。そのため、キリスト教には何ら関心がなくても、貧乏な若者が多く集まっていた。
  原の入塾の動機は定かではないが、他の塾生と大差ないものと思われる。しかし、授業で宣教師から殉教者の話を聞くにつれ、言い知れぬ感動を覚えた。17歳で洗礼を受けた原は「自分も殉教者のようにこの道(キリスト者としての生き方)のために命を捧げよう」と誓ったという。本気であったのだ。
  その翌年には、エブラルという名の宣教師の学僕となり、新潟伝道に随行する。同僚から「西洋の奴隷に成り下がるのか」という面罵を受けての新潟行きだった。このエブラルは大変な博識多能の人物で、原は彼からフランス語だけではなく、歴史、世界の情勢、あるいは人間の生き方まで幅広く学んだ。ものの見方、考え方の基礎がこの時、キリスト教宣教師を通して、形作られたのである。

伊藤博文と陸奥宗光

  原敬が政治家の道を志すようになったのは、伊藤博文(初代総理大臣)との出会いがきっかけである。新聞記者生活を終え、外務省に入ってまもなく、天津領事として清国(中国)赴任を命じられた。フランス語ができたからである。
 フランス公使との折衝、清国の実力者李鴻章との交渉などに辣腕をふるい、原は本国からも一目置かれる存在となっていた。伊藤博文一行が原のいる天津を訪れたのは1885年3月、甲申事変(朝鮮の親日派クーデター)の後始末のためである。原と同じ屋根の下で約3週間ほど生活し、伊藤は原の仕事ぶりを高く評価し、その人物を見込んだ。
  原がフランス赴任(パリ公使館書記官)の命を受けたのは、伊藤が帰国した直後のことである。伊藤の推薦であったことは間違いない。明治新政府の幹部候補生として、ヨーロッパ体験をさせるためであった。85年7月にわずか1年半の天津生活を終え帰国、その年の10月にはパリに向かって出発した。原は29歳であった。
  約3年半のパリ生活で、書記官としての仕事を遂行するかたわら、原は勉強に余念がなかった。フランス語、国際法など大学の教授に付いて学び、同時に膨大な書物を読破した。後に原の書棚には、この時に購入した本がかなり収められていたという。原の蔵書は優に1万冊を超え、小さな図書館のようであったという。フランス語の書物、政治関係、歴史、哲学、宗教など分野は幅広い。これら全てを読破していたというから驚きである。
  パリから帰国した原に待っていたのは、農商務省参事官のポストである。ここで原はもう一人の重要人物と出会うことになる。農商務大臣の陸奥宗光。陸奥は原の能力を認め、彼を秘書官に抜擢し、省内の仕事一切を原に任せた。原はまだ弱冠34歳であった。
  この二人のコンビは陸奥が外務大臣になってからも続いた。陸奥が原を外務省通商局長として呼び寄せたためである。陸奥の藩閥嫌いは有名で、藩閥打倒を志していた。しかし、志半ばにして陸奥は53歳の若さで病没する。後に原が政治家として取り組んだ藩閥政治打倒の戦いは、まさにこの陸奥宗光から引き継いだ仕事であったのだ。

山県閥との戦い

  1900年、原敬の人生における最大の転機がおとずれた。伊藤博文による新政党「立憲政友会」(以下、政友会)の結成である。伊藤は、原に新政党に関する事務の一切を担当してくれるよう依頼した。当時、大阪毎日新聞の社長の位置にあった原は、「藩閥を打倒し、政党内閣の樹立を目指すべし」と論陣を張っていた。伊藤の依頼は、原にとって千載一遇のチャンスであった。原はこれを引き受ける決断をした。
  原の藩閥打倒の戦いは、具体的には山県閥との戦いである。長州出身の山県有朋は、陸軍と内務省に強固な勢力基盤を築いていた。山県閥のこの2大支柱を切り崩すことに原は、政治生命をかけたのである。1906年1月第一次西園寺内閣で、原は内務大臣に就任。そこは山県閥の地盤、敵の真っ直中に乗り込んだようなものであった。
  省内では、「いつまでもつか」と新大臣を冷笑する者も少なくなかった。しかし、原の内務省「構造改革」は容赦なく断固として実行された。まずは警視庁の改革。人事で山県系の人間を一掃した。続いて地方官の改革。知事6名を含め地方官75名の大更迭を行い、無能な人間を淘汰した。山県系に情実で採用された無能な者が多かったからである。

平民宰相の誕生

  1918年9月、ついに原敬に組閣の大命(天皇の命令)が下った。本格的な政党内閣の成立であり、平民宰相の誕生であった。当時、内閣総理大臣の任命権は天皇に帰せられていた。しかし、事実上は元老たちの推薦によるものであり、中でも最長老であった山県有朋の影響力が決定的であった。しかし、この山県の外交路線が、ロシア革命によって破綻した。ロシアとの提携を強化して中国を日本の勢力圏に組み込もうという路線である。
  その結果、アメリカとの協調路線を基軸とすべきと主張する原を山県は推薦せざるを得なかったのである。日本に新しい外交の基軸が必要とされたからだ。山県が好むと好まざるとにかかわらず、日本は原を必要としたのである。
  原が首相であったのは、暗殺される(1921年11月4日)までの3年間という短い期間であったが、その功績は大きい。原が築いた政党政治は日本の内政の基本となったし、彼の国際協調路線も、日本外交の基本的枠組みとして、原の死後しばらくは堅持されたのである。しかし、軍部が引き起こした1931年の満州事変、32年の5・15事件(軍部のクーデター事件)などにより、原の路線は崩壊した。政治は軍の暴走を許し、日本は国際的孤立化の道に進むことになったのである。
  原は平民宰相と呼ばれたが、民衆を煽る大衆運動のリーダーではなかった。急激な変革は社会秩序を不安定にすると危惧したからである。彼が目指していたのは、常に「漸進的な変革」であり「秩序ある進歩」であった。それゆえに急進的左翼勢力は原を敵対視した。
  また、陸軍や右翼勢力も原の外交政策に強い嫌悪感を示していた。原は、左右両勢力から常に狙われていたのである。暗殺を覚悟していた原は、遺書まで準備したが、身辺警護を嫌い、最期まで護衛は付けなかった。心配する友人たちに、「人事を尽くして天命を待つだけ。命は天に預けてある」と言って譲らなかった。
  生前、原はよく「宝積」という言葉を揮毫した。仏教用語で「尊いものを積み重ねる」という意味と言われている。しかし、彼がこの言葉を使う時、若い頃学んだ聖書の言葉を思い浮かべていたのではなかろうか。聖書に「天に宝を積め」という言葉がある。本当に価値あるものは、目に見える地位や財産ではない。目に見えないものにこそ価値があるという教えである。
  政権を取った原につきまとう利権目当ての動きが活発になった時でも、原の清廉潔白を疑う者はほとんどいなかった。36歳の時、外務省を辞めた退職金で買った家に生涯住み続け、豪華な邸宅を構えようとはしなかった。死ぬまで爵位や勲章を辞退し続けたことは有名な話である。政治家として頂点に昇りつめたとしても、常に平民であろうとしたのであろう。死を覚悟していた原は、彼が所有していたお金全てを政友会に返すよう家族に遺言していたという。こうした原の65年間の生涯を見てみると、この世の栄達に慢心することを避け、常に天に宝を積もうとしてきたように思えてならない。



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