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ドナルド・キーン

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ドナルド・キーン  



日本留学期間中、洋食を断つ 
三島由紀夫との深き友情  二つの母国を持つ幸せ 

シリーズ第二回の今号では、アメリカ人でありながら、日本と日本文化をこよなく愛し、翻訳を通して日本文学を欧米に紹介してきたドナルド・キーン氏を取り上げる。1953年に氏は京都大学に留学し、生涯の友である作家・三島由紀夫と出会うことになる。

日本の全てを吸収したい

 ドナルド・キーン氏は、1年のほぼ半分を日本で過ごしている。なぜ、それほど多くの時間を日本で過ごしたいのかという質問に対して、表向き「日本でしか手に入らない貴重な資料が必要だから」と答えるそうだ。
 しかし母校のコロンビア大学の図書館にもないような資料が必要になることはめったにない。氏の本音は、「ニューヨークよりも
日本にいるときの方が、幸せな気持ちになれるからだ」と言うのである。
 氏の関心は、専門の日本文学のみにとどまらず、日本文化のあらゆる側面に向けられている。「日本の食べ物を食べたいと思い、歌舞伎を見たいと思い、相撲のこともいろいろ知りたいと思い、祭り見物もしたいと思うのでなければ、専攻する分野でどれほど優れていようと、第一級のジャパノロジストにはなりえない」。日本文化の全てを吸
収したいという氏の欲求を満足させるためにも、多くの時間を日本で過ごすことが最高の方途であった。
 1953年から2年間、氏は京都大学に留学した。日本文化を吸収しようとする姿勢は徹底していた。この2年間一切洋食を口にしなかったのだ。日本食を本当においしいと思うようにならない限り、日本文化を十分に理解できるわけがないと思っていたそうである。
 普通人は年を取ると、成長期に食べた料理の味、つまり「おふくろの味」を恋しくなるものだ。しかし、氏にとってこれは当てはまらない。「私が何か食べ物が恋しくなるとすると、それは決まって和食なのである。もしかしたら、私は前世において日本人だったのだろうか」と述べているほどである。日本はもう一つの母国だったのである。
 日本文化に対する氏の好奇心は、少年の頃に芽生えたものである。ニューヨークの街を歩きながら、看板などに書かれている漢字という不思議な文字に魅せられた。ニューヨークの薄暗い地下鉄の座席に座りながら、自分が採集してきて書きとどめた漢字を見つめ、その不思議な魅力と遠い未知の文明を思ったという。感受性豊かな少年の知的好
奇心は生涯消えることはなかった。

三島由紀夫との出会い

 留学で得られるものは、より高い学問レベルに触れて、自らの学識を磨き上げることだけではない。自国にいては絶対にできない異文化体験。あるいはその国の人々との出会い。これらの体験が、その人の人間性を幅広くすることは間違いない。
 キーン氏が留学した1953年頃の日本には、日本文学を目指そうとする外国人はほとんどいなかった。そのために日本のほとんどの有名作家に会う機会に恵まれ、数人とは非常に親しく交わることができた。中でも三島由紀夫との出会いは、氏の中に忘れることができない思い出として残っている。
 三島と出会ったのは、54年の秋。三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突入して、切腹して自害するのが70年の秋であるから、16年間三島との友情が続いた。氏は三島を称して天才だと言って、はばからない。「彼の圧倒的才能には絶えず驚かされた」と言う。
 氏のその頃の問題意識は「日本の古典文学に若い作家たちを刺激する力が依然としてあるかどうか」ということであった。大方の意見は、若い作家は能や歌舞伎などの古典演劇には興味を失っているというもので、氏を失望させた。しかし三島だけは例外だった。
 三島は歌舞伎の台本を書くことができた。そればかりではない。平安朝の物語であろうと幕末の志士の檄文であろうと、現代サラリーマンの会話であろうと自由自在に書き上げることができたのである。
 はじめて三島と会った日から、ふたりはすっかり打ち解けた。その後も話題がなくて困るということは一度もなかった。京都から東京に出るときには、三島は必ず駅まで迎えに来てくれたという。留学を終え、日本とアメリカを往復する生活が始まってからも、来日の折りには、三島は必ず氏を空港まで迎えに来てくれたそうである。
 最後に三島に会ったのは、70年の9月。氏が自害する2ヶ月前で、ニューヨークに戻る時であった。午前10時に、見送りために空港に駆けつけてくれた。三島は夜中から朝の6時まで原稿を書くのが日課であったから、彼の見送りは予想していなかった。目を充血させ、無精ひげをはやしたままだった。これが最後の別れとなることを三島は知っていたのである。
 氏は言う。「私はほとんど毎日のように彼のことを思い出す。言うまでもないことだが、人はそれぞれにかけがえのない存在である。しかし、三島の死は私の心に、どう埋めようもない穴をあけたのである。」

二つの母国

 氏にとって日本は「精神的に育ててくれた」もう一つの母国であった。母国を二つ持つことは、決して不幸なことではなく、むしろ幸せなことだと氏は断言する。日本人もアメリカ人も祖国愛は強い。しかしその裏にある祖国観は異なる。
 日本人は自らを異質な民族だと考え、日本人でなければ日本の風土や文化を理解できないと考えている。アメリカ人は、自国の文化を普遍的なものと考え、他国人はそれを理解して同調するはずだと思い込んでいる。氏はこのどちらも間違いだと言う。キーン氏は、日本人のような外国人であり、外国人のような日本人なのだ。21世紀は偏狭なナショナリズムを超える時代とすれば、氏はその先駆けと言ってもいいだろう。




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