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後藤新平

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後藤新平 
(ごとうしんぺい)

民政優先の台湾経営
一にも人、二にも人、三にも人  人の世話をして借金

  後藤新平の生き方は、指導者の一つのあり方を示している。政策ビジョンを明確にし、その遂行のため、有能な人材を集める。そしてそのためにお金は惜しまない。混迷する現代社会において、指導者のあり方が問われている。後藤新平の生き方に一つの解答があるのかもしれない。

私心なき政治家

  後藤新平は、明治から大正にかけて活躍した日本を代表する政治家の一人である。台湾総督府の民政局長、満鉄総裁など日本の植民地行政に長く携わってきた。また東京市長(現在は東京都知事)として地方行政にも取り組み、内閣の仕事としては逓信大臣、外務大臣、内務大臣を勤めた。
  誰もが彼の政治家としての手腕を認め、総理大臣になる器として評価されながらも、国政のトップには上り詰めることができずに人生を終えた。彼の能力が不足していたからではない。むしろ、彼の偉大さこそが総理の道を妨げたのであった。彼は政治家として潔癖すぎた。金を集めたり、派閥を作ることに関心を示そうとはしなかった。人に媚び諂うこともできない人間であった。
  新平にとって最大の関心は、政策ビジョンとその実行である。そこに私心を入れず、妥協がない。その分、敵も多かった。総理になるには偉大すぎたのである。しかし、台湾や東京に残した彼の足跡は、今なお輝きを失うことはない。台湾が日本の植民地としてその辛酸を舐めながらも、比較的日本に対して好意的なのは、新平の植民地経営に負うところが少なくないように思われる。

内務省衛生局からドイツ留学

  社会人としての後藤新平は、医者として出発した。福島の県立須賀川医学校卒業後、19歳で医者としての現場を体験した。24歳にして名古屋の愛知県病院の病院長に昇進した。彼の才能と努力があったのは言うまでもないが、明治維新以降、近代医療を身に付けた青年を時代が切実に要請していたのである。
  医者として治療技術をマスターした新平の関心は、徐々に予防、あるいは衛生行政に傾斜していった。新平は愛知県令(知事)に衛生行政の意見書を提出した。これが内務省衛生局長の目に止まる。彼の意見書には、近代衛生行政の基本が説かれていた。衛生局長が調べてみると、名古屋における新平の医療は素晴らしい業績を上げている。衛生局長は新平を内務省衛生局にスカウトした。25歳の時である。
  1890年、新平32歳の時、ドイツ留学の話が持ち上がった。留学の条件はきわめて厳しいものであった。給料と旅費だけは支給、授業料や研究費はなし。新平は決断した。欧米での調査研究に対する意欲と情熱が、現実の厳しさに打ち勝ったのである。留守家族の生活を妻の実家に依存するという惨めな留学であった。
  この留学で新平は多くを学び吸収した。彼が留学した1890年は、ちょうどドイツ国勢調査の年であった。その調査、集計、作表などの方式を彼は詳細に調査し、それを日本に持ち帰ったのである。また翌年、ロンドンで開催された万国衛生会議にも、彼はドイツから出席し、衛生統計調査の重要性を改めて認識することになる。後にドイツの統計局長がドイツを訪問した日本人に対し、「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平ただ一人だ」と語ったという。
  ベルリンでは細菌学の世界的権威コッホに師事した。衛生局の後輩北里柴三郎の紹介である。コッホは新平の申し出に、「北里が自分の研究室に君を置いて指導するならよろしい」と答えた。これに対して新平は即座に、「日本の役所に帰れば私が先輩ですが、細菌学では北里が上です。おっしゃる通りにします」と応じた。この率直な態度がコッホを感激させた。新平は後輩である北里の研究室で約3ヵ月ほど細菌学を学び、これを修めた。
  その後、新平はドイツの衛生制度と社会政策を学ぶために、ベルリンからミュンヘンに移った。ここで医学博士号を取得している。2年余りの留学を終えた新平を待ち受けていたものは、内務省衛生局長のポストであった。日本の衛生行政に責任を持つ立場である。

台湾へ

  1894年、日本は日清戦争に勝利し、台湾を中国(清国)から割譲された。しかし、歴代の総督が頭を悩ませていた問題があった。ゲリラ問題である。アジアの新興国日本がはじめての植民地をどう経営するかは、各国の注目するところであった。日本においても、「ここで躓いたら日本は大国に蹂躙される」という危機感に襲われていた。しかし、このゲリラ問題で日本の台湾統治は暗礁に乗り上げてしまい、台湾放棄論や売却論なども出る始末であった。
  こういう中で最後の切札として登場したのが児玉源太郎であった。陸軍の重鎮であり、後の日露戦争の英雄の一人である。児玉は第4代総督就任が決まるや否や、新平を呼んで、台湾民政局長(後に民政長官)の就任を依頼した。当時、新平は内務省衛生局長として辣腕を振るい、その実績は児玉の耳にも届いていた。児玉は、新平が尊敬に値すると考えていた人物の一人である。その人物が新平を真っ正面に見据えて、「今、台湾をやるのは私と君だよ。他にはいない」と言い切った。新平の心は決まった。
  1898年3月、新平は神戸で乗船し台湾に向かった。この時新平は40歳であった。児玉総督は、新平を全面的に信頼し、台湾統治の企画立案からはじまって、その運営の大半を任せた。児玉は新平が活動しやすい環境作り、主に本国との調整を行い、この二人の絶妙なコンビが台湾近代化に大きく道を拓くことになるのである。

