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朝河貫一

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朝河貫一 
(あさかわかんいち)

在米50年の世界的歴史学者
ニックネームは「さむらい」  軍部の暴走は武士道の逸脱

  歴史学者朝河貫一は、日露戦争を19世紀のヨーロッパ型外交に一撃を与え、日米が主役となって東洋と世界の新しい秩序をもたらす契機と捉えていた。日本とアメリカ、二つの祖国での生活を通して抱いた平和の夢。これは早すぎた夢であった。しかし消えたわけではない。21世紀に宿題として残されている。

愛国の歴史学者

  朝河貫一は、著名な歴史学者である。しかし、今日彼の名を知る日本人は少ない。明治時代に22歳でアメリカに渡り、以来50年に及ぶ在米生活を送り、アメリカで一生を終えたせいでもあろう。
  当時、朝河は今世紀最大の比較法制史学者と評され、ヨーロッパ的な学問の方法を身につけた希有な日本人であった。専門はヨーロッパ中世史であったが、彼の関心は祖国日本の姿に常に向けられていた。歴史学を専攻した動機は、「歴史学研究によって日本に報恩しようと決意した」と日記に記している。
  また、在米50年間で帰国したのはわずか2回にすぎなかったが、その精神は愛国心に溢れていた。日露戦争時には欧米に向けて日本の立場を弁護し、戦争後には際限なき日本の大陸進出を憂い、日本に警鐘を鳴らし続けた。
  アメリカにいたからこそ、朝河には見えていたものがあったのだ。日本軍の暴走と国民の熱狂。国内にいては、その行き着く先は見えない。朝河には滅び行く祖国の未来が見えていた。

神童と呼ばれた学童期

  1873(明治6)年12月福島県の二本松町に、朝河正澄、ウタを父母として、長男貫一は生を受けた。論語の「吾が道、一をもってこれを貫く」という言葉から貫一と命名したと言われている。しかし、生活苦と虚弱体質の故か、母ウタは貫一が2歳になったばかりの頃、息子への思いを残しながら他界した。
  朝河貫一にとって幸いだったのは、父が後妻として迎えたヱヒが慈愛に満ちた女性であったことである。この義母のおかげで、それまで遅れていた貫一の体躯、言語機能が人並みに改善された。また教師であった父は、5歳になったばかりの息子に『近古史談』、『日本外史』をはじめ、儒教の「四書五経」などを教え始めた。父の教育、本人の勉学、読書などにより、7歳前後ですでに12、13歳の学力レベルに達していたので、人々から「神童」と呼ばれるようになっていた。
  中学校の卒業式で首席卒業の朝河が総代に選ばれ、答辞を読むことになった。当日彼の口から出てきたのは、流暢な英語の演説。参加者は度肝を抜かれた。中でも英語教師のハリファックスは、朝河の文章の見事さに感動し、「やがて世界はこの人を知ることになろう」と語ったと言われている。
  英語に関して言えば、朝河には一つのエピソードが残されている。彼は毎日2ページずつ英語の辞書を暗記した。そして暗記し終えたページを1枚ずつ食べていったというのである。こんなことで彼は「辞書食い」とあだ名された。そして、すべて食べ終え、食べ残ったカバーを校庭の桜の木の根元に埋めたので、母校ではその桜の木を「朝河桜」と呼んでいるということである。

アメリカ留学へ

  1895年7月に東京専門学校(現早稲田大学)を首席で卒業した朝河貫一は、同年12月に米国留学のため横浜を出港した。渡航に力を貸したのは、その2年前に彼に洗礼を施した牧師、横井時雄である。横井は若くしてアメリカに渡ったパイオニアであり、帰国後牧師となり、思想家として知られていた。朝河の留学への決意が固いのを確認して、何かと便宜を計ってくれた。特に、94年に再度渡米した際、友人のタッカー(ダートマス大学学長)に朝河の留学を頼み込み、学費、舎費を免除する約束を取り付けていた。
  この横井およびタッカーとの出会いが朝河の人生に大きな影響を与える。特にタッカーは朝河のアメリカでの庇護者であり、終生彼が恩人として仰いだ人物であった。他には大隈重信、徳富蘇峰、勝海舟、坪内逍遙など錚々たる人々が彼の渡航を援助した。朝河の苦学に同情したからであり、何よりも彼の才能、語学力に期待を寄せたからである。卒業成績は、平均94点余りという他を寄せ付けない図抜けたものであった。
  船上で22歳の誕生日を迎え、12月26日にサンフランシスコに上陸。翌96年正月にニューハンプシャー州ハノーバーに到着。朝河が入るダートマス大学はこの町にあった。「もし宇宙に道というものが存在するならば、自分はその光明に向かって、勇猛心をふるい精進するであろう」。これは送別会で友人たちに語った彼の言葉である。その後、50年に及ぶ在米生活を通して、彼は「宇宙の道、光明」の中に自らを置こうとし、歴史学を通して闇を照らそうとした戦いの日々を送ることになる。

