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秋山好古

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秋山好古 
(あきやまよしふる)

武士道を体現した人生
世界最強のコサック隊を破る  無私無欲の人生

  日露戦争を勝利に導いた立役者の一人、秋山好古。彼は軍人というより、武士であり、武士道という日本精神の体現者の一人であった。日本騎兵を養成するというたった一つの目的のために自分の人生を捧げた。フランスへの留学後、騎兵養成の使命感を明確に自覚して帰国した。

日露戦争で活躍

  秋山好古という名前を聞いて、いかなる人物かを即答できる者は日本人の中でも、そう多くはあるまい。当然、留学生にとっても馴染みのある人物ではない。彼は明治時代の軍人であり、日露戦争を日本の勝利に導いた立役者の一人である。とすれば、アジアの留学生の中には、本稿でこの人物を取り上げることに不快感を抱く人もいるかもしれない。この戦争の後、日本は朝鮮半島を日本の植民地として支配下に置いてしまったからである。
  しかし、本稿で日露戦争時に活躍した軍人を取り上げるのは、戦争を美化するためでも、植民地政策を正当化するためでもない。秋山好古という一人の日本人が、どのような精神で明治の時代を生き抜いていったかを紹介してみたかったからに過ぎない。彼は軍人というより、武士である。武士道という日本精神の体現者の一人であった。その人物の職業がたまたま軍人であり、職場が戦場であったのだ。
  1904年の日露戦争は、東洋の一角にある片田舎の日本がはじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をした戦争であった。奇蹟とも言われた勝利を勝ち取った要因は、いくつか上げられるが、主な要因は世界最強の騎兵と言われたロシアのコサック騎兵集団を撃ち破ったこと。それとロシア海軍の主力艦隊を日本海海戦で撃破したことである。
  秋山好古は世界最強のコサック騎兵集団と戦った日本騎兵の隊長であった。彼はひ弱な日本騎兵を率いて勇敢に戦い、かろうじて敵をやぶった。またもう一つの勝利、日本海海戦は東郷平八郎率いる連合艦隊の作戦勝ちとも言われている。この作戦を立案した人物が好古の弟秋山真之であった。作家の司馬遼太郎は、この二人の兄弟と正岡子規の三人を主人公にした小説『坂の上の雲』を書き、その中で「この兄弟がいなければ日本はどうなっていたかわからない」と語っている。

陸軍士官学校騎兵科へ

  後年、「日本騎兵の父」と呼ばれるようになった秋山好古の騎兵との関わりは、たわいのないものであった。陸軍士官学校入学時に、騎兵科は砲兵科や工兵科より修業年限が1年早いことで決めたのである。卒業が早ければ、給料も早くもらえる。家が貧乏であったので、この選択に迷いはなかった。
  好古が士官学校に入ったのは、1877年(明治10年)の5月、19歳の年。士官学校ができてまだ3年も経っていなかった。陸軍それ自体もきわめて脆弱な基盤しか持ち合わせていない時期であり、騎兵科など有って無きがごとき存在であった。
  この彼が、貧弱な騎兵の改善と進歩に熱い情熱を傾け、騎兵の養成に本格的に取り組むようになったのは、フランス留学がきっかけであった。「俺が日本の騎兵を作る」。好古は明確な使命を自覚して、フランスから帰国した。

フランス留学

  好古がフランスに留学したのは1887年のことで、29歳になっていた。松山藩(現愛媛県)の旧藩主・久松定謨がその前年にフランスに遊学しており、87年にフランスの士官学校に入学することになった。そのため同郷の軍人を補佐役として派遣する話が郷里で持ち上がり、好古が抜擢されたというわけである。
  この時代、まだ武士の主従関係は根強く残っていた。秋山家は先祖代々、藩主久松家に仕えてきた旧臣である。碌を食んできた恩をあだで返すわけには行かない。好古は迷う気持ちを振り切って、フランス行きを決断した。
  当時好古は東京鎮台参謀という軍の要職にあった。その地位を捨てての留学である。軍の要請から出たものではない以上、軍での栄達をあきらめるしかなかった。その上、その当時、陸軍の軍制はドイツ式に一新されており、フランス留学は時代錯誤の感があった。それゆえに彼の留学をとめようとする者も少なくなかったのである。しかし、彼は決して落胆してはいなかった。フランスには騎兵の伝統があり、学ぶべき点が多くあるはずと感じていたからである。
  パリに着いた好古は、ヨーロッパ文明の巨大な富と技術の集積に、しばしぼう然とする。東洋の後進国日本から、一気に世界の文化都市パリに足を踏み入れたのである。見る物、聞く物すべてが驚きで、当初一人で街を歩けないほどであったという。

