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八田與一

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八田與一 
(はったよいち)


  八田與一は台湾の不毛の土地にダムを建設した。そのおかげでその土地に住む人々は、みな豊かになった。農民たちは自分たちの神様は八田先生だとまで言う。ダム建設を通して、八田與一は日台の信頼の架け橋を築いたのであった。

台湾の大恩人

  八田與一の名が日本人に知られるようになったのは、つい最近のことである。2002年11月、台湾の前総統である李登輝氏が来日し、慶応大学で講演する予定となっていた。ところが、外務省が日中関係の悪化を懸念し、氏のビザ発給を拒否したため、議論が沸騰した。
  その時の講演テーマが「日本人の精神」。結局、氏は来日できなかったものの、講演原稿が新聞紙上で発表された。その中で、氏は八田與一を詳しく取り上げ台湾の恩人として紹介していたのである。多くの日本人はこの時初めて八田與一の名を知った。氏の言う「日本精神」は、公に奉ずる精神であり、社会正義であり、率先垂範など武士道精神を言う。その精神が、八田與一という一人の日本人技術者を通して台湾でいかんなく発揮された。
  さて一人の土木技師であった八田與一が台湾でしたことは何なのか。台湾で不毛地帯と言われていた嘉南地域にダムを建設したのである。そのダムのおかげで、貧しいこの地域が豊かな一大穀倉地帯に変貌したのである。台湾の人々は言う。「八田さんがこの工事をしなかったら今でもこの辺りでは米は取れなかっただろう。私らにとってみたら、大恩人ですよ」。別の人は「大恩人というより、神様だな」と言う。台湾は戦前日本の植民地に甘んじていながら、比較的親日的だと言われるのも、八田與一のような人物の活躍があったからである。

嘉南平野の灌漑計画

  八田與一の台湾との関わりは、社会人としての出発と同時に始まる。1910(明治43)年、東京帝国大学土木科を24歳で卒業後、すぐ台湾総督府の土木部に就職した。外地に夢を馳せ台湾に勇躍したのである。台湾が日本の領土となって15年目のことであった。
  與一が担当した最初の大きな仕事が、「桃園■圳(ひしゅう)」の設計である。台湾北西部の平野2万2千ヘクタールを灌漑する大事業で、川からの水路の途中に溜池を数多く配して、雨水をも蓄えようという設計であった。工事に9年ほどかかって完成した後、この地域の米の収穫量は4倍に増えたという。
  さて、與一が「台湾の恩人」と称されるほどに尊敬をうけた事業が、それに続く嘉南平野(台湾の南西部)の灌漑であった。この地域は昔から、台湾で最も貧しい土地で、降雨が少ない上に、雨期(5月から10月)に年間雨量の9割が集中する。平坦な土地柄で排水も悪く、洪水や旱魃が繰り返されていた。そこにダムを造ろうと言うのである。
  調査に当たった與一の構想は大きく膨らんだ。嘉南平野には、北に濁水渓、南に曽文渓という二つの川が流れている。一つの川では水量が足りない。ならば二つの川から取水して、巨大ダムと水路を造り、50万人の農民が住む15万ヘクタールを灌漑したらどうか。これは台湾の全耕地の5分の1に相当する。與一の計画では、直径9メートルのトンネルを掘る必要があったし、ダムの高さは56メートルにも達する。東洋一のダムである。壮大な計画となり、当然工事費は巨額なものとなる。

3年輪作制

  八田與一の偉大さは、単に技術屋としての優れた専門性のゆえばかりではない。農民の幸福のために何が必要かという観点を常に持ち続けていたことである。浄土真宗の盛んな土地で生まれ育ったせいか、與一は幼い頃から、信仰心が厚かった。農民への思いも、彼の厚い信仰心を抜きには語ることはできない。
 李登輝氏は、「八田さんの本当に大きな貢献は3年輪作だと思う」と語っている。與一が考案したこの3年輪作制にこそ、彼の農民への思いが込められているのである。與一の考えはこうだ。嘉南平野に巨大ダムが完成されたとしても、この地域に必要な水量の3分の1しか供給できないことはわかっていた。そこで與一は一種の社会主義的管理体制とも言えるような計画を打ち出した。
  各地域に水を3年に1度だけ供給するシステムである。このために稲作とサトウキビ栽培と畑作の3種を1年ごと順番に行なうことにする。なぜなら、稲は大量の水が必要であるが、サトウキビはさほど必要ではなく、芋などの畑作にいたってはほとんど必要ない。水の不足も解決する。この案がうまく機能するには、農民が作る作物をきちんと守らなければならないし、互いがエゴを捨て、協力し合う必要がある。成功すれば農産物の飛躍的増産が期待できた。
  與一のこうした考えは、真宗王国(浄土真宗)と言われていた彼の郷里(石川県)の持つ宗教的風土の影響によるものと思われる。與一の内面に染み付いた仏教精神は、給水を受ける農家だけが豊かになるという不平等を許さなかった。「同じ嘉南に住む農民が給水地域だけ近代農法で豊かになり、残りが封建的な貧しさから脱却できないというのは、台湾の将来にとって決して良いことではない」と言って自説を押し通した。技術者の発想を越えている。

ダムと水路の完成

  1930(昭和5)年3月、10年の歳月を経て工事は完了した。烏山頭ダムと嘉南大圳(たいしゅう)と呼ばれた巨大水利構造の完成である。満水になるまでに2ヵ月もかかったほどのダムで、約1億5千万トンの水を蓄えることが可能となった。この水が嘉南平野に網の目のように張り巡らされた水路を通して運ばれる。水路の全長は1万6千キロメートルに及び、万里の長城の6倍に達するものであった。
  ダムが満水になった5月15日、水路に水を流す通水式が行なわれた。ダムの水門が開き、毎秒70トンの水が勢い良く噴出する。水は幹線から支線、そして分線へと静かにゆっくりと流れ込んでいく。水が台南(台湾南西部の都市)の海岸近くに届くまでに2日かかったと言われている。
  この嘉南大 がもたらした利益は計り知れない。7年後の1937年には、この地域の米の生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍となった。予想を大幅に上回る実績であった。この地域で生産された農作物は、その後日本への一大輸出商品となっていったのである。その上、土地の値段も跳ね上がり、総督府予算の約半分を費やした建造費は、十分元が取れたという。
 それだけではない。農産物で稼いだ外貨が工業化に転嫁され、その後の台湾経済の産業高度化を大きく下支えしたのであった。後の奇跡の経済成長は嘉南大圳の完成から始まったと言っても、決して過言ではないのである。

有能な者から解雇

  嘉南大圳の工事は決して順風満帆に進んだわけではない。工事が始まってまだ2年ほどしか経っていない1922(大正11)年12月、ダムに水を引くために掘られていたトンネルで爆発事故が起こった。50人が死亡する大惨事となった。與一は犠牲となった台湾人工員の家を一軒一軒回ったという。
  工事が完了した1930年、「殉工碑」が建てられた。そこには日本人41名、台湾人92名の名が並んでいる。工事期間中に事故や病気で亡くなった人々であった。そこに與一が起草した一文が刻まれている。殉工者の尊い犠牲のゆえに工員たちが鼓舞され、困難な事業が完成できた旨が書かれていた。
  爆破事故の翌年(1923年)、9月1日関東大震災が起こった。この影響は台湾総督府にも及んだ。東京に援助金を出さなければならないため、予算を大幅に削減せざるを得なくなったのである。当然、工事の資金も欠乏し、職員3分の1の整理が決定した。人選は與一に一任された。一番苦しかった時である。
  與一は退職者一人一人を所長室に呼んで、賞与金を手渡した。胸がいっぱいになって、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。周囲の人々が與一の涙を見たのは、この時が初めてだったという。よほど辛かったのであろう。
  驚くべきことは、退職者の選別基準である。常識的には有能な者をまず残すはずである。しかし、彼は有能な者から退職させた。彼らはその能力ゆえに再就職が可能であるという判断であった。技術者、経営者の発想を超えている。一人の人間として彼らに接している與一の姿勢を見ることができる。

民族を超えた存在

  彼は仕事上、しばしば雷を落とした。しかし人望を失うことはなかった。彼の責任感と部下に対する思いやりを誰もが感じていたからである。それに率先垂範である。與一の一日は午前5時半から始まり、夜11時まで働いた。寝るのはいつも午前2時。眠くて仕方ない部下も與一に従わざるをえなかったという。また、それ以上に特筆されるべきは、植民地下の台湾で、台湾人と日本人を全く差別なく扱ったことである。だからこそ、支配される側の台湾人から信頼され、尊敬され、そして愛された。
  現在八田與一の銅像が、自分が作ったダムを見下ろすように置かれている。蒋介石時代の台湾では、日本人の銅像は禁止であった。しかし、嘉南地域の「農田水利会」の人々は、逮捕される覚悟で事務所内に與一の銅像を隠し、「大変な恩恵をもたらした人だ。技術に国境はない」と言って守り通した。彼らは八田の恩に報いたかったのだ。
  1942年5月8日、フィリピンに向かう船に與一は乗っていた。フィリピンの灌漑整備の要請を受けたものであった。しかし、時は戦時下。與一の乗った「大洋丸」はアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。56年の短くしかし重厚な生涯が終わった。
  與一の死後、妻の外代樹は夫の後を追うように烏山頭ダムに身を投げた。45歳であった。水利会の人々は、八田夫妻の墓を造り、二人の遺骨を併せて納骨した。墓は日本風に、台湾では滅多に産出されない花崗岩を使用した。八田夫妻に敬意を表すためであったという。水利会の人々は、戦後絶えることなく與一の命日に慰霊祭を続けている。
  台湾で刊行された『台湾名人伝』という本がある。中華民族傑出の人物たちの伝記なのであるが、そこに八田與一も取り上げられている。日本人でありながら、台湾の人々のために生きた與一の生涯は、民族や国境を越えた存在として称えられているのである。


※漢字解説

桃園■■(ひしゅう)圳
 この「ひ」は、「卑」に「土ヘン」を左に付けたものです



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