愛国心の発現

  ダートマス大学での朝河の成績は、生活苦、習慣の違い、英会話力の不足などでずいぶん苦労の多いものであったにもかかわらず、常に最優秀であった。父は貫一に「日本青年の代表というつもりで行動せよ」と手紙に書き送っている。父から言われるまでもなく、朝河は常に日本を背負って生活していた。教授たちは朝河の学力ばかりでなく、その勤勉、誠実な人格に賛辞を惜しまなかった。同級生も東洋の一角から訪れた留学生を「さむらい」と呼んで、一目置いたと言われている。
  ダートマス大学卒業後、エール大学の大学院歴史学科に入学した。ここを優秀な成績で卒業後、母校ダートマス大学の講師として迎え入れられ、東洋史と東洋文明、東西交渉史などを講義した。1902年のことで、28歳であった。
  1904年2月、日露戦争の勃発。朝河はアメリカで祖国の危機を知ることになる。彼の愛国心は彼に傍観者たることを許さない。祖国の危機を救うため、彼が取り組んだことは、英文の著書『日露衝突』をアメリカとイギリスで出版することであった。これは開戦9ヶ月後の11月には完成した。この本は、開戦に至る両国の衝突の原因を客観的、学問的に述べたもので、朝河自身の言葉によれば、「開戦当時にあっては、欧米人の日本に対する感情が揺れ動いていて不安定であったので、少しでも正しい見解が生まれることを願って」書かれたものであった。朝河は信じていた。「日本は自国の存亡のために宣戦したのだ」ということを。
  著作だけではない。彼はアメリカ各地で日本弁護の講演を行った。この講演は大変好評を博し、アメリカの国民世論を日本に向けさせる一助になったと言われている。日露戦争は、アメリカの仲介もあって日本の勝利で幕を閉じた。1905年8月講和条約締結に際し、ポーツマスに朝河はオブザーバーとして参加した。その2ヶ月後の10月、ミリアムという26歳のアメリカ人女性と結婚。日本の勝利と結婚。人生の最も高揚した時期であり、このとき朝河は31歳である。

日本への警告『日本の禍機』

  朝河の高揚の時は長くは続かなかった。戦後の日本の選択は、朝河の主張と全く異なる方向を目指すものであった。朝河の主張はこうだ。日本は、二つの原則を掲げてロシアの膨張主義を批判し、開戦に踏み切った。二つの原則とは、「清国(中国)の領土保全」と「満州、韓国における列国の機会均等」である。アメリカもこの二つの原則を支持したがゆえに、日本擁護に政策の舵を切った。しかし、その後実際に日本が取った政策は、韓国の植民地化と満州における利権の排他的独占であり、中国の主権を脅かそうとするものであった。
  朝河の目には、一連の日本の行動は、アメリカや国際社会への裏切りと見えた。それに何よりも、朝河自身が歴史学者として夢見た東洋の新しい秩序に対する裏切りであった。植民地争奪戦で明け暮れた19世紀のヨーロッパ。日本は、そうした19世紀型の旧外交に一撃を与え、20世紀の新外交、東洋の新しい秩序と平和をもたらす主役となるべきである。朝河はこう信じていた。にもかかわらず、日本は東洋の平和を攪乱する主役に躍り出てしまったのである。
  朝河には、アジアにおける日本の孤立と、太平洋を挟んでやがて生ずる日米の衝突が、確実に見えていた。日本の本質的な危機である。愛国心が再び彼を駆り立てる。日露戦争時に、日本を弁護するために奔走した以上の情熱をもって書き上げた書物が、『日本の禍機』であった。実業之日本社から日本語で出版された。日本人に向けて発せられた警告の叫びであり、愛国の書であった。

妻の死、日本の敗戦

  第一次世界大戦時(1914年)、日本は中国に21ヶ条要求を突き付けた。それまでドイツが中国に持っていた権益を火事場泥棒のように奪おうというものである。誇るべき日本の武士道に反する卑劣な行為に思われた。
  その前年、最愛の妻ミリアムが34歳の若さで世を去っていた。わずか8年間の結婚生活であり、二人の間には子供はいなかった。告別式の後、一人きりになって彼は声を上げて慟哭したという。妻を失った寂しさ、それに追い打ちをかけるかのように、愛する祖国日本が朝河から離れていく。朝河の苦悩は深刻なものとなった。
  日露戦争時、日本を弁護しながらも、朝河には一抹の不安があった。朝河が上げた二大原則を日本が守るだろうか。大国ロシアに勝てば、その勢いで自国の利益を拡大することのみを愛国的行為と思う者が増えるのではないか。朝河の不安は的中した。
  軍部の暴走を誰も止められない。事態は最悪のシナリオに向かって流れていった。日米戦争、二つの祖国同士の衝突であった。どうしてもこの戦争を避けなければならない。万に一つの可能性があれば、それにかけたい。彼は渾身の力と祈りを込めて、ルーズベルト大統領に、天皇へ平和を呼びかける親書を送ることを提案し、その草案を書いた。しかし、その親書が大統領から日本に届いたのは、不幸にも真珠湾に向けて第一攻撃隊が出発した直後であった。
  39歳で妻を失って以来、74歳で人生の幕を下ろすまで、朝河は生涯独身を貫いた。定年後は、朝6時から夜8時まで机に向かうことを自分自身に課していた。修道士を思わせる生活ぶりであった。また亡くなる数年前から、懐かしい妻の面影をたずねるかのように、妻との思い出の場所を散歩したという。一緒に暮らした家、二人で歩いた公園、二人で座ったベンチ、妻との楽しかった思い出をたどりながら、しばしば涙ぐんだ。
  晩年の朝河は、亡き妻への忘れがたき思慕の念を抱きながら生活した。同時に、祖国の死を見届けながらも、最期まで「さむらい」の精神を捨てることがなかった。1948年8月11日、日本の蘇生と世界の平和を祈りながら静かに永遠の眠りについた。



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