今村均
(いまむらひとし)
部下の戦犯容疑者救出に尽力
「真の武士道を見た」3畳の小屋に自己幽閉
現在の日本は、「リーダー不在の時代」にあると言われることがある。リーダーとは責任を取る者であるとすれば、陸軍大将今村均の一生は、その一つのモデルを示している。戦犯容疑者となった部下を一人でも多く救うため、責任の一切を自分自身で引き受けようとしたのである。
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聖将と呼ばれた男
陸軍大将の今村均は南太平洋にあるニューブリテン島のラバウルで、終戦(第二次世界大戦)を迎えた。南方作戦の指揮に当たっていたからだ。戦後、彼が取った行動はまわりを驚かせた。司令官として罪に当たるものが何ら見いだせないにもかかわらず、自ら戦犯(戦争犯罪人)として獄中に身を投じようとしたのである。
起訴されていた部下を一人でも多く救おうとしたからであった。戦後、23年間生きた今村は、そのうち9年間を戦犯として獄で生活した。部下を刑死から救出するため、彼は責任の一切を自ら引き受けようとさえした。こうした彼の行為は、敵国であった連合国側においてすら称えられた。聖将と呼ばれるゆえんである。
陸軍士官学校へ
今村均は、1886年6月28日、仙台市に生まれた。判事であった父の虎尾と母清見の間の7番目の子であった。中学卒業後、一高(現在の東大教養部)を目指して、東京で勉学中の時、父の死の知らせを受ける。母の許には他に7人の子があり、一番下はまだ4歳。母は学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く希望した。今村は大いに悩み苦しんだ。自分が軍人に適した男には思えなかったからである。
迷う今村の背中を押したのは、観兵式で見た天皇の行列と国民の姿であった。時は日露戦争の真っ最中、天皇の行列が「万歳」を叫ぶ国民の熱狂の中に迎えられる。その様子は、今村の心を揺さぶらずにはおかなかった。君民一体の日本、これが日本のお国柄なのだ。今村の心は決まった。「陸士受験する。不合格なら現役兵を志願する」と母に電報。18歳の決断であった。
妻の死
1907年6月に陸士を卒業し、今村の陸軍生活が始まった。1915年には、陸軍大学校を首席で卒業、陸軍内でのエリートコースを順調に昇り始めていた。そんな今村に内的な転機が訪れたのは、駐在武官としてインドに渡った時である。1927年7月中旬、単身でインドに向かった今村は、到着直後、高熱を発し倒れ込んでしまった。マラリアだった。発病から2週間、意識もなく死線をさまよった。ようやく危機を脱し、側頭部に痛みを抱えながら、療養生活を続けていた時、妻銀子の兄から突然、電報が届いた。「銀子難産、病院にて世を去る」。
そのままドカッとベットに倒れ込んでしまった。「こんなにも涙が続くものかと思われるほど、私は嘆き悲しんだ」と後に書いている。銀子との結婚生活は11年。3人の子を残して、30歳の若さで世を去った。残された子供たちの泣き声が瞼に浮かび、眠れぬ夜が続く。今村は自分を責め続けた。妻への愛情不足が妻を死に追いやったように思われてならなかったのである。
心身共に憔悴しきっての帰国。そんな今村を慰めたのは、仏教の教えであった。特に『歎異抄』を読んで親鸞に傾倒した。仏の救いの御手の中に自分を委ねるという他力の教え。ぐいぐい引きつけられ、大事なところは暗誦できるまでになる。以来、若い頃学んだ聖書とこの歎異抄、この二つをいかなる時にも身辺から離すことがなかったという。
部下が戦犯として収容
太平洋戦争が日本の敗戦という形で終わった。帰国の日を心待ちにする兵士たちの前に暗いニュースが飛び込んできた。今村の部下の内、69名が戦犯容疑者として指名され、収容されてしまったのだ。「処罰すべき者がいると言うならば、私一人を裁けばいい。部下はみな私の命令を実行したにすぎないのだから」。ニュースを聞いて発した、今村の最初の言葉であった。
部下を思う今村の指揮官としての態度は、戦中、戦後で実に一貫していた。戦時中、ラバウルで今村が実施していた現地自活計画もそうだ。10万の将兵を絶対に飢えさせないという今村の愛情と責任感から出たものであった。土地を開墾し広大な耕地に作物を栽培した。また地下要塞計画を打ち上げ、巨大な地下防空壕を築き上げてしまった。そこでは各人が6畳ほどの部屋すら与えられ、飢えを知らなかったという。「勝ち目のない戦いで部下の生命を失うぐらい大きな犯罪はない」と今村は考えていたのである。
戦争が終わって半年後の46年2月、ラバウル港に到着した復員船に今村の次男純男が船医として乗り込んでいた。上層部の計らいであったのだろう。しかし、今村は息子に会おうとしなかった。部下の中には戦犯とされ、死刑まで宣告された者もいる。どうして自分だけが息子に会うことができようか。そんな気持ちだった。今村の気持ちの中では、戦争はまだ終わっていなかったのである。
戦犯の慈父として
1946年4月末、今村は豪(オーストラリア)軍のラバウル戦犯収容所に入れられた。入れられたと言うより、自ら入所したというほうが正確である。豪軍司令部に何度も足を運び、ついに豪軍が根負けした形での入所であった。入所した今村は部下を救うことばかりを考えていた。「戦犯裁判は戦闘であり、作戦である。これは勝たねばならない」と語り、「一人でも多く救う」という目標に向かい、思いつく限りの手を打って戦った。
この戦犯裁判は、実に理不尽なものであった。日本の軍人による、インド人、中国人、インドネシア人への虐待が問題とされた。特に問題となったのは、日本軍では平常行われていたビンタ(平手打ち)である。死刑の宣告を受けた者が続出した。大半は、「この程度のことで…」というもの。裁判に名を借りた一種の復讐劇に他ならなかった。
今村の主張はこうだ。インド人、中国人などはそもそも戦争俘虜ではない。日本軍が雇った外人労働者であり、彼らへの虐待があったにせよ、それを一般俘虜と同列に連合軍が裁くのは不当である。それでもどうしても裁くのであれば、監督指導の位置にいた最高指揮官の自分を責めるべきであって、個々の将兵を裁くべきではない。
聖書に親しんでいた今村は、迷える一匹の小羊の話を思い浮かべていた。帰国する兵士が99匹の小羊であるなら、戦犯容疑者は迷える一匹の小羊である。心寂しく悩んでいるこれらの羊たちを見捨てることはできない。今村は、迷える彼ら小羊たちと運命を共にする道を選んだのである。そして、戦犯容疑者の心の支えとなり、彼らの慈父であろうとした。裁判をはじめとして一身上のことなど全て、相談に乗り、一つ一つに助言を与えた。
マヌス島へ
今村自身、死刑を覚悟していたが、予想に反し、禁固10年の判決であった。彼はこの判決を受け入れた。処刑される若者たちを彼らの両親に代わって見守ることは、自分に課せられた義務であると考えたからである。ラバウルでの今村の戦いは終わった。自分の責任を明確にし、部下の罪を少しでも軽くしようとした努力は、日本兵に勇気と感動を与えただけではない。豪軍も今村に敬意を表し、尊敬心を持って遇した。
今村が日本への帰国を果たしたのは、1950年1月。残りの刑期を巣鴨刑務所で過ごすためであった。すでに年齢は63歳、7年半ぶりの帰国である。しかし、彼はここで驚くべき行動に出た。刑務所長に何度も面会を求め、マヌス島への移送を頼み込むのである。
マヌス島は、ニューブリテン島の北西にある島で、豪軍の収容所があり、彼の部下が戦犯容疑で多数収容されていた。彼は以前、部下であり、マヌス島に収容されていた畠山国登から手紙を受け取っていた。重労働、粗食、非衛生で病人が続出。このままでは半数も生きて祖国に帰ることができないという。彼らを見捨てることはできない。命ある限り彼らと行動を共にするのが自分の義務であり、運命であると彼は感じていた。
今村は粘り強く自身のマヌス島移送を訴えた。帰国して1ヶ月後、今村は家族らに見送られて、横浜港を出港した。この時、マッカーサーは次のようなコメントを述べたという。「日本に来て以来はじめて真の武士道に触れた思いだった」。
マヌス島に到着した今村を戦犯容疑者たちは大歓声で迎えた。彼らは今村を囲んで、その夜、明け方まで語り明かしたという。彼に手紙を書いた畠山は、「この日の嬉しさは生涯忘れられない」と語っている。
釈放後も自己幽閉
1953年7月豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖したため、全員帰国となる。残りの刑期を巣鴨刑務所で過ごし、出所したのは1954年11月。今村の獄中生活は実に9年の長きにわたった。自宅に戻ったのは、ラバウル出征以来、12年ぶりのこと。しかし、彼の戦後はまだ終わってはいなかった。自宅の庭の隅に建てさせた3畳一間の小屋で独居生活を始めたのである。部下を死地に追いやった罪責の念を抱いた自己幽閉なのであろう。刑務所の延長のような生活を始めるのである。
小屋を出るのは、戦犯刑死者の遺族を訪ねるとき、それと旧部下の支援のために動くときに限られていた。今村の家に旧部下がよく訪ねてきた。中には怪しげなものもあり、明らかに今村を騙そうとするものが少なくなかった。知人が見るに見かねて、「騙されてますよ。相手の話をまず確かめるべきではないですか」と助言した。今村は、「それはわかっております。だが、戦時中、私は多くの部下を死地に投じた身です。だから、生きている限り黙って旧部下に騙されてゆかねば……」。彼は、脳卒中で倒れた後でも、不自由な足を引きずりながら、旧部下たちの支援のために奔走した。
1968年10月4日、ついに今村の休息のときが訪れた。享年82歳。安らかな最期であったという。晩年の今村は「生き身のまま仏様になってしまった」と言われた。友人は今村の死顔を見ながら言った。「とうとう本当の住み家に帰ってゆくのか。もう自分を責めたりしないで、のんびり休みたまえ」。
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