騎兵に関する全てを学ぶ

  好古のフランス留学は4年半に及んだ。当初、彼の留学は上記のいきさつから私費留学という立場であった。しかし2年半ほど経った頃、官費留学に切り替えるという命令を受け取ることになった。将来を嘱望された現役将校が私費留学では、かわいそうだという同情論が陸軍内部から起こってきたためである。
  そのために彼に下された命令は、フランス騎兵の戦術、内務、経理、教育などを調査し、研究せよというものであった。つまり日本の騎兵建設に関する調査をすべて、好古に委ねるということなのである。
  好古が努力したことは、まずフランス馬術の真髄を身につけることであった。なけなしの金をはたいて馬を一頭購入したほどであるから、彼の習得意欲は徹底していた。ここに一つの問題があった。先に述べたように日本陸軍の軍制がフランス式からドイツ式に切り替えられ、騎兵の分野も例外ではなかった。しかし、こと馬術に関してはドイツ式とフランス式では、まるで違っているのである。
  ドイツ式は硬直美を追究するのに対して、フランス式は柔軟、かつ自然体であることを本則としていた。たとえばドイツでは馬に乗ったとき、膝を後ろに引き、膝から下はそれよりさらに後ろに引いてしまう。そうなると騎手は弓なりになり、見た目には凛々しく、威風堂々たる姿となる。しかしこれでは人間の姿勢としては不自然で、長時間の騎乗にどうしても無理がかかり、疲労がはなはだしい。
  一方フランスは、騎手の姿勢を馬の運動リズムに沿うようにしており、足も後ろに引くという無理な姿勢を取らず、自然に垂れさせている。長時間の騎乗にできるだけ耐えるように考えられているのである。
  好古の留学目的は、単にフランス騎兵に関する調査研究だけではなかった。帰国後、日本の騎兵建設に具体的に責任を持って取り組まなければならない。「それをやれるのは、自分しかいない」と考えていた。安易な妥協は許されないのである。フランス式でも良いものは良い。ドイツ式でも悪いものは悪い。
  彼は、欧州視察でフランスに立ち寄った内務大臣の山県有朋に直訴してまで、フランス式馬術の優位性を主張した。山県の返事は「考えておく。そのことをさらに研究しておくように」という素っ気のないものであったが、秋山好古という人物に注目したことだけは確かであった。好古が留学を終えて帰国した後、若干33歳の彼に日本の騎兵建設の全てを任せることになるのである。

生涯一事

  「男子は生涯一事をなせば足る」とは、秋山好古の口癖であった。この一事とは、彼にとって日本騎兵の育成に他ならない。欧米列強に引けを取らない騎兵を作り上げること。このたった一つの目的が彼の全人生を支配したと言っても決して過言ではない。彼の価値観は実に単純明快であった。この一事が全てであり、それ以外に関しては、何事にも実に淡泊であり、物や金銭には欲や執着心が全くといっていいほどない。
  日清戦争終了時、共に戦った部下たちと輸送船に乗り込み、途中広島で宿営したときのことである。彼は副官を呼びだし、彼の行李を開けさせた。中には、彼自身の給料袋数ヶ月分がそのまま手つかずで入っていた。戦地ではほとんど金の使い道がないからだ。副官に「だいぶあるな。みんなで凱旋祝いでもやるがいい」と言って全額渡してしまった。
  物や金銭に無頓着なだけではない。自分の命に対しても同様であった。敵の弾丸が飛来する中で、彼は身を隠すこともなく全軍の指揮を執った。敵陣に50メートルほどまで近づいての敵情視察など、隊長である好古自らがしばしば行った。前方には遮る物が何もない平地である。当然部下は必死に止める。しかし彼は軽くうなずくだけで、弾雨の中に飛び込んでいくのであった。
  晩年、好古は乞われて郷里の中学校の校長を勤めることになった。陸軍大将まで昇りつめた人物が、地方の中学校の校長になるなど、当時の常識ではあり得ないことであった。しかし、名利や面子などとほとんど無縁なこの男は、「俺は中学のことは何も知らんが、他に人がいなければ、校長の名を出してもいい。日本人は少し地位を得て退職すると、遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立つなら何でも奉公するよ」と言った。
  好古の校長在職は6年以上に及んだ。しかし決して名前だけの校長ではなかった。その間、一日も休んだことはなく、遅刻もなかった。彼の72年間の生涯は、一事の大切なことのためにあったということを後世に示した人生であった。



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