Top>向学新聞現代日本の源流>浅川巧


浅川巧 
(あさかわたくみ)

朝鮮民族博物館設立に奔走
「朝鮮の人々に済まない」  薄給の中から奨学金を出す

  植民地朝鮮に渡った浅川巧。時流に抗い、彼は朝鮮の人々の心を理解しようとし、彼らに味方しようとさえした。それ故に、彼を知る全ての朝鮮の人々から愛された。今日、日本人の多くは彼を知らない。しかし、日韓・日中の難しい関係が続く中、彼の生き方に日韓の未来を築く精神が示唆されているように思われる。

朝鮮を内から知った者

  今回取り上げる浅川巧には、地位も学歴も富もあるわけではない。日本が朝鮮(当時の一般的な呼び名)を統治していた時代に、朝鮮に渡った一役人(朝鮮総督府勤務)にすぎない。しかし、ほとんどの日本人が、朝鮮の人々から憎悪の対象となっていた当時にあって、浅川巧だけは、彼が住む町のすべての人々から慕われ、愛された。そしてその名を知らぬ者はいなかったと言われている。
  何故だろう。答えは簡単だ。彼が朝鮮を心底愛したからに他ならない。朝鮮の人々を愛し、朝鮮文化、朝鮮芸術に心酔した。彼のハングルは、現地人が舌を巻くほどであり、朝鮮服のパジ・チョゴリを着て街を歩いても、少しも不自然さを感じさせない。日本人から、「あの朝鮮人は、ずいぶん日本語がうまいね」と言われることもあったという。
  彼の総督府での主な仕事は、林業試験場で養苗実験に従事しながら、朝鮮の山に植林することであった。その仕事のかたわら、彼は民芸運動家である柳宗悦を助けて、なけなしの金で朝鮮の工芸品、民芸品を買い集めた。朝鮮民族博物館の設立のためである。その博物館を通して、彼は虐げられていた朝鮮の人々を激励したかった。さらに日本人と朝鮮人がその場で親しく交わることを祈願してのことであったのだ。
  柳宗悦は浅川巧を追悼する雑誌に一文を寄せて、「あんなに朝鮮のことを内からわかっていた人を私は他に知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうして本当に朝鮮人から愛されたのである」と書き、浅川の死を「取り返しのつかない損失である」と嘆いた。

朝鮮との出会い

  浅川巧と朝鮮との出会いは、兄である伯教を通してである。1891年1月に現在の山梨県高根町で生まれた巧は、その半年前に父を亡くしていた。父代わりであった祖父も、彼が10歳の時に世を去った。以来、7歳年上の兄伯教は、事実上巧の父代わりでもあったのである。
  教員となった兄は、県立の農林学校に弟を進ませ、その学費をはじめ一切の面倒をみた。弟を慈しみ、兄を慕う二人の関係は、傍目から見ても麗しく、その兄弟愛は終生変わらないものであった。その兄が1913(大正2)年5月、朝鮮半島に渡った。
  朝鮮陶磁器との運命的な出会いを感じていた伯教は、朝鮮に強い憧れを感じており、朝鮮に渡る日を夢見ていたのである。当時すでに巧は農林学校を終え、秋田に職を得ており、兄から自立していたことも、伯教の決断を促した要因であったろう。
  兄が朝鮮に渡ってちょうど1年後の1914年5月、巧は兄を追うようにして、朝鮮の土を踏んだ。彼が朝鮮で得た職は朝鮮総督府農商工部山林課で、京城(現ソウル)郊外にある林業試験所に配属された。彼が取り組んだ仕事は植林。至るところ赤土がむき出しとなっている朝鮮の禿げ山に緑を取り戻すことであった。

「朝鮮のお役に立ちたい」

  朝鮮での浅川巧には、仕事や生活全般にわたって見受けられる一貫した姿勢がある。それは、「自分が朝鮮にいることによって、何か朝鮮のお役に立ちたい」というものである。彼は柳宗悦宛の手紙に次のように書いた。「私ははじめ朝鮮に来た頃、朝鮮に住むことに気が引けて、朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました」。
  彼が渡った時期の朝鮮では、日本は武断政策を施いており、朝鮮民衆は被支配民としての苦渋を味わっていた。感受性豊かな巧は、自らを支配の側にいる者として彼らの前に出ることに耐えられなかった。「朝鮮の人々に済まない」と感ずる彼の感性は、彼らの側に身を置くことでしか、平安を感ずることができないのである。彼らの友となり、家族となって、彼らのお役に立ちたい。この姿勢は短い彼の生涯において、実に貫かれている。
  植林事業に情熱を燃やしたのも、朝鮮民族博物館設立に奔走したのも、自分のできることで朝鮮のお役に立てる方法と考えていたからである。
  朝鮮に渡った巧が真っ先に行ったことは、朝鮮語の習得である。巧は、兄と共に敬虔なクリスチャンであった。宣教師は異国に入るとまず言葉を勉強する。彼はそういう宣教師に倣って、必死に朝鮮語を学んだ。日本人の大半が、朝鮮の日本への同化を考えていた時、巧は朝鮮の人々に同化することを自らの理想としていた。生活全般を朝鮮風にしていたほどであったのである。