現地の習慣を重視

  後藤新平の台湾運営の基本的考え方は、彼自身がよく口にした「生物学の法則」というものであった。新平はよくこう言った。「平目の目を鯛の目にすることはできない」。平目という魚は目が片側に二つ付いている。鯛は片側に一つづつ付いている。鯛の方が貴重だからと言って、平目の目を鯛のようにすることはできないし、やってはいけない。つまり、日本人が台湾に来て、台湾人を日本人のようにしようとしてもできるはずがないし、やってはならない。つまり、現地の人々の習慣を重んじろということなのだ。
  実に新平はこの考えで台湾の近代化に取り組んだ。まずはゲリラ問題。当時、ゲリラの暗躍により殺し合いが頻発し、日本の軍隊や警察はかなり感情的になっていた。これに対して新平の考えは明快である。古来から、武力によって支配を永続できた国はない。台湾の運営は軍政によるのではなく、民政によるべきである。
  具体的には台湾全土に向かって「民政優先」を宣言し、「新総督としては、台湾全土の一家団欒を望んでいる。だから、帰順したい者は自由に官邸に来てよろしい。もしこれを疑うならば、民政長官の側からそちらに出向いて話し合ってもよい」と布告した。ゲリラに対する投降の呼び掛けである。
  当初、この呼び掛けに応ずるゲリラは皆無であった。しかし、彼らの宣伝と努力が実り、300名あまりのゲリラの一団が投降を申し出てきた。これに対して新平は「投降式をやろう」と言い出した。これに対しては危険だという声が大きかったが、新平はそれを押し切って断行した。この模様は台湾全土に大々的に報道され、安心したゲリラが次々に投降を始めた。
  新平は投降するゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。むしろ、「職を与えなければまたゲリラに戻りかねない」と言って、彼らを土木工事などに従事させ、彼らの生活の面倒をみたのである。このことが、さらなる相乗効果を生み出して、結果的にゲリラの大半が投稿した。そして、最後まで投稿しなかった一部のゲリラだけが、武力で鎮圧された。ゲリラ掃討の完了まで、新平の台湾赴任から数えて約5年経過していた。
  その後、彼の言う「生物学の法則」に基づいて、台湾の近代化を推し進めることに成功した。港や道路、鉄道を整備し、上下水道まで完備した。この上下水道に関しては、東京よりもずっと早く完備したので、台湾の人たちの自慢でもあったと言う。
  また殖産のため、三顧の礼をもって新渡戸稲造をスカウトし、台湾の産業育成に尽力した。新渡戸はさとうきびの品種改良を提言し、新平はそれを実行した。その結果、その改良品種は瞬く間に台湾全土に普及し、砂糖の生産は飛躍的に増大した。台湾に多くの富をもたらしたことは言うまでもない。

人のお世話をすること

  その後、新平は満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣、東京市長などを歴任して、総理大臣候補などにも名前を挙げられることもあった。晩年の新平はことあるごとに「自治三訣」を説いて回った。つまり、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」。
  彼の人生は、まさにこの言葉にそのまま表れている。次のようなエピソードが残っている。正力松太郎が新平を訪ねたときのこと。正力は警視庁警務部長で、内務大臣の新平の部下にあたる。この頃、ある事件の警備責任を取らされて失職中であった。そこで、新平に相談を持ちかけた。「読売新聞を買収して経営したい。そのために至急10万円が必要です。何とかなりませんか」と言う。
  当時の10万円といえば、バカにならない大金である。新平は1、2分考えた後、「いいよ、用意しよう」と言って、あっさり承知したという。その後、正力はこの金を元手に読売新聞に乗り込み、経営再建に成功し、黄金時代を築いたことはよく知られている。
  正力は「この金はどうせ政治家のことだから、どこからか都合してきたのだろう」ぐらいに考えていた。新平は金の出所に関しては何も言わなかった。正力が出所を知ったのは、新平が死んでからであった。実は自宅を抵当に入れて作った金であったのである。正力はこれを知って、男泣きに泣いたという。そして後に、新平の郷里の水沢に日本初の公民館を寄付した。かねがね新平が、「地域で人々が集い、議論するのが自治の出発点だ」と言っていたからである。
  新平は、まさに「人のお世話をすること」を文字通り貫いた人生を送った。また「一にも人、二にも人、三にも人」と言って、これぞと思った人材を集め、その世話をし、そのために金を惜しみなく使う。そのため、多額の借金を残して新平は死んだ。死後、麻布の自宅は取り上げられ、現在そこに中国大使館が建っているという。指導者の一つのあり方を後世に残した人生と言って過言ではあるまい。



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