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細胞シート工学 


接着力を持つ細胞シート  移植部に載せれば治療完成


 今月は、「細胞シート工学」の開発者である東京女子医科大学先端生命医科学研究所長の岡野光夫氏にお話をうかがった。


細胞をシート状に培養


――「細胞シート工学」とはどのようなものですか。
 岡野 再生医療の一手法として我々が提唱しているもので、国際的にも注目を集めているユニークな方法です。人間の体の組織や臓器はシート状の細胞からできている構造が基本であり、いろいろな形状に折り重なって血管や臓器などの立体的な組織ができていると考えることができます。それで我々は、細胞のシートを培養で作り、それを培養皿から剥離し、動かし、重ねることができる技術を世界で初めて作り上げたのです。今ではその細胞シートを用いて皮膚や角膜、歯根膜や、心臓の筋肉などを作ることができます。さらに、性質の違う細胞シートを組み合わせて肝臓や腎臓といった複雑な組織を再生することも可能になりつつあります。細胞シートは片面が糊となる接着たんぱく質を保持していますので、移植部に直接貼って体と一体化でき、角膜上皮移植では、数分程度で接着するので手術時間も大幅に短縮できます。


ドナー不足を克服


――細胞シートを用いた治療の実例は。
 岡野 ザルツマン変性症といって、目の透明な角膜部分が濁り、結膜組織が入ってきて目が見えなくなってしまう病気があります。その治療には角膜の移植以外方法がないのですが、現在日本では角膜のドナーが圧倒的に不足しています。というのもドナーが死んでからでないと角膜が取れないからです。それで私は、黒目と白目の間にある輪部の細胞を2㍉程度取ってきて、1つの移植角膜を作ることに成功しました。2㍉程度の細胞ならば提供した人も1日ですぐ直ってしまい何の障害も残りません。現在阪大の西田講師と共同で臨床応用を進めており、すでに20人近くの方を治しています。手術で外側の濁った細胞層を外し、そこに細胞シートを載せるだけで治療が完成する点は画期的で、治療後は1年たっても透明のままです。
 さらに我々は、心臓の細胞シートを何枚か重ねると、一枚の心筋シートとして同期して拍動することを発見しました。この心筋細胞シートを心筋梗塞の治療に用いる日もそう遠くはありません。心筋梗塞は心臓の血管が詰まって、下流に血液が行かなくなり筋肉が動かなくなる病気です。最近ではその治療に筋肉の細胞を注射して血管を再生させる試みも行われていますが、細胞を多数移植してもほんの少し(10%程度)しか生着しないようです。しかし細胞シートを使えば細胞シートを確実に100%貼り付けることができます。今まで心臓が悪くなったら丸ごと取り替えなければならなかったわけですが、悪くなった場所にだけ貼り付けて治療してしまうことも将来可能なのです。


再生医療で社会を豊かに


――再生医療が拓く医療の将来は。
 岡野 我々はこの社会を豊かにするために再生医療に取り組んでいます。目の見えない人が見えるようになり、心臓病で倒れた人がマラソンに参加できるようになればすばらしいことです。今まで治せなかった人や寝たきりの人を治せるようにすることは、QOL(クオリティーオブライフ)の向上に寄与します。私は人間の寿命は80年なり90年なりのある期間でいいと思っていますが、生きている以上はずっと寝たきりではなく、ちゃんと目が見えて歩けて、家族と遊んだり旅行できたりする体にしておけるような医療を目指しているのです。そのために今まで薬では治せなかった病気を、細胞シートを使った再生医療で治療しようと考えているのです。薬での治療が当たり前だった時代から、今ではバイオテクノロジーによってたんぱく質やホルモンで治療する時代になりましたが、これからはさらに、細胞や組織で治療できる時代になってきます。細胞には自分で様々なものを作ったり、隣の細胞を刺激したりする性質があり、組織や臓器はそれを用いて体に必要な生理活性物質をより巧妙に出し入れする高度な仕組みを作っているのです。そういう組織や臓器を用いれば、今までできなかった治療ができるようになります。


――医療のあり方が大きく変わりそうですね。
 岡野 だからこそ、安心して任せられる医療をこの国に作り上げなければなりません。今まで日本の医療は目の前の患者を治すことに重点を置いてきました。しかし5年後10年後の患者を誰が治すのかということもまた問題です。現時点で治らない病気を治せるようにする研究を誰かがしていかなければなりません。そこで当研究所には眼科や口腔外科、泌尿器や循環器など様々な専門分野の医者が集まり、さらに工学系や理学系の研究者、各国からの留学生などが一体となって、5年後10年後の患者を治せる医科学と新技術を作る研究をしています。未来の患者を救うことこそが、当研究所の使命なのです。そのため工業や産業から生まれてくる新しいテクノロジーをタイムリーに医学に取り入れ、従来のタテ型の研究スタイルではない『集学的』アプローチで学際性の高い領域の研究に取り組んでいます。このような研究所は世界にもあまり例がありません。