朝鮮芸術との出会い

  兄を通して朝鮮を知り、朝鮮芸術を知った巧は、柳宗悦と出会うことによって、その審美眼にさらに磨きをかけることになる。二人の二人三脚が始まった。柳は巧を通して、朝鮮美の背後の民衆の心を知り、巧は柳を通して、芸術の何たるかを学ぶことになる。そこから生まれたのが、生前の唯一の書『朝鮮の膳』、それと遺稿としてまとめられた『朝鮮陶磁名考』である。これらは今なお高く評価されている。
  浅川巧は家庭的には決して恵まれた方ではなかった。生まれた時、すでに父はいない。「もし父さんの顔が見られたら、目が一つつぶれてもいい」と語ったことがあるという。朝鮮に渡った2年後、農林学校時代の親友の姉と結婚した。しかし、二人の生活はわずか5年を数えたにすぎない。妻は4歳になっていた女児を残して他界。子供を山梨にある妻の弟夫婦に預けざるをえなかった。
  寂しく切ない彼の心を慰めたのは、常に朝鮮の芸術であった。父を求める情、妻を失った寂寥感、それと娘と離ればなれで暮らさざるをえない寂しさ。巧のこうした情念と朝鮮芸術とは深いところでつながった。だからこそ、それまでつまらないものとして誰も評価しなかった朝鮮の工芸品などに新しい美を発見しえたのだ。
  人は家族を必要とするように、巧は朝鮮美を求め、それを愛した。そして妻を失った心の空白を埋めようとするかのように、柳宗悦と共に朝鮮民族博物館設立にのめり込んでいくのである。1924年、念願かなってついにその設立を見た。

若すぎる死

  1931年4月2日、浅川巧はその短すぎる生涯を終える。急性肺炎によるもので、40歳の若さであった。巧の死が彼が住んでいた清涼里の人々に知らされたとき、彼を知る朝鮮の人々が群れをなして彼に別れを告げに集まり、彼の遺体を見て慟哭した。
  巧を知る村人30人が棺を担ぐことを申し出た。その中から村長は10名を選んだという。植民地下の朝鮮では考えられないことであった。村人らの「アイゴー」の悲痛な叫びに送られて、寺から10町ほど先の共同墓地まで棺は運ばれた。巧は、「自分は死んでも朝鮮にいるだろう。朝鮮式に埋めてくれ」と言い残して死んだ。彼の遺言通り、全て朝鮮式で葬儀は執り行われ、朝鮮服に身を包まれた浅川巧は、朝鮮の土となった。
  当時、京城にて巧と親交のあった安倍能成(京城帝大教授、後の文部大臣)は、「私は淋しい。街頭を歩きながらもこの人のことを思うと涙が出てくる。私は東京にいて、この訃報を受け取ってしまった。人間の生死は測り知られぬとはいえ、これはまたあまりにもひどい。私は朝鮮に帰るのに力が抜けたような気がした」と語り、友人の突然の死を嘆いた。
  この安倍は巧を「官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生き抜いた」と評価した。その人間の力は、朝鮮を愛し、彼らの生活の中に溶け込み、その心の中に入ることでいかんなく発揮された。
  彼は薄給の中から、林業試験場に勤める朝鮮人の子弟数名に奨学金を出し、その世話を続けていた。街で男の乞食を見ると、必ず村役場に連れて行って、何か仕事を見つけてやり、女の乞食だと、ポケットに入っているお金をみなあげてしまった。こんな生活であるから、彼が死んだとき、葬式代も墓を作る金もなかったという。
  朝鮮の人々は日本人を憎んでも、浅川巧を愛した。彼の家の台所に人知れず、贈り物が朝鮮人から届けられたことも少なくなかった。貧しい彼らの巧に向けられた感謝の現れだったのだ。

泥池の一輪の白蓮

  終戦後、巧の兄伯教が朝鮮を引き揚げて帰国する際、彼が保管していた巧の日記を金成鎮という人に託した。韓国の工芸をこよなく愛し、またそれにもまして韓国人に温かく接した巧を常日頃尊敬していた人物であったからである。彼は1950年6月25日に勃発した朝鮮動乱の時、家財道具をことごとくうち捨てて、命からがら逃げ出した。この折、巧の日記を「敬愛する浅川巧先生の御霊」と思って、貴重品と共に背中に背負って釜山まで避難したという。
  この日記は、金成鎮氏によって1996年の春、巧の生地山梨県高根町に届けられ、現在高根町役場に大切に保管されている。この金氏は言う。「苛酷な日本帝国主義の植民政策の下、虐げられた被圧迫民族に対して、温情を注ぐことさえも日本の官憲に睨まれることであった時代に、韓国人を心から愛して下さった巧先生は、泥池に咲き出た一輪の白蓮と申すべきである。その崇高な人類愛の精神は先生を知る韓国人の胸の中に永遠に生き続けることを信じて疑わない」。
  植民地下の朝鮮で、浅川巧は当時の日本人が誰もなしえなかった偉大な仕事をなし遂げた。それは植林事業でも、朝鮮民族博物館を作ることでもない。それは朝鮮の人々を愛することで、彼らの心に内から住み、彼らの心を掴んだことである。安倍能成は、彼の死を「朝鮮のために大なる損失であることは言うまでもないが、私はさらにこれを大きく人類の損失だというのに躊躇しない」と言い切った。40年の短い生涯ではあったが、その足跡は彼を知る全ての人々の心に永遠に残っている。重厚にして偉大な人生であった。



a:21852 t:2 y:3