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平生釟三郎

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平生釟三郎 
(ひらおはちさぶろう) 

社会奉仕を貫いた生涯 
ブラジル移民の恩人として  戦争回避を願う  

平生釟三郎の生涯は、実に多彩である。保険業界での活躍を足がかりとして、学校運営、病院経営、移民支援事業などに取り組む。さらには貴族院議員となり、文部大臣にまで推戴された。こうした多彩な人生にあっても、その精神は実にシンプルである。武士道精神そのものであった。

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平生釟三郎

奉仕の精神

  今年(2008年)は、日本人のブラジル移民100周年に当たる。移民の総数は25万人に達し、現在では150万人に及ぶ日系人社会を作り上げているという。ブラジル移民事業の成功は、平生釟三郎抜きにはあり得なかった。もともと彼は東京海上保険会社に勤め、保険ビジネスを生業としていた。しかし、保険業界に収まる人間ではなかった。学校、病院などの創設、移民支援などに取り組んでいく。社会奉仕の精神からである。
  平生釟三郎は常日頃「人生三分論」を唱えていた。人の一生は三つの段階に分けられるという。第1期は、人や社会の世話になって勉学に励む時期。第2期は、社会に出て全力をあげて仕事をする時期。第3期は、蓄積した能力や富を社会に還元する奉仕の時期とした。これは、まさに平生釟三郎自身の辿った生涯そのものであった。

父から受けた武士道精神

  平生釟三郎が生まれたのは、幕末の1866年、美濃国の加納藩(岐阜県)。田中時言と徳子の間の三男として誕生した。時言は、庄屋(村落の長)の三男坊であったが、武士に憧れていた。晴れて武士となったのは、武家の名門の田中家の一人娘であった徳子の婿として迎えられたからである。武士の夢が叶った時言は、代々の武士以上に真の武士であろうと務めた。明治維新後、田中家は没落し、家計は一気に逼迫したが、父は武士としての誇りだけは失うことはなかった。常に子供たちに武士道精神を叩き込もうとしたのである。
  釟三郎は、12歳で中学に入学したものの、学費が続かない。彼は家計を思い、中学に退学届けを出して、横浜に向かうことにした。日本の将来は、商工業と外国貿易の発展にこそある。そのために、横浜で働きながら、貿易の勉強をしようと考えてのことであった。14歳の旅立ちである。

平生家に養子入り

  横浜に出て極貧生活に耐えていた頃、ある新聞広告が目に飛び込んできた。「露語学生25名募集す」。東京外国語学校の募集広告で、月額5円の給費付きの募集であった。釟三郎は、天にも昇る気持ちで願書を出し、倍率は20倍の難関を突破して見事合格。
  しかし、5年生(5年制学校)になった年、国政の大きな変革の煽りを受けて、外国語学校の廃止が決定。東京商業学校(現在の一橋大学)の語学部に編入されることになったが、この語学部もすぐに廃止になり、除籍の憂き目に会う。学生たちは、怒りで騒然となったが、政府の決定となれば、どうすることもできない。釟三郎は気持ちを切り替え、この学校で商業を学ぶ決意をする。もともとが貿易を学ぼうと横浜に出てきた身である。初心に戻る機会を与えてくれたことは幸いなことにも思われた。
  しかし、再入学には学費が必要だ。あらゆる手を尽くしたが、全て失敗に終わった。残された手段はたった一つ。以前から、父の知人の遠縁に当たる平生家から、そこの一人娘の婿として彼を養子に迎えたいという話があったのである。この申し出を受けるしかない。養子入りは不本意ではあったが、向学心の強さがその決断を促した。田中家と平生家の養子縁組が成立し、釟三郎は平生家の援助で学業に勤しむことが可能となったのである。
  1890年に高等商業学校(東京商業学校)を卒業した釟三郎は、約束どおり佳子と結婚。「人生三分論」の2期目が始まった。全力を挙げて仕事をする時期である。卒業後、朝鮮の仁川海関に1年、県立神戸高等学校の校長を2年勤め上げ、高商の校長の強い勧めで、東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)に入社したのは、1894年のことで、筆頭書記(ナンバー2)の立場で迎えられた。
  釟三郎は大会社の幹部や有力な個人船主と面談し、常にトップセールスを続けた。「保険会社の最大のセールスポイントは信用だ」が持論。信用を守ることを常に重視し、安値競争や無理な拡大路線は取ろうとしなかった。士魂商才(武士の精神と商人の才能)を貫いたのである。

妻を2度失う不幸

  東京海上に入社して13年目、41歳の釟三郎に突然不幸が襲う。妻の佳子が4人目の子を産んで間もなく、命を落としてしまったのである。釟三郎は、幼い子供たちのために再婚したものの、後妻の信枝も再婚して1年後に、釟三郎の5人目の子を産んで、他界してしまった。わずか3年の間に二度も妻を失う悲劇に襲われながらも、その運命を引き受けて生きなければならない。幸いなことに、5人の子の面倒を見てくれるすずという名の女性が現れ、彼女と再婚した。
  人生三分論という考えが芽生えたのは、この時期のことである。深い悲しみと無常感に襲われ、ビジネス界一筋に邁進してきたそれまでの人生を振り返った。彼が出した結論は、「会社だけが人生ではない」。新たに社会奉仕の道が見えていたのである。そうと決めれば、行動は早い。手始めに彼が手がけた社会奉仕は甲南幼稚園の設立。1910年のことで、その2年後には甲南小学校、その7年後には甲南中学校(後の甲南高等学校)、さらに甲南高等女学校を設立している。これほどまでに教育に力を注いだのは、人の育成こそ、最大の社会奉仕と考えていたからである。
  学校の設立に取り組む一方、「拾芳会」と呼ばれた個人奨学金制度を作り上げた。釟三郎自身、若い頃、学費に相当苦労した。その時に受けた様々な恩に報いようとした。この報恩の精神こそが、釟三郎の社会奉仕の原点であった。この拾芳会は、釟三郎の私塾であって、塾生たちは平生家に住み込み、そこから学校に通い、平生家の一員として遇された。彼らは学費の他、自由に使えるお金まであてがわれていた。

奉仕活動に専念

  釟三郎に大きな転機が訪れたのは、1924年のこと。会社から派遣され、8ヶ月にわたる海外視察の旅に出ていた。船上で読んでいたのが、エドワード・ボックの自叙伝。その中に、「事業に全力投球をしながら、本当の意味での社会奉仕をやろうとするのは、二人の主人に同時に仕えるのと同じで、無理な注文である」とあった。体に電撃が走る。事業と奉仕に二股をかけ、鬱屈した気持ちを抱いていた時期でもあった。「実業界を引退して、奉仕に専念しよう」。彼の気持ちが固まった。この時、58歳。社会奉仕という夢に向かって、第三期の人生が本格的に始動するのである。
  東京海上を退職後、情熱を燃やして取り組んだ事業が病院の設立であった。2度も妻を失ったからでもあろう。彼が理想とした病院は、「病人のための病院」。具体的に言えば、経済的に恵まれない患者の医療費は実費だけ。場合によっては無料とする。経済的に恵まれた患者は、全治したときに応分の寄付をお願いするというもの。健康保険が行き渡っていない時期のこと。医療費が患者の上に重くのしかかっていたのである。
  こうした理想の病院建設に向けて奔走する釟三郎を助けたのが、拾芳会OBのメンバーたちであった。彼らの中で医師になった者たちが、釟三郎の元に結集した。資金は、東京海上時代の取引先などを回って寄付を集めた。知り合いを一人一人訪問して、趣旨を説明し、頭を下げて懇請すること数年。ついに1934年6月、開院式にこぎつけた。
  その後釟三郎が、再び実業の世界に戻った時期がある。神戸にある川崎造船所の経営が行き詰まり、その整理委員に任じられたからである。川崎造船所は従業員だけでも1万3千人、それに下請け会社や家族などを含めると10万以上が、その倒産で路頭に迷うことになる。再建を依頼された釟三郎は、この再建を社会奉仕と位置づけた。社会奉仕である限りは、失業者を出したくない。この難しい課題に果敢に挑戦した。一切の報酬を受け取らなかったのも、社会奉仕という考えからであった。

ブラジル移民支援

  平生釟三郎が、ブラジルと関わりを持ち始めたのは、海外移住組合連合会の2代目会長に就任してからである。当時の日本は満州事変(1931年)後、侵略国家の烙印を押され国際的孤立状態に陥っていた。その中で唯一ブラジルだけが日本からの移民に好意的だった。そのブラジルが移民を制限しようとする動きに出たので、政府としては民間の経済外交で事態を打開しようとしたのであった。政府はブラジルへ経済使節団の派遣を決定し、釟三郎に団長就任を依頼してきた。大いに迷いながらも、ブラジル移民問題は「より高い奉仕である」という結論に至り、最終的に受託した。この時も無報酬を貫いたのである。
  釟三郎の基本的考えは、移民問題は時間をかけて解決するもので、まずは両国が共存共栄のパートナーになることが先決だというもの。ブラジルの綿花を輸入し、貿易により経済に貢献することで、移民の道が閉ざされないようにしようと考えた。使節団の滞在期間は、実に7ヶ月に及び、民間外交は大成功をおさめた。両国の貿易額は、一気にそれまでの10倍を越し、両国の親善友好関係は確実に深まった。ブラジルで盛り上がりかけていた排日気運を一挙に押し返すことに成功したのである。この功績で、帰国した釟三郎は天皇陛下に御前講演を進講する栄誉を担い、ブラジル政府から勲章を贈られた。
  釟三郎のブラジルとの関わりはこれで終わらなかった。ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の理事長に就任し、移民支援事業に本格的に取り組み始めるのである。そして、拾芳会の第一期生であり、平生家に寄宿していた宮坂国人をブラ拓の専務理事(最高責任者)として送り込み、全面的な支援体制を築き上げていく。彼がこうまでして移民支援に乗り出したのは、共存共栄の国策を進めることで、戦争回避を目指していたからでもあった。それが国家への奉公と確信していたのである。
  しかし戦争回避の願いむなしく、日本は太平洋戦争へと突入してしまった。日本が敗戦したその年(1945年)の12月、焦土と化した日本の再生を祈りつつ、80歳の生涯を終えた。「人は如何に生きるべきか」。社会奉仕に身を捧げた平生釟三郎の生涯は、この問いに一つの解答を残してくれた